「井の中の蛙大海を知らず」ということわざがあります。
狭い世界にこもって広い世界を知らないこと、自分の住んでいるところがすべてだと思い込んでいる人のことを、批判する時に使われるのはみなさんご存知の通りです。
もし「あなたは井の中の蛙だ」なんて言われたら、きっと悲しい気持ちになるし、一度は違う世界へ行ってみるべきかなと思うかもしれません。
しかし、あえて井戸の中に留まる決意をし、外から人が集まってくる場にしてしまった人が、三重県尾鷲市にいます。それが、「夢古道おわせ」で支配人を務める伊東将志さんです。
僕は良い井戸にいたんですよ。
時に外から来た人や外へ出ていった人から、「井の中の蛙だ」と言われたことを振り返り、伊東さんは笑います。
伊東さんが支配人を務める、観光施設「夢古道おわせ」は2006年にオープン以来、次々と新しい企画を仕掛け、人口約1万7000人の尾鷲市にありながら年間20万人もの人が訪れる観光名所に育ちました。
名古屋から電車で約2時間30分、かの有名な伊勢神宮からも車で約1時間20分と決して立地には恵まれていない尾鷲に全国から人が訪れるようになったのは、この10数年のこと。その間、最前線で走り続けた伊東さんに尾鷲で生きる選択をした理由、生み出した数々のプロジェクトの背景にある思いを、尾鷲の町をご案内いただきながらお伺いしました。
三重県尾鷲市出身。地元高校を卒業後、尾鷲商工会議所へ就職。記帳指導員・経営指導員として働いた後、「夢古道おわせ」へ出向。立ち上げ時から関わり、「夢古道おわせ」の運営を担う。2012年から3年間、尾鷲商工会議所にて日本初となる商工会議所型 長期実践型インターンシップ事業を立ち上げ、新しい経営支援の形を生み出す。2014年に尾鷲商工会議所を退職し、「夢古道おわせ」を運営する株式会社熊野古道おわせに入社。現在、支配人を務める。
郷土料理のランチバイキングに、お風呂。
年間20万人が訪れる「夢古道おわせ」
私の地元である三重県松阪市から、特急に乗って約1時間20分。尾鷲駅に到着すると、伊東さんが出迎えてくれました。
尾鷲駅からさらに車で約10分。市街地のはずれにある小高い山の上に、伊東さんが支配人を務める「夢古道おわせ」はあります。
「夢古道おわせ」は、お食事処とお風呂から成っています。到着したのはお昼過ぎ。まずはお食事処で、尾鷲の味を思いっきり楽しみましょう。
尾鷲の旬の食材を使って、尾鷲のお母ちゃんがつくった郷土料理を楽しめる「お母ちゃんのランチバイキング」は、地元の人にも、観光客にも大人気! 子どもからお年寄りまでさまざまな年代が楽しそうに食事をしていました。
調理は3地域のグループが週替わりに担当し、毎日20~25種類の料理がカウンターに並びます。私たちが訪れた月のメイン食材は、ソマガツオ。何を食べようか迷ってしまうほどおいしそうな料理とともに、元気いっぱいのお母ちゃんたちが笑顔で出迎えてくれました。
お腹がいっぱいになったら、お風呂へ。お食事処の隣に、紀伊半島では唯一となる海洋深層水を使ったお風呂があります。
休憩室からは、尾鷲湾と熊野古道が通る天狗倉山(てんぐらさん)を望むことができます。眺望を楽しむもよし。ハンモックに揺られながら2000冊の漫画を読みふけるのもよし。あまりに心地が良いので、あっという間に時間が経ってしまいました。
お食事処とお風呂にはそれぞれ物販コーナーがあり、尾鷲で採れた野菜や尾鷲ヒノキを使ったまな板、塩など尾鷲ならではの商品が売られています。野菜は、車を運転できないおじいちゃん・おばあちゃんに変わって、毎日「夢古道おわせ」のスタッフさんが、取りに行っているのだとか。
売られている商品一つとっても、この場所がいかに尾鷲に根付いて運営されているのか伝わってきました。
みんなが選ばない道をいった方が、おもしろいに違いない
お母ちゃんのランチバイキングとお風呂を楽しんだところで早速、伊東さんにお話をお伺いしていきましょう。
現在「夢古道おわせ」の支配人を務める伊東さんは、44年間一度も町を出ることなく生まれ育った尾鷲で生きてきました。尾鷲で生きる選択をした背景には、どのような思いがあるのでしょうか。
伊東さんは高校の商業科を卒業後、尾鷲商工会議所に就職。「夢古道おわせ」に関わる以前は、記帳指導や経営指導担当として尾鷲の中小企業のサポートをしていました。高校卒業後に町に残る人は、わずか5%。都市部への進学・就職という選択肢がある中で、伊東さんは尾鷲に残る選択をしました。
17歳の時の選択を、伊東さんはこう振り返ります。
夢や希望を持っていて、何者かになりたかった。普通、何者かになりたいなら尾鷲を出て東京や名古屋など都市部へ行く選択をしますよね。でも都市には全国からたくさん人が集まってくるから、僕が大勢と競争して、何者かになれるとは思えませんでした。
尾鷲に残る人生と都市に出る人生、どちらが平凡ではないかと考えた時、尾鷲に残る5%になる人生じゃないかって。みんなが選ばない道に行く方が、おもしろいに違いないって思ったんです。
普通が一番難しいとは思いながらも、今日も同じ、明日も同じではつまらない。17歳の伊東さんは、何の分野かはわからないながらも、尾鷲で1位になることを志します。
高校野球と同じことが、世の中にもあるんじゃないかと思いました。同級生は400人。その5%の20人しか尾鷲に残らないなら、尾鷲で1位になれんじゃないか。そしたら、何かの間違いで三重県代表になれるかもしれない。
東京に行ったら、きっと僕は東京代表になれない。でも三重県代表になれたら、実力は違っても東京代表と同じ枠組みに入れるかもしれないと考えたんです。
何より僕は尾鷲が好きだった。母の影響も大きくて、母は尾鷲以外の町を知らないのに、「この町が一番いい」って言うんです。他の町を知らないのに変な話だけど、いいなって。この町にいてもダメだってみんながいうから、それをなんとかする方がおもしろいと思いました。
先輩経営者から受け継いだ尾鷲への思い
伊東さんは、「大好きな尾鷲のために働ける、転勤のない仕事はないか」と高校の先生に相談。紹介された商工会議所に就職し、社会人としての一歩を踏み出しました。
慣れないことに必死な毎日。「自分の仕事が町のために本当に役に立っているかわからない」と悩んだこともあったそうですが、尾鷲を本気で思う人々との出会いから、伊東さんが抱いていた迷いは消えていきました。
70代、80代の経営者に可愛がってもらい、よく飲みに連れていってもらいました。彼らは戦後の焼け野原から一代で商売を築き、大きな会社にした方々。尾鷲のために、みんなで町をつくってきたんだという話を聞いていました。
あそこに道をつくろうとか、この企業を誘致しようとか、上の世代の人たちがみんなで声を上げて、尾鷲の町をつくっていったんだということ感じ取りました。きっと先輩方は、僕にバトンをつなごうとしていたんだと思います。
とはいえすぐには伊東さん自身が尾鷲のまちのために、何者かとしてできることは見つかりませんでした。
しかし商工会議所で働きはじめて12年目のとき、転機が訪れます。2004年、熊野古道が世界遺産に登録されたのです。
尾鷲の町を揺るがす久しぶりの大ニュースでした。過去にも国道が通るとか、大型ショッピングセンターがオープンするとか、尾鷲の人にとってニュースはあったけれど、いずれも僕はいなかったんです。僕が生まれてからの大きなニュースが世界遺産登録で、話を聞いた時に「これだ!」と思いました。
世界遺産に登録されたら、全国そして世界からも人がやって来る。おもてなしをしよう。イベントをしよう。交流拠点施設をつくろう。さまざまな議論が巻き起こり、尾鷲が大きく動き始めました。その渦中に、商工会議所で働いていた伊東さんも、否応なしに巻き込まれていきます。
商工会議所の仕事と並行して、夜は尾鷲の企業経営者や住民、行政職員などさまざまな人たちと尾鷲の未来について考える会議が続きました。
僕はそこに議事録係として参加していたのですが、大人たちが真剣に町について語っている様子を見て、ワクワクしたんです。記帳指導や経営指導よりも、町のために仕事をしている感じがしました。
時を同じくして、尾鷲に「三重県立熊野古道センター」が建設されることが決定。そばには後に「夢古道おわせ」となる交流拠点施設をつくることになり、その施設を商工会議所の会員が出資しあって会社を設立、指定管理者として運営することになります。
“何者”かになるスタートラインへ
商工会議所の会員はみんな経営者。それぞれ自分の会社を経営しているので、新会社の運営に十分な時間をとることは不可能です。しかも、成功するかは未知数。失敗した時の責任を負うことを恐れた関係者は、一人また一人と会議から抜けていったそうです。
「うまくいくはずがない」、「泥舟に乗りたくない」、そんな声が聞こえてくる中たった一人、伊東さんだけがチャンスと捉えていました。
ある日の会議で、商工会議所の職員のうち「夢古道おわせ」を現場で運営する人が必要だという議論になって。「はい!」と議事録係の僕は、選手宣誓をしました。待ちに待った瞬間。熱い思いを持って手を挙げたのに、僕以外に誰もいないから「おおそうか、よろしく」って軽い感じで決まったんですよ。
何者かになりたいーー。17歳の時に抱いた野心を叶えるスタートラインに、伊東さんはついに立ちました。
この時も、5%の方がおもしろいって思ったんです。みんながダメだと言う道を行った方が、おもしろいしドラマチックに違いない。成功しても失敗しても、今日と違うことが起こるかもしれない人生の方がワクワクするし、直接的に町のために何かできるかもと思ったんです。
選手宣誓をしたのは、伊東さんが29歳の時のこと。就職から実に10年以上もの月日が流れていました。
尾鷲のグッドニュースを発信しつづける
ニュースメーカーとして
2006年、お風呂に先駆けてお食事処がオープンしました。伊東さんは運営スタッフとして、立ち上げに奔走。「お母ちゃんのランチバイキング」の実現に向けて、尾鷲のお母ちゃんたちをくどき、出店チームを募っていきました。
有名なシェフが監修した料理や三重県の名産である伊勢海老、松阪牛を出すことも案にありましたが、尾鷲ならではのものってなんだろうと話し合ったんです。その時浮かんだのが、どこにでもありそうだけれど尾鷲でしか食べられなくて、毎日食べても飽きない浦々に伝承されてきた郷土料理でした。
尾鷲は市街地と、9つの浦(入り江の小さな町)に分かれていて、それぞれ文化が異なります。浦で暮らす人たちは自分たちの町をとても大切にしていて、各浦にしかない料理があるんです。浦ごとにチームをつくり交代で調理を担当してバイキングにしたら、尾鷲唯一のものになるのではないだろうかって。
高級食材でもなければ、有名シェフがいるわけでもない。だけど尾鷲でしか食べることのできない、お母ちゃんのランチバイキングは観光客にも地元の人にもあっという間に大人気になりました!
ランチバイキングは、浦々の郷土料理を次世代に残す取り組みとして注目されるほか、卒業したチームが自分の浦でカフェを始めるなど、高齢者の起業支援にもつながっています。
そして2007年には、お食事処のそばにお風呂をオープンしました。
中間支援の仕事が主だった商工会議所から、「夢古道おわせ」の現場へフィールドを変えたことで、伊東さんはこんな気づきがあったそうです。
経営指導をしていたけれど、納品書の書き方も知らないし、物を売ったこともありませんでした。もし商工会議所に残ったままだったら、机上の空論を語り続けていたかもしれません。「夢古道おわせ」で経営者と同じ立場に置かれて、商売の厳しさを肌で実感できたのは、良い経験になりました。
さらに伊東さんは、若かりし頃に何者かになりたいと願ったその答えを、「夢古道おわせ」で見つけます。
お風呂をオープンする時、多くのメディアが取材に来てくれましたが、モデルを用意してなくて。「仕方ないけど、伊東さんでいいです」となり、僕は全裸で新聞の一面を飾ったんです(笑)
商工会議所の頃は、誰かを主役にしてその人を応援するという形だったけれど、この時に自分が前に出てしまう方が早いし、責任を持って思いを伝えられるということに気付きました。
そこから自分が表に立ち、ニュースメーカーとして尾鷲のグッドニュースを発信していこうと、色んなプロジェクトを打ち出すようになりました。
95%の人が匙を投げる案件こそ
ニュースになる要素を秘めている
ニュースメーカーとして役割を見つけた伊東さんは、次々とプロジェクトを仕掛けています。
例えば、尾鷲ヒノキの入浴木にメッセージを書いてお風呂に浮かべる「100のありがとう風呂」。これは間伐材が売れないことから伐採する人が減り、森林が荒れ、土砂災害の危険性が高まっているという課題から生まれました。
森林に係る関係者の方たちが匙を投げている案件も、もしかしたらお風呂屋の僕たちがアプローチしたらニュースになるかもしれない。「みんなが使わない細い間伐材だけで商品をつくる」というお題と捉え、それに僕らなりの答えを出してみようと考えた結果が、ありがとう風呂です。
ただお風呂に木を浮かべるイベントではなく、そこに「間伐材の問題を解決する」という社会性を持たせることで、メディアに取り上げてもらえるニュースになります。
うちの入浴木を使うことで、尾鷲の森を守ることに全国の温浴施設が知らず知らずにうちに貢献している。ありがとう風呂のように、途方もない問題にアプローチしているんだけど、気がついたら状況が良くなっているという仕組みを僕はもっとつくりたいんです。
また尾鷲商工会議所では2012年から3年間に渡り、日本初となる商工会議所主導の長期実践型インターンシップをスタート。都市部に住む就業意欲旺盛な大学生が住み込みで尾鷲に滞在し、中小企業が抱える課題を解決するプログラムを実施しました。
尾鷲商工会議所は、「最強の商工会議所」を目指しています。でも最強の定義は決まっていなかったので、「誰もやったことがないということは、僕らが1位。だから最強です」と会頭を説得して実現しました。
商工会議所型の長期インターンシップは、尾鷲の持つ資源やポテンシャルと中小企業の課題、挑戦する若者をマッチングすることで企業に対して価値を生む、まったく新しい経営支援の形として、全国からもご注目をいただきました。
他にもさまざまなプロジェクトを仕掛ける伊東さんの周りには、いつも企業や若者が集り賑やか。伊東さんがつくったプロジェクトをきっかけに、尾鷲の町がゆっくりと動いているのを実感します。
1000年後の尾鷲に思いを馳せる
伊東さんが子どもの頃住んでいた家、青春時代を過ごした思い出の堤防、「お母ちゃんのランチバイキング」から独立したチームが開いたカフェ……尾鷲のあちこちをご案内いただいた1日の最後に伊東さんは9つある浦の一つ、九鬼(くき)を案内してくれました。
九鬼は昔から「風待ち港」と呼ばれていて、台風の時も海は静かなんですよ。魚がたくさん獲れる静かな入江だから、ここに町ができた。九鬼ではきっと1000年前も魚が穫れていて、このまま行けば1000年後も魚は獲れるはず。時代が変わっても、生産地に近いところは強いと思います。
時代に合わせてデザインや流通を変えて一時注目を浴びるよりも、ここで1000年後も魚が獲れつづけることの方が、僕は重要だと思うんです。
大きな流れの中で本質を見失わないことが大切だとした上で、伊東さんは自分の役割についてこう考えています。
僕が元気でいられるあと20~30年の間に大逆転して、九鬼が1万人の町になることはないけれど、資源や文化など絶対に守らないといけないことがある。僕がやっていることはきっかけにすぎない。町を大きく変えることはできないけれど、間違わない方法を選びたいなって。
地域は明日変わらなくても良い。ゆっくりで良い。
僕ができるのは地域が困っていることに、解決策を提示すること。そしてグッドニュースをつくって尾鷲から全国へ発信することです。良い流れをつくって、尾鷲の町を次の人、また次の人へとつないでいけたらいいですね。
生まれてこのかた44年、生まれ育った町を一度も出ることなく尾鷲で生き続ける伊東さん。「井の中の蛙だ」なんて言われることもあったけれど、仕事がおもしろくなくてくさった時期もあったけれど、それでも自分と尾鷲の可能性を信じてこれた背景には、尾鷲に遊びに来た友人たちの声がありました。
僕が好きな場所に連れていって、好きなものを食べてもらって、好きな人に会ってもらう。すると「景色がいいね」、「おいしいね」って褒められるんです。尾鷲に住んでいる人からすると、これ以上ない喜びなんです。僕が尾鷲で生きる選択をしたのは間違いじゃないよと言ってもらっている気がして。そういう積み重ねがあって今があります。
井の中の蛙だったけど、僕はいい井戸にいたんです。外の視点が気になったこともあります。尾鷲に残って何で闘うかも決めていなかったし、何のスキルを伸ばせばよいかもわからなかったけれど、10代の頃から可能性だけはとにかく信じていました。
自分が大切なものを大切にできる伊東さんを、私はただただかっこいいなと思いました。
素直で、ひたむきで、まっすぐな伊東さんがニュースメーカーとして生み出す尾鷲のグッドニュースに、これからも目が離せません。
もし今あなたに何か強い思いがあるのなら、自分を信じてまっすぐに進んでみてはどうでしょう。私も自分の気持ちに、素直に歩んでいこうと思います。
(撮影: 中西拓郎、向晴香)