現在、株式会社ミライロでユニバーサルマナー講師を務め、「NEWS ZERO」をはじめとする数々のメディアに登場している岸田ひろ実さん。
彼女は、ダウン症である長男の誕生、夫の突然死、そして自身が急病で倒れ下半身不随になるという多くの苦難を乗り越えて今に至ります。
もちろん、それは平坦な道ではありませんでした。
しかし、そんな苦しい状況があったとは少しも感じさせないような笑顔を湛えて、年間180回を超える講演でご自身の人生をお話されていらっしゃいます。
昨日公開の前編では、彼女が倒れてからどうやって立ち上がる努力をしてきたのかをお聞きしました。後編ではそこからさらに飛躍して、サポートされるばかりだった立場からどうやって希望を「与える」側になったのかをお話しいただきました。
今回も、ご本人の言葉でお届けします。
株式会社ミライロ 講師
日本ユニバーサルマナー協会 理事
1968年大阪市生まれ。知的障害のある長男の出産、夫の突然死を経験した後、2008年に自身も大動脈解離で倒れる。成功率20%以下の手術を乗り越え一命を取り留めるが、後遺症により下半身麻痺となる。
約2年に及ぶリハビリ生活を乗り越えて2011年、娘が創業メンバーを務める株式会社ミライロに入社。自分の視点や経験をヒントに変え、社会に伝えることを願い、講師として活動を開始。 高齢者や障害者への向き合い方「ユニバーサルマナー」の指導を中心に、障害のある子どもの子育てについて等、年間180回以上の講演を実施。2015年はハワイにてADA法を学ぶ旅行ツアーの企画・アテンド、2016年はミャンマーにて知的障害のある子どもの両親への講演など海外での活動も実施。
2014年開催の世界的に有名なスピーチイベント「TEDx」に登壇後、日本経済新聞「結び人」・朝日新聞「ひと」・NEWS ZERO「櫻井翔のイチメン!」など数々のメディアで取り上げられる。WEBでの特集記事はSNSでシェア5万件を越える。
2017年に初の著書「ママ、死にたいなら死んでもいいよ」を上梓し、またテレビ朝日「報道ステーション」にコメンテーターとして出演も果たす。
落ち込んでいた理由は歩けないことではなかった
車椅子生活になって3年くらいは、やっぱり嫌で嫌で、恥ずかしくて外にもあんまり出たくなかったです。
街で人に見られたら「私のことジロジロ見てる!」「見ないでほしい!」と思ったし、「声もかけないでほしい!」という感じで、自分でバリアを結構張って、なるべく周りをシャットアウトしたい気分でした。
友だちも、本当に何でも打ち明けられる2〜3人の親友以外は、あまり会いに来てほしくなかった。だから、お見舞いに来てくれた友だちに「またみんなと一緒にどこどこいこうね」とか「同窓会するからね!」と言われても、全然うれしくなくて。私の精神状態がそこまで元気じゃないのに、どんどん言われると逆につらい時期もあったんですよね。
でも、やっぱりそんな時でも何でも言えるのが家族です。まずいちばん元気になれたのが「沖縄に行こう」っていう娘からの提案でした。「退院したら、とにかく行こう」と。
車椅子で行けるのかどうかも、そんな費用があるのかもわからないけど、とにかく「沖縄に行く」っていう共通の目標・希望ができたんです。いいことも悪いことも全部知っている人に寄り添い続けてもらいながら、「今、自分に何ができるのか」と考え、前向きな目標や希望を持てたことが、立ち上がれたきっかけかなと思いますね。
そしてもうひとつ、「歩けなくても、このままの自分でいいんだ」って自分を受け入れ始めた頃から、いろんな周りの言葉を素直に受け入れられるようになりました。
みんなが私のために何かしてあげたいと思ってくれる気持ちは変わらないですけど、最初は私の気持ちがついていかなかったんです。
私は「歩けなくなったから悲しい。そして歩けなくなったから人から必要とされていない、だから悲しい」と思ってたんですけど、よくよく考えてみると、自分自身を受け入れてなくて、自分のことが嫌いだったことに気づいたんです。
歩けない自分が、かっこ悪くて恥ずかしいと。歩けないことではなくて、それが理由で自分自身に落ち込んでいたんですね。
自分自身を一番辛く責め続けていたので、まずは、この歩けなくなった自分を好きにならなければいけない。自分を受け入れられなければ、人からどんな優しい言葉をかけられても、ずっと後ろを向いたままだったんだろうなって思うんです。
「人からどう思われてもいい、だって私なんだから」と、私が私のままでありつづけることが、一番自分の心を安定させるんだなと気づいたんですよね。
人から何を言われても、人にどれだけ救いの手を差し伸べられても、自分が自分に納得できるようにならなければ、他力本願では絶対に前に進めないと。
死と向き合ったことで生きていくことを決めた
私は以前、娘に「死にたいなら死んでもいいよ」と言われたことがあります。車椅子生活が始まり、外に出られるようになって間もない頃、私があまりの辛さに思わず娘に「もう死にたい」とこぼしてしまい、「しまった!」と思った時に娘から返された言葉です。
その時は、当然「死なないで」と泣く娘を想像しましたから、「えっ??」と思いましたが、その言葉で生きようと思えました。
というのは、「えっ?」と驚いたとともに「あ、私、生きたいんだ」と気づいたから。
今思えば当時は「死ぬことすら許されない」というのがとっても苦しかったんだと思うんです。でも「死んでもいい」って言われたら、心が楽になりました。
「死生観」っていうのもあって、「死」と一生懸命向き合ってる人ほど、生きる意味の価値がわかりますよね。私は死ぬことではなく生きることを選んだんですけど、なんで今が幸せかって、ずっと死と向き合ってきたからです。
それは夫の死もそうです。「人間って死ぬんだ、こんな簡単に」と思った。今まで喋って動いて、感情があって、思いがあった人が、形はあるけど、死ねば亡骸です。「無」ですよね。
自分も死ぬはずが生かされて、生かされたのに当初は死ぬことばかりを考えていたからこそ、この「生きる」っていう意味をものすごく、今、噛み締めているんです。なので、死と向き合うっていうことも、またひとつ大切なことだと思います。
これだけ自分にいろいろなことが起きた。でも、「乗り越えた」とか、「がんばってここまできた!」という思いがそんなにないんですよ(笑)
人生そりゃあいろいろあります。でも、そんな出来事はどうすることもできなくて、でもそれぞれに意味があることだし、それを経験することで、その人自身が絶対に素敵になるっていうのは間違いないと思っています。
車椅子の生活かそうでない生活か、どっちかの道をもし自分が選べたとしても、「選ぶこと」が重要なのではなくて、こうなった道、選んだ道を「どうやって歩んでいくか」の方が大切だと思うんです。
どうやって歩んでいくかは自分で決められるから。
なのでもうオールOK、何が起こっても、オールOKです。
人の役に立ちたいと思えるようになるまで
そんな私が「人の役に立ちたい」と思えるまでには、それなりに時間がかかりました。自己否定ばかりしてしまい、「生きている意味がわからない」「死んだほうがマシ」と思っている時期があったし。がんばったところで歩けないし、人のお世話にならないと生きていけない。
どうしたらいいんだろうと考えていたときに、娘から「とりあえず私の役に立ってる」と言われ、はっとしました。私が人の役に立ってる。だったら、人のためにがんばってみることなら、ちょっとはできるかもしれないと。
歩けなくなる前は整体の仕事をしていたんですが、それも「これからやるぞ!」っていうときに病気になって、すべてできなくなってしまった。また誰かのために社会に出て何かをしたい、でも歩けない、何ができるだろう・・・ そんな時期に「心理カウンセラー」という道があると知りました。
私と同じように苦しんでいる人や落ち込んでいる人の心だったら、歩けなくても救うことができるかもしれない。そう思って、学校に行って学び、資格を取ってセラピストとして活動を始めたんです。
活動を始めると、患者さんが来てくださって、「本当に岸田さんに会えてよかった。会えなかったら私はずっとこのまま辛い思いをしながら生きていたかもしれないけど、人って変わるんですね」って言ってくださった。
そのときに、その方が私と同じように「また生きていっていいんだ」と自信を持つ様子を目の当たりにしたときに、ものすごく自信になりました。自分の価値を感じたというか。
そうやって人に頼られて「ありがとう」と言われ、役に立っていることで「ああ、私はどんどん元気になっていってるな」と感じられるようになっていきました。
ユニバーサルマナーを世界に誇れる日本の文化にしたい
日本のユニバーサルデザインや、交通や施設など、環境におけるバリアフリーの普及は、世界トップレベルだと言われています。
私は電車や新幹線で移動することが多いですし、飛行機も乗りますし、普通の道も普通に車椅子で歩くんですけど、多少の不便はあるものの、さほど不安なく過ごせています。
どこの鉄道会社もお手伝いをお願いすると、乗せていただいて次の駅では必ず駅員さんが待っててサポートしてくださる。私はこの3~4年、たくさん移動するようになりましたが、着実に車椅子ユーザーの方とすれ違うことが増えてきてるんですよ。
環境が整ってきて、同時に人の意識も変わってきているなと思います。お声がけしてくれる機会も多くなってますし、サポートしてくれるスタッフの方も増えてきている実感がありますね。
しかしやはり、個人の飲食店や小さな店舗だと、まだまだなところもあります。でも1段くらいの段差だったら、たとえばおひとりの方にサポートしていただければ全然問題なく移動できます。
なので「心のバリアフリー」、つまり障害者だけじゃなくって、障害のある人もない人も、困ってる人がいたらみんなが「何かお手伝いできることありますか?」って普通に声を掛け合えるような社会になってほしいなって思っています。
まずは声をかけて「結構です、大丈夫です」って言われたら見守っておくだけで、それ以上、何もする必要はないわけで。お声がけを待ってる方って、たくさんいらっしゃると思うんですよね。
もちろん、声をかけられて断る方もマナーが必要です。たまたま機嫌が悪かったりする方や、過去に嫌な思いをしている方などは、辛辣な態度をとられることもあります。でもやはり、声をかけるっていうことのほうが、より大切。堂々と自信を持って、声をかけていただきたいなと思いますね。
私は、この大切な「ユニバーサルマナー」っていう考え方を、日本の文化にしたいと思います。ユニバーサルマナーがあるから日本に行くと、誰もがみんな安心して暮らせる社会になってると外国の人にも言われるように。
これからの夢
つい先日、とある大学へ講演に行かせてもらいました。その大学の学長がご住職をされてる先生だったんですが、「岸田さんは使命に取り組んでる」と言われたんですね。
実は私、「神様・仏様はいない」と思っていたんです。というのも、神様・仏様がいたら、こんな辛いことを私に与えるはずないと。亡くなった父は私を溺愛する人でしたし、夫も私に辛い思いをさせるはずがない。なので「祈る」ことは全然せず、仏壇には手を合わせますけど、もう全然信じてなかった。
しかしその学長をされてる、ご住職がこう言われたんです。
なんで仏さんは、岸田さんにこんなにつらいことさせたんやろうと思ってたんですけど、僕は、仏さん、こう言われたと思うんです。
「あんな、あんたにこれからちょっとつらいことさすで。結構しんどいで。でもな、がんばってや。その後、あんたにしかでけへんことをさすから。あんたの使命を与えるから、ちょっと今、がんばってや」って。
だからあなたに3つの試練を与えたと思う。だからあなたは、こういったことを多くのみなさんに伝えることが、使命やと思う。
そのときに、ああ、これが使命なんだと、本当に腑に落ちて思うようになったんです。私は何も偉いこともしていませんし、私の人生の話なんて人に伝えていいのかなと思っていたんですけど、ご住職の学長先生が、
それを伝えることで、また誰かの気持ちを元気にさせたり、希望を与えたり夢を与えたり、この先の人生をまた生きようと、人をそんな気にさせる、本当の人だと思う。それは、神様・仏様があなたに与えた使命だと思う。
と言ってくれた。
このとき、今の取り組みを使命として全うしていこうと思いました。
これからも、この仕事をずっと永遠と続けていきたいなと思います。ずっと忙しく、ずっと誰かから必要とされてる状態でありたいんですね。
今まで色んな人にお世話になってきて、助けてもらって、導いてもらいました。それは家族も、もちろん。娘がきっかけで「ミライロ」に入社させてもらって、いろんなステージやテレビにも出させてもらい、本を出版できるようになって…。もう、本当に色んな人のおかげです。
なので、今度は私が恩返しをしていきたいって思います。私と同じような障害があって、「今、どうしたらいいのかわからない「この先の人生に不安しかない」「希望を持てない」っていう人に、元気や勇気を与え、希望を持とうと思ってもらえる存在でありつづけたいですよね。
なので、今のままこの行動をずっと続けていきたいです。で、おばあちゃんになっても過労死するほど頑張っていたいです(笑)
岸田さんの言葉には、嘘がありません。それはたくさんの講演をこなしても、たくさんのメディアに採り上げられてもなお、いっそう私が強く感じることのひとつです。
「普通の人であればくじけてしまいそうな試練を…」と、よく枕詞に置かれる岸田さんですが、そんな彼女も当然ながらまったく「普通の人」。しかし、その「普通」は、たくさんの小さな努力に裏打ちされたものでした。
どんな人にも、人生にはいろんなことが起きます。
でも、どんな人でも、どう生きるかだけは自分で決められる。
その時に強い支えになるものが「希望」なんだと、岸田さんの生き方は教えてくれるのです。
そしていつどんな時も「私は私なんだから」と、自分を受容し、愛すること。「希望を持つこと」と「自分を好きになること」、この2つは車の両輪のようなもので、どちらが欠けても人生は拓けていかないのですね。
あなたには、生きる希望がありますか?
そして、自分のことが好きですか?
私たちは、きっと死ぬまでこの質問を何度も自分に問いかけるでしょう。そして答えが出ないときもあるでしょう。それくらい、人間はいとも簡単にくじける生き物だと思うのです。
もし、どちらの質問にもはっきりと「はい!」とは答えられなくても、つねに「まあまあかな」と言えるくらいには、前を向いて歩いていきたい。
小さな階段を岸田さんが1段ずつ昇ってきたように、私たちもそれぞれの人生に少しづつ小さな階段をかけ、昇ってゆけたら、その作業こそが「希望」と言い換えられるのかもしれません。