みなさんには、「無くなってほしくない風景」はありますか? 思い出の詰まった校舎、学校帰りに歩いた田んぼ道、家族とピクニックをした公園。日常の中で当たり前のようにある風景が、実は大切だったりするのかもしれません。でも、失って初めて自分がその風景に愛着を持っていたことに気づく、ということも多いのではないでしょうか。
東京都羽村市にはかつて、4台の水車と水車小屋がありました。近代化により昭和初期には全て無くなってしまいましたが、羽村市で生まれ育った中野一明さんは子どもの頃の遊び場だった水車小屋が忘れられず、お金と労力をかけて復元します。水車小屋はコミュニティカフェとして生まれ変わり、人が集まる地域の拠点になりました。
その背景にはどんな想いがあったのでしょうか。中野さんと、現在カフェを経営する広若ともみさんにお話を伺いました。
10年かけて、“水車が回る風景”を復元
JR青梅線・羽村駅を降りて、住宅街や木立の中を歩くこと約20分。「根がらみ前水田」と呼ばれる開けた水田地帯に差しかかると、前方に趣ある木造の建物が現れました。横に流れる用水路には、まだ新しそうな水車が架かっています。ここが「のんびりカフェ中車水車小屋」です。
訪問した日は休業日でしたが、店主の広若ともみさんが水車を回してくれました。水が溜って回転するまで、5分程かかったでしょうか。スイッチを押すとすぐに動く電化製品に慣れていると、こんな風に待つ時間が新鮮に感じられます。
水音と共にふわりと漂う木の香り。ゴトン、ゴトンと勢い良く回る水車は、ずっと眺めていても飽きません。
「根がらみ前水田」は羽村市随一の水田で、周囲を「車堀」と呼ばれる用水路が流れています。水車は江戸中期から使われ、最盛期には4台の水車が回っていました。この場所には中車(なかぐるま)と呼ばれる共有の水車が架かっていて、水車小屋では20数人が交代で麦をひき割りにする作業を行っていたといいます。
中野さん 俺が小学校2年か3年の頃までは回ってたんだな。電気が発達したから全部つぶれちゃったけど、水車が回る風景は心に残っていたんですよ。だから、1982年に大工とふたりで復元したわけ。俺が設計して、大工が材料切ったりして。水車と小屋とで、10年位かかったかな。
中野さんは古い物が好きで、近所の家が取り壊される度に建具や柱をもらって物置にしまっていたといいます。その材料を元に「中車水車小屋」は建てられました。
40年来の夢を叶え、“水車が回る風景”を復活させた中野さん。でも、たとえ心に残っていた風景だとしても、ほとんどの人は「無くなってしまったのは惜しいなぁ」と諦め半分で懐かしんだり、「行政が有形文化財として残せばいいのに」と人任せにしたりするだけで、自分で何とかしようとは考えないのではないかと思います。中野さんはなぜ、多大な労力と時間とお金をかけて水車小屋を復元したのでしょうか。
中野さん だって、行政に言ったって金出してもらうのは難しいだろうし、自分でやるしかないな、と。小遣いみんな遣っちゃって、お袋に怒られたよ。
そうあっけらかんと笑う中野さん。何ともさっぱりした返答ですが、「自分が暮らす地域を自分の手で良くしていくのは当然のこと」という想いが根底にあるように感じました。
水車小屋の完成後は蕎麦屋として営業を開始しました。水車が回る風景を見に遠方からも客が訪れ、繁忙期には行列ができる人気店になったといいます。
中野さん 周囲から「水車があるなら、水車で粉挽いて蕎麦打てよ」って言われたもんだから営業許可取って始めたんですけどね。農業も木工の仕事もしていたから3足のワラジで忙しかったですよ。若いからできたんですね。
蕎麦屋からカフェへ。
想いを受け継ぎ、新しい形で後世へつなぐ
蕎麦屋は20年近く営業しましたが、中野さんも年を取って続けるのが難しくなりました。誰か水車小屋を引き継いでくれる人はいないだろうか…。そこで声をかけられたのが広若さん夫妻でした。
水車が回るまで見守るともみさん
ともみさん 主人が学生の頃から中野さん、私たちは大家さんと呼んでいるんですけど、大家さんの家の敷地内に住んでいて、第二の親のような関係性だったんです。私も結婚を機にその家に引っ越したので、大家さんには良くしていただいて。
もともと「人が集まる場所をつくりたい」と思っていたから、飲食をやっている友人に声をかけて一緒にお店を始めました。それが2012年6月かな。あんまり深く考えずに始めちゃって、厨房も狭いし珈琲も淹れられなくて。それから何度か変化し、少しずつ形を整えて、いまのようなカフェになりました。
田舎の親戚の家に遊びに来たような気持ちになる「中車水車小屋」の二階。
「中車水車小屋」の一階はランチやお茶が楽しめるカフェ、二階は3時間800円から借りられるレンタルスペースになっています。
近隣のヨガサークルが練習に使ったり、子どもを連れたママたちが集まったりと、コミュニティスペースとして親しまれています。駅を挟んで反対側には生涯学習センターがありますがこちら側には人が集える場がないので、重宝がられているとか。
自主企画のイベントも多く、最近では誰でも参加自由な「オープンマイク」を開催しています。オープンマイクとは、1組15分の持ち時間を使って自分を表現する発表の場です。これまでに2回実施しましたが、出演者は都内の若手ミュージシャンに羽村駅前でライブバーを経営しているマスター、観客は遠方から来た若者から地元の家族連れまで多種多様で、とても盛り上がったそう。
ともみさん 地域の先輩から「うちの90歳になるおばあさんがギターを始めた」って聞いたんです。ぜひそういう人に出演してもらいたいなぁって。
ライブハウスはほかにもたくさんあるし、似たような人が横につながるのは簡単でしょう。そうじゃなくて、世代を超えて人をつなぎたいんです。大家さんも遊びにきて楽しんでくれています。いずれはそのおばあちゃんにも出演してほしいですね。
こうしたイベントをともみさんと一緒に企画しているのは、「羽村響々庵(ひびきあん)」という屋号でお豆腐の行商をしているお兄さん。行商でいろんな人やお店と接するので地域の情報を持っていて、面白い人とつないでくれるそう。
ともみさん 羽村響々庵さんをはじめ私より一回り若い30代のメンバーとミーティングをするんですが、私はよく突っ走って叱られるんです(笑) でも、年齢関係なく言い合えるのっていいよね、そういうのが仲間だよねって思います。
ともみさんの密かな野望は、田んぼの中で仲間と一緒にみんなが表現できる音楽フェスを開くことだそう。ただ、いきなり大掛かりなことをするとどこかに無理が生じるので、オープンマイクやライブイベントを開いて予行演習したり、想いを語って仲間を増やしたりして、少しずつ環境を整えています。
ともみさん 一回きりのイベントをつくるのは簡単だけど、ローカルな場所だから長く続くものにしたいんです。計画性は全然ないんですけどね。全部流れ任せ。
友達を増やそうと色んな人に会いに行ってるんだけど、それが何につながるかまでは考えていないんです。でも、とにかく想いだけは熱く持っていようって。不思議なんですけど、想いを語っているとすごい縁が生まれる瞬間があるんですよね。
駅前のライブバーも最初は入りづらかったんですけど、エイヤっと飛び込んでみたらマスターが面倒見のいい人で。オープンマイクのときは音響セットまで貸してくれました。
語ってみる、動いてみる。そうすると「これってもう、やれってことだよね」としか思えない不思議な偶然が重なるんですよ。
そんな風にパワフルに動いて人とつながり、新しいものを生み出すともみさんですが、活動の原動力となっているものはあるのでしょうか。
ともみさん 羽村市では子ども向けに田植え体験を実施しているんですけど、それは大家さんたちがこの地区で小さくやっていたものが羽村市全体に広まったものなんですね。
体験の前日には目印となるロープを張ったりして、自分たちで作業するよりもよっぽど手がかかることをわざわざしているんです。60歳を超えるおじさまたちが、子どもたちのいい体験になるだろうからって。
そんな姿を見ているうちに、この人たちがいなくなったらどうなっちゃうんだろうという危機感を持ったし、地域への想いとか、そういった全部を受け継ぎたいなという気持ちが芽生えてきたんです。
時代や流行が変わっても、外の人が羽村市に来たいと思ったり、子どもたちが羽村市にいたいと思ったりする流れをつくるにはどうしたらいいだろう。そんな風に考えながら試行錯誤して、形にしてきている感じですね。
100人以上から寄付が集まり、再び回りはじめた中車水車
水車小屋はともみさんによって新たな場所として生まれ変わりましたが、水車には異変がありました。カフェを始めて1年が過ぎた頃、老朽化により動かなくなってしまったのです。
それまでも何度か故障していて、ずっと中野さんが自費で架け替えていました。架け替えにかかる費用は約200万円。小さなカフェの利益から捻出するのは難しく、しばらくは止まったままになっていました。
しかし、カフェを訪れた客、特に子どもたちは水車が回るところを見たがります。ともみさんの夫の広若剛さんは次第に「この子たちに水車が回る勇姿を見せてやらねば」と思うように。「水車復活基金」を企画し、2015年のはじめから募集を開始しました。
その結果、地域住民や常連客など100を超える個人・団体から賛同が集まり、5月末に目標金額を達成。その動きには中野さんも心を動かされたそう。水車は9月に完成し、お披露目会を開きました。再び水車が回る姿を見て、集まった人から歓声が上がったといいます。
ちなみに、水車の製作には羽村第一中学校の生徒も携わりました。一年生217人が、水車の羽板を留めるくさびの面取り作業を担当したのです。くさびには自分たちの名前を書いてもらいました。
自分の手を動かしたことで愛着が生まれたのでしょうか、その後も男の子たちがカフェに遊びに来て、「あーこれこれ」と言いながら水車を眺めていたとか。こうして若い世代の心にも水車が回る風景は残っていくのですね。
中野さんがひとりで復活させた水車小屋は、広若さん夫婦に受け継がれ、たくさんの人の心を動かして羽村のシンボルになりました。水車小屋が辿った軌跡を振り返ると、熱い想いを抱いて行動する人がひとりでもいれば、その熱は周囲へと伝染し広がっていくものなのだな、と感じます。
無くしたくない風景がある、受け継いでいきたい文化がある、というみなさん。まずは想いを語るところから、始めてみませんか。
(写真:袴田和彦)