「イザ!カエルキャラバン!」公式サイトより
阪神・淡路大震災を経験して、神戸の人々がその身をもって学んだのは、「災害時は人と人がつながり、知恵と力を合わせていくことが大切だ」ということ。
神戸は、その教訓を震災を経験していない世代、そして国内外のまちへと伝える「防災都市」としての役割を果たすようになりました。
永田宏和さんは、神戸を拠点にさまざまな防災教育に携わるプロデューサーです。
永田さんがこれまでに関わってきた防災教育の普及活動は、「イザ!カエルキャラバン!」、防災とクリエイティビティをテーマにした展覧会「地震EXPO」、無印良品の防災啓発キャンペーン「くらしの備え。いつものもしも。」など枚挙にいとまがありません。
神戸市は、2008年にユネスコ創造都市ネットワークデザイン都市に認定されたことから、「デザイン都市・神戸」として、デザインやアートを通じて、教育・交流・連携などを創造的に発展させています。
永田さんが関わる「NPO法人プラス・アーツ」も、“+(プラス)クリエイティブ”を掲げて、デザイン都市・神戸らしい、驚くようなアイデアに満ちあふれた防災の取組みを行っています。
1968年兵庫県西宮市生まれ。1993年大阪大学大学院修了後、株式会社竹中工務店入社。竹中工務店在籍中に阪神・淡路大震災に遭う。2001年同社を退社後、まちづくり、建築、アートの3分野での企画・プロデュース会社「iop都市文化創造研究所」を設立。2006年NPO法人プラス・アーツ理事長、2012年8月よりデザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)の副センター長に就任。神戸のまちを中心に活躍中。
故郷が見たことのない風景になったのに、当事者になれない焦燥感
永田さんは兵庫県西宮市出身。物心がつくころから、大阪よりも神戸に出かけることが多く、「根っからの神戸ッ子というわけではないけれども、遠くもなく近すぎることもなく意識していた」まちでした。
僕の若いころはみんな「デートといえば神戸」です。それだけ特別感がありました。オシャレなデートスポットがたくさんあるし、好きな街でした。
「date.KOBE」といってデート文化を育む街・神戸として、人々のデートの思い出を通して神戸の魅力を再編集する取り組みもやっているほど。完全に僕の実体験でもあります(笑)
中学生のときに、大阪へ引っ越し、ホームグラウンドを大阪に移した永田さんですが、離れてもふるさととして思っていたそうです。
1993年に大阪大学大学院を修了、その後株式会社竹中工務店に入社して2年目の冬に、あの朝が訪れます。
大阪の実家のそばで一人暮らしをしていました。西成区です。震災の日、一人で寝ていました。西成って若干ガラが悪くて、朝から僕の家の前で誰かが職務質問されていたんですよ(笑)朝っぱらからうるさいなと思っていたら直後に地震がきました。
十数秒でしたが、恐怖のあまり布団をかぶって誰に向かってというわけでなく「やめてくれー!!」って叫んでいました。「嘘やろ! なんやこれ、意味が分からん」って。今まで経験したことのない揺れで、揺れている最中は地震という感覚すらなかった。
西成区の震度は4。地震が比較的少ない西日本で生まれ育った永田さんにとってあの激震は「なんやねん、これ」状態。着の身着のまま、自転車で10分のところにある実家へ向かいます。
両親と下の姉、おばあちゃんが暮らしていた実家は無事でした。それよりも、当時、上の姉が神戸のど真ん中に住んでいたのでその心配で大騒ぎでした。
テレビではNHK神戸放送局がぐわんぐわん揺れている映像が流れていました。姉の家は、まさに神戸放送局の真裏。もちろん電話は通じません。
当日、お姉さんの安否を確かめることは叶いませんでした。神戸に住む人々を心配する列は翌日もずっと絶えません。
永田さんは同世代の親戚らとバイクで神戸のまちに向かい、お姉さんの安否を確かめることができたのは、震災後数日たったあとでした。
その帰り道、永田さんは西宮を見に行くことに。西宮は阪神・淡路大震災の被害が甚大だった地域。自分が生まれ育った西宮市森具地区の様子を、この目で確かめに行きました。
壊滅的でした。まったくまちがなくなっていました。幼少時代、中学生くらいまでを過ごしたまちが破壊されていた。よくおつかいに行っていた市場もぺっちゃんこ、自分が暮らしていた家も半壊状態。相当ひどい状況でした。
その状況をこの目で確認してから大阪へ帰る道中、涙が止まらないんです。バイクに乗ったまま。記憶の中にあったまちが全部壊れてしまった。自分の生きてきた証みたいなものが跡形もなく消えてしまったような気持ちになりました。なんともいえない。表現できない感情ですね、あのときは。
建物が倒壊したせいか、見えるはずのない遠くの景色が見えたといいます。ふるさとなのに、見たことのない風景になったことが信じられない。震災で永田さんは深い喪失感を味わいました。
当時、永田さんが働いていたのは竹中工務店。社内には、復興支援の仕事に携わる同僚も多かったそうです。
しかし、永田さんは京都のショッピングセンター建設案件の部署に所属。「復興支援に関わらせてほしい」と志願もしましたが、会社の事情がそれを許しませんでした。
僕は阪神・淡路大震災直後の避難生活や救助活動の現場にいなかったので、一番大変だったときの経験が決定的に抜けているんです。
会社の事情がそれを許さないとはいえ、僕は西宮出身で、大学ではまちづくりを学び、会社はゼネコン。そういう背景から見ると、「お前何してんねん」と、実際に言われてはいないけど、誰かに言われているような感覚がずっとありました。
「なんで何もできてないんやろ」「なんで被災した現場に身を置いてないんやろ」とか相当へこんでいました。
「汚点を残した」。それくらいの後ろめたさと焦燥感を抱えていた永田さん。しかし会社員としては、「目の前に悲惨な状況があるのに、何もできない」という自分を、飲み込んで受け入れるしかありませんでした。
同僚たちはそれこそ血眼になって復興事業を進めていました。被災地に関わっている先輩や同期たちが精神的に参ってしまったりと、本当に死にそうになっていたから、それがまた余計につらかった。僕はその当事者になれなかった。
僕のなかで忘れようとしたのか、風化したのか、僕自身は分からないけど、4〜5年たって、やっと焦燥感が薄らいでいきました。
そして震災から10年が過ぎた頃、永田さんがあのときの想いを取り返すチャンスが訪れるのです。
神戸のひとの想いを背負って防災教育に携わる
楽しく防災が学べる「イザ!カエルキャラバン」
永田さんは2001年に竹中工務店を退職後、大阪で企画・プロデュース会社「iop都市文化創造研究所」を設立(現在は神戸に移転)。当時は、まちづくりのコンサルタントや店舗や建築のプロデュースに日々取り組んでいました。
そんななかで、永田さんは「震災10年神戸からの発信」事業から「震災後10年たった神戸の子どもたちの元気な姿を内外に発信する子ども集客型のイベントを市内各所で企画、開催してほしい」という依頼を受けます。
「自分の役割がやっと回って来た」と思いました。阪神・淡路大震災に関われなかった当時の想いが去来しました。10年たったいま、「僕ができることがあるんだ、頑張らなあかんなぁ」。そういう感覚でした。
このチャンスに、今の自分にしかできないことをやろうと思いました。モチベーションはすごく高くて、片手間でやったらアカンと思ったし、気合い入れてやろうと取り組みました。それは間違いない。
依頼時に「震災を必ずしも振り返らなくてもいい。未来志向の明るいイベントにしてほしい」ってはっきり言われてたんですよ。
でも、僕は振り返らなければ意味がないんじゃないかって思っていました。振り返りつつ、楽しい事をやらなあかん、そんな心持ちでした。
防災とアーツ(デザイン、アート、新しいアイデアなどを含めた概念)を結びつけることを思い付いたのは永田さんと同時共同でこのプロジェクトの開発に取り組んでいた美術家の藤浩志さんです。
阪神・淡路大震災で、自分自身の「関われなかった」という背景がなかったら、もっと防災教育の意味合いの薄い明るいだけのイベントになっていたかもしれません。
そんないろんな条件が重なって、防災プログラム「イザ!カエルキャラバン」が必然で生まれたのです。(「イザ!カエルキャラバン」の取り組みや広がりについて、プロジェクトの詳細は、プラスアーツスタッフ室崎友輔さんの記事をご覧ください!)
また永田さんはその後、NPO法人プラス・アーツを設立。東京ガス、無印良品の防災アドバイザーや「地震イツモノート」の企画など多様な防災教育プログラムを手がけるようになります。
そうして永田さんが防災教育に関わりはじめて5年たった2011年、東日本大震災が発生したのです。
とりあえず、その時必要なのは、災害発生時の情報ではないかと考えました。具体的には「地震のあと」と「避難生活」です。
被災地でホームページがちゃんと見られる環境にあるのか分からなかったのですが、阪神・淡路大震災のときのことを地震イツモノートにまとめていたから、取り急ぎ公開しようと動きました。
地震イツモノートのなかに掲載されている2つの章「地震のあと」と「避難生活」の内容が公開されているのはそういうことなんです。
ネットで公開された「地震イツモノート」の「避難生活」のページ。避難所での問題や生活の工夫などの情報が具体的にまとめられている
永田さんは甚大な被害を目の当たりにした当時の日本の状況を見て、「防災意識が高まっている今、神戸が経験したことを伝えなければいけない」という思いを強く持ちました。
伝わり方も強度を伴うだろうし、今まで防災に見向きもしなかった人たちも聞いてくれるこのタイミングを生かそうと思いました。
東京ガスさんの社内報などで継続的に発信していた家具転倒防止対策や非常食の備蓄などの暮らしに関する防災情報が蓄積されていたので、東京ガスさんの了承を得て、その情報も一緒に公開しました。
神戸から全国、そして世界へ。日本の文化として世界に広がる「BOSAI」
「イザ!カエルキャラバン」をはじめ、さまざまな防災教育に関わるイベントや企画を仕掛ける永田さん。その活動は、世界に広がりはじめます。
実は日本後の”BOSAI”は専門分野では世界の共通語になっており、とりわけ神戸の防災福祉コミュニティは”BOKOMI”として注目されているのです。
2013年の10月4日から24日まで、デザイン・クリエイティブセンター神戸で開催された「EARTH MANUAL PROJECT展」は、「災害大国は防災大国に、なれる」というキャッチコピーを掲げて、クリエイターらが関わる防災教育や被災地支援分野の「+(プラス)クリエイティブ」な取組みを世界中から厳選して紹介したイベントです。
「イザ!カエルキャラバン」の海外への普及活動で、世界各地に行ったときに、逆に新しい防災教育の取り組みなどに触れて学ぶことが多かったんです。
防災って、“教える”って偉そうなものではなくて、“学び合い”だなぁと思いました。僕がそこで経験した、防災への学び合いをもっと多くの人たちに伝えたい。
それは、災害とちゃんと向き合うことでもあり、災害と寄り添いつき合っていくためのお作法、といいましょうか。そういう作法集、みたいなものが「EARTH MANUAL PROJECT展」です。
活動自体の素晴らしさはもちろん、そこにかかわるクリエイターたちの姿勢、向き合い方、そして哲学が会場中に反映されている
水害、火災、地震など様々な災害について、各々の取組みをまとめた「マニュアル」がブースに置いてある。自分に関連しているものをピックアップしてまとめた自分だけの「マニュアル冊子」をつくることができる。
神戸のまちで、世界の「+クリエイティブ」な防災教育や被災地支援活動を学べるこのイベントは大成功。被災地はもちろん、まだ災害が起こっていない地域の人々も関心を持って災害関連分野の先進事例を具体的に学べたことが大変意義深いことでした。
災害に関することを神戸から発信することに意味がある、と僕は考えています。「EARTH MANNUAL PROJECT」の開催は東日本大震災後。世界中で起こっている災害も規模が大きくなってきています。神戸が担うものは決して小さくないと考えています。
プラス・アーツが発信する「楽しい防災教育」は世界でも広く受け入れられ、現在までに「イザ!カエルキャラバン」など、永田さんらが育てた防災プログラムは世界14カ国で活採用されています。
また、防災教育を世界の共通認識としていこうというプラス・アーツの考え方が認められ、日本と海外の市民同士の結びつきや連携を深める団体「国際交流基金」から、「地球市民賞」を贈られました。
その根底に流れる、神戸の教訓、そして永田さんならではの「+クリエイティブ」、そして、なによりも被災地への「謙虚に寄り添う」姿勢が、世界中にプロジェクトの花を咲かせているのです。
防災へ、僕には僕の関わり方があると思えるようになりました。その役割がいらないと言われる時が来れば去ればいい。でも「学びたいので教えてほしい」と求められているあいだはできる限りその声に応え、頑張りたいです。
防災教育に関しては、神戸の人たちの気持ちを背負っていますので、「被災した神戸の人たちの声を伝えるということを仕事にしている」という想いを胸に持ち続けています。そしてそういう立場であり続けたいと思っています。
永田さんがつくった「地震イツモノート」には、こんなことが書かれています。
震災に直面したとき、防災袋やヘルメットよりも、隣人との毎日のあいさつが一番の防災になる。手ぬぐいの使い方を知っていることの方が、防災グッズよりずっと役に立つ。防災は「モシモ」のためではなく「イツモ」のなかにある。
これは神戸のまちが震災を経験して、培った知恵の一部です。
この知恵をもたらした犠牲は大きく深く悲しく、いまだに神戸のまちに深い傷跡を残しています。しかし、永田さんたちは、阪神・淡路大震災で学んだ知恵を“資産”として取り入れ、それらを生かして社会的な問題を解決しようとしています。
インタビューのとき、永田さんは「僕はあのとき、なにもできなかった」と何度も言いました。しかし、「あのとき、当事者になれなかった」ことが、糧になり、今の活動に結びついているのだと思えてなりません。
神戸が震災を経験したことに意味があるとするならば、あのときの想いを何百年先まで伝えていくことにあると、感じました。そしてそのセンスがこの神戸にはあります。
「まちに心を寄せている限り、その心は、いつか必ずまちの力になる」。
永田さんが20年かけて、出した答えです。