神戸市東灘区にある、おしゃれな雰囲気の漂う岡本商店街。そのシンボルとなっている石畳は、実は阪神・淡路大震災からの復興の過程で生まれたものでした。
人通りも増え、見事に復興を果たしたといえる岡本商店街では、現在、東日本大震災に遭った気仙沼新中央商店会の支援に取り組んでいます。
商店街にある復興支援アンテナショップ「気仙沼まただいん」の店頭には、気仙沼の名産品を加工した商品が並び、気仙沼出身のスタッフが丁寧に応対してくれます。「まただいん」とは気仙沼の方言で「また来てね」という意味だそう。この活動の中心となっているのが、岡本商店街振興組合の松田朗さんです。
松田さんのお話を伺っていると、いたるところに“人と人とをつなげる仕掛け”があることが分かってきます。そこには、阪神・淡路大震災からの復興を果たした岡本商店街の経験が活かされていました。
1960年、神戸市東灘区生まれ。東灘区在住。34歳のときに神戸市内の自宅で阪神・淡路大震災に遭う。1999年より岡本商店街でイタリアンレストラン「アリオリオ」を営む。岡本商店街振興組合理事長を務め、商店街の振興をはじめとし、気仙沼の復興支援活動にも精力的に取り組んでいる。
「人と人とのつながり」に助けられて
松田さんは岡本の自宅で阪神・淡路大震災に遭いました。当時34歳。幸い家族は無事だったものの、自宅は全壊。ご家族は田舎へ避難し、松田さんは当時勤めていた飲食店に泊まり込むという生活を1カ月ほど続けたそうです。
運よく引っ越し先が決まったのが震災から1カ月後。3カ月がたつころにはライフラインも復旧して、もう大丈夫だ、と感じました。
東灘区は被害の大きい地域でしたが、神戸と大阪の間に位置しており、ここを通れないことにはどうしようもないので、比較的復興も早かったと思います。いつまでも六甲山を越えて迂回していくのは大変やからね。
その後、松田さんご自身でイタリアンレストラン「アリオリオ」を経営し始めたのが1999年のことです。
勤めていた店が倒産したので、仕方なく自分で始めたんです。オープンすると、前に勤めていたときのお客さんがたくさん来てくれました。
店という“ハコ”とお客さんとがつながっていたのではなく、店の“人”とお客さんとがつながっていた。そんな人と人とのつながりに助けられ、人間関係の大切さを強く感じました。
松田さんが経営するイタリアンレストラン「アリオリオ」。地元の常連さんでにぎわう
忘れないためには“顔見知りになる”ことから
そして2011年3月、東日本大震災が起こりました。
東日本大震災の様子が明らかになるにつれて、岡本地区全体に「できることはやっとかなあかん」という気運が高まりました。その根底にあったのは、自分たちが支援を受けたことへの恩返しの気持ちです。
普段から親交のあった人を中心に、Facebookなどを介して友達の友達へと輪が広がり、想いを同じくする仲間が集まっていきました。
松田さんは「地域をしぼって“顔の見える範囲”で力になりたい」と考えていました。震災からの復興という道のりのなかで、「人と人とのつながりこそ大きな力になる」と知っていたからです。
とはいえ、東北は縁もゆかりもない土地。支援先の地域をしぼるといってもどうしたらよいか分からない状況でした。そこで、まず兵庫県に相談し、宮城県の商工課を紹介してもらいます。
そして気仙沼の商工会議所へ、さらに気仙沼新中央商店会へとつながりをたぐり寄せていきました。
IT面での支援の様子。最初のころは安否情報の発信の代行をした。回を重ねるごとに、メイクアップのボランティアをしたり、女子会を開いたりと活動の幅が広がっている
大学生による「ツタエテガミ」プロジェクト。手紙を介して心が通う
2011年6月、集まった仲間たちと一緒にバスを借り、松田さんは初めて気仙沼を訪問。現地に行って話をしながら、何が必要とされているのかを考えていきました。
同じように大きな地震に見舞われたとはいえ、「阪神・淡路のときと東北とでは状況が大きく違っていた」と松田さんは振り返ります。
2回目に被災地を訪れたのは2011年10月。このときは安否情報の発信の代行や、手紙のやりとりを通した精神面での支援、そして商業者との交流をしました。その後、現在でも年に3〜4回バスを借りて現地に赴き、そのときに必要とされる支援を続けています。
寄付金を集めて口座に振り込むというのでは、そのときだけのことで、あっという間に忘れてしまう。でも顔見知りになると“あのとき会ったあの人のために”となる。
そうすると、ずっと被災地のことを思い続けているわけじゃないけど、ふとした拍子に思い出せますよね。そのためにはシンボルになるものや、続けるための仕組みが必要だと感じていました。
行きのバスの中ではいつも「そのときの自分にできることを、できる範囲ですることが大切」という話をします。無理をしたら長く続けることはできませんから。
「何をしたらいいか分からんけど、とにかく行ってみて何かの役に立ちたい」と言っていた人も、実際に被災地の人と交流する中で、自分にできることを見つけていきます。”会う”ことが、次のアクションにつながるんです。
縁もゆかりもない土地が“あの人のふるさと”になる
松田さんはたびたび気仙沼に足を運ぶなかで、サンマやめかぶなど、気仙沼の食材の良さを実感していました。また、まちが元気になるためには商業者が元気にならなければならない、とも考えていました。
ものを売ったり買ったりすることで、お金が動き、人と人との間に交流が生まれ、それが復興の力になるはず……。
そこで“買い物”を通して気仙沼の復興を後押ししようと、商店街内の空き店舗に特産品などを売るアンテナショップを開くことにしました。こうしてできた「気仙沼まただいん」は、支援を続けるための仕組みであり、シンボルでもあります。
「気仙沼まただいん」では、気仙沼ホルモンやフカヒレスープ、さんまの加工品やのり・ふりかけ、おまんじゅう、雑貨などを扱っている
気仙沼で広く食べられている気仙沼ホルモン。豚のミックスホルモンを味噌ニンニクだれで味付けして焼き、千切りキャベツと一緒にウスターソースをかけて食べる。遠洋漁業に携わる漁師たちが帰港した際に好んで食べたところから広まったとされている
2012年の2月、「気仙沼まただいん」は東北経済産業局の助成金を得て、約2カ月の期間限定という形でスタートしました。
ところが、お客さんからの評判もよく、業績も上々で、これなら助成金に頼らなくても経営ができそうだということになり、2012年4月からは常設の店舗となって、今に至っています。
イベントではサンマを焼いて販売することも
新企画商品のふりかけ「海ごはん」。気仙沼の素材を活かした商品の開発にも積極的に取り組んでいる
「気仙沼まただいん」の店舗に常駐しているのは気仙沼からやってきたスタッフです。接客をするなかで、自然と気仙沼のことが話題にのぼります。
すると、ふらっと買い物に訪れたお客さんにとっては、これまで“縁もゆかりもない気仙沼”だったのが、“あの店員さんのふるさとの気仙沼”となるのです。
そして店舗だけでなく、神戸ルミナリエや神戸マラソンなどのイベントに出店することで、「東北のために何かしたい」という想いを抱いている人から声をかけられることもあるといいます。
2012年6月に「株式会社まただいん」として気仙沼に登記。これには、法人税を気仙沼に収めることで、少しでも復興の助けになれば、という意図が込められています。
気仙沼の今の状況を見ていると、まだ地盤沈下した土地をかさ上げしたり、ならしたりしている段階です。まだまだ復興の道のりは長いなぁ、という印象やね。
東北の方々は控えめな人が多いのですが、行政が何かしてくれるのを待っているだけでは難しいでしょう。岡本商店街が復興の過程で経験したことを活かして、行政へはたらきかける場面などでも力になれたらと思っています。
気仙沼の呉服屋さんがつくっている巾着。プレゼントにも喜ばれるという
2014年神戸マラソン EXPO会場に出店したときの様子。イベントに出店することが、新たな動きのきっかけにもなる
また、「気仙沼まただいん」には、地元の本山中学校の生徒が職業訓練に来ることもあります。実際に生徒たちと一緒に、バスで気仙沼に行ったこともあるそう。
まちぐるみで地域の子どもたちを見守り、さらに働く大人の背中を見せることで自発的な成長をうながす。松田さんからは、まちの未来を担う若い世代を長い目で見て育てていこうという姿勢も感じられました。
震災前よりも活気にあふれる商店街の秘密
岡本商店街振興会が発行している冊子『岡本散歩』。表紙のイラストは阪急岡本駅と摂津本山駅の駅前風景。中身は対談やショップ情報などが満載
「岡本商店街は震災前よりも多くの人を惹きつけるようになった」と松田さん。立地に恵まれていることや、石畳のおしゃれな雰囲気などもその要因の一つですが、まちづくりの点にも秘密がありそうです。
まちを計画的につくろうとするとき、行政はゾーニングをしたがる傾向があります。ここは商業区域、ここは住宅地という具合に。
実際、震災からの復興の過程でそういう風に計画的につくられたまちもあります。でも、今まで住んでいたまちと大きくかけ離れてしまうと住みにくいんちゃうかな、と思う。
岡本商店街はゾーニングされたまちではなく、複数の小さなブロックにそれぞれ店舗も住宅も混在している多様性に富んだまちです。
松田さんがまちのことを考えるうえで参考にしているのは、『アメリカ大都市の死と生』などを著したジャーナリスト、ジェイン・ジェイコブズの都市論です。
ジェイコブズは、経済的な活力があって安全で暮らしやすい都市をつくるには多様性が不可欠だとし、そのためには以下の4つの条件が揃うことが必要だといいます。
(1)混合一次用途の必要性
(2)小さな街区の必要性
(3)古い建物の必要性
(4)密集の必要性
ひとつ目の「混合一次用途の必要性」というのは、店舗があったり、住居があったりと、複数の用途が存在していることが必要だということ。
岡本商店街にはさまざまなお店や住宅が混在しています。特定の業種の店舗だけだと、夜になったらまちががらんとしてしまって治安が悪化することもありますが、店舗だけでなく住居も存在していれば、常にだれかの目があるということになります。そのだれかの“目”がまちの治安を守るというのです。
2つ目の「小さな街区の必要性」というのは、小規模のブロックがたくさんあるのがよいということです。
岡本商店街は線ではなく面で広がっている商店街です。一つの大通りに沿って店が並んでいるのではなく、阪急岡本駅とJR摂津本山駅の間のエリアに8つのブロックがあり、細い路地が入り組んでいます。
そのため、目的地に行くためにいろんなルートを通ることができ、次の曲がり角を曲がった先にどんな光景が広がっているのだろうと、ワクワクするまちになっているのです。
阪急岡本駅とJR摂津本山駅の間に8つのブロックがある。実際に歩いてみると、細い路地が入り組んでいる様子が実感できる
3つ目の「古い建物の必要性」というのは、家賃の安い古い建物が必要だということ。
多様な店舗が揃うためには、家賃が安く設定されている古い建物の存在が不可欠です。新しくてきれいなショッピングモールには、大手のチェーン店などでないと、なかなか入ることができません。
岡本商店街の場合は店舗のオーナー率が低いため、店舗の家賃も長くお店を続けるための重要な要素になります。
創業100年を超える老舗もあれば、つい最近オープンしたばかりのお店も
4つ目の「密集の必要性」というのは、ある程度の人口密度が必要ということですが、岡本の人口は阪神・淡路大震災以前よりも増えているのが現状です。
これは、阪急電車の特急が停まるようになったことや、震災によって建物が倒壊した跡地にマンションが建ったことが要因となっています。
この4つの条件を見事に満たしている岡本商店街は、震災をたくましく乗り越えて、さらに活気に満ちたまちになっています。このモデルは、これから復興していこうとしている商店街にとって、心強いものになるのではないでしょうか。
子どもが成人したときに戻ってきてくれるまちに
震災をきっかけに人と人とのつながりの大切さを実感した松田さんは、自身の復興の経験を気仙沼の復興支援にも活かしています。そしてその視線は、目先の利益ではなく、ずっと先を見据えています。
子どもが成人したときに、また戻ってきてくれるまちにしなあかん。
これは気仙沼の復興に関しても同じことがいえるかもしれません。大人たちが“人と人とのつながり”の力を信じて大切にしていれば、子どもたちもきっとその姿から学ぶことも多いはずです。
そして、地域の大人が未来に希望を持って前向きに歩んでいれば、子どもたちが一旦その地を離れたとしても、いずれ「地元に戻る」という選択肢が魅力的なものに映ることでしょう。
気になったお店にふらっと寄りながら散策してみると、岡本商店街の魅力は石畳やおしゃれな雰囲気だけではないということがよく分かります。不意にやってくる懐かしさに似た感覚。そして、湧き上がる「また来たい」という気持ち。
そんな気分になったのは、いつの間にか私自身がすでに岡本商店街をめぐる“人と人とのつながり”の網の一部になっていたからなのかもしれません。