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いちはやく復活宣言を出したまちの底力とは? 南京町商店街振興組合理事長・曹英生さんに聞く「自粛することよりも大切なこと」

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当時いちはやく復興目指した南京町の様子

特集「震災20年 神戸からのメッセージ」は、2015年1月17日に阪神・淡路大震災から20年を経過し、震災を体験した市民、そして体験していない市民へのインタビューを通して、「震災を経験した神戸だからこそできること」を広く発信していく、神戸市、issue+design、デザインクリエイティブセンター神戸(KIITO)との共同企画です。

神戸の中華街といえば南京町です。阪神・淡路大震災では南京町も被災しました。このまちで大正4年から店を開いているのが「老祥記」さん。

「豚饅頭」という呼び名の発祥の店で、4年前からはじまった「神戸豚饅サミット」の発起人でもあります。老祥記の3代目で現在、商店街の組合理事長を務める曹英生さんに、当時の様子と復興までの道のりを振り返っていただきました。
 
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曹英生(そう・えいせい)
1957年神戸市生まれ。大正4年から南京町に店を開く元祖豚饅頭の店「老祥記」の三代目。南京町商店街振興組合理事長、神戸市政策提言会議委員、震災10年神戸からの発信推進委員会「メリケンパーク活用」特別部会部会長、元町東地域協議会福理事長、神戸豚饅サミット発起人。震災当時は37歳。中央区の自宅マンションで被災した。神戸市在住。

1995年、震災の朝

当時曹さんは37歳。中堅どころとして仕事に精をだし、商店街組合の副理事も務めていました。1月16日の夜の曹さんは、中国のお正月のお祭りである春節祭の準備に追われ、遅くまで仕事をしていました。

何とか一段落し、帰り道の焼き鳥屋に寄り、一人で飲んでから自宅に帰ったときには既に日付は17日。そして、疲れて寝入ったほんの数時間後、大きな揺れに叩き起こされました。

17日は、祭りに必要になる申請書をまとめて、警察署に持っていく日でした。飛び起きるとマンションの給湯器が倒れて、その蒸気で部屋が蒸し風呂のような状態。そのマンションの部屋の給湯器が全部倒れたらしく、お湯が上階からぼとぼと落ちてきていました。

前のビルはタクシー会社でしたが、一階は天井が落ちてぺしゃんこになっていて、表に出てみると全壊しているビルもたくさんあって、「大変なことになったな」と思いました。それでまず、真っ先に家族の安全を確認しに走って、その日の夜は家に入れないので避難所になっていた中学校で寝ました。

避難所で隣になった女の子は家が倒壊したうえに、空き巣に入られお金まで盗られてしまった様子で、ずっと泣き続けていたそうです。

当時の組合の理事長も同じ避難所に避難していて「もう祭りはできへんなあ」と、祭りどころではなくなった現実を一緒に受けとめていました。

そんな状況でも幸い南京町は大きな被害はなく、建物は使える状態。そこで、老祥記の店の2階に集まり17人で共同生活を送ることになりました。

「祭りはできへんけど、今は個人個人で動くよりも一回みんなで集まろう」という話になって、25日にまちの会議室に集まったんです。そしてある理事から提案が挙がりました。

「今、一番困っているのは食やないか。祭りをするかわりに炊き出しをやろう」と。いざ、やってみたら大勢の被災者が集まって喜んでくれてね。

炊き出しをしながら、義援金というかたちで募金を集めると47万円ほど集まり、社会福祉協議会を通じて寄付することに。報道各社からも取材が殺到し、南京町は一瞬だけかつての賑わいを取り戻したのでした。

南京町の復活宣言をしよう。

春節祭のかわりに炊き出しをしたことで、南京町は息を吹き返すきっかけを得ることができました。

「こんなに神戸の人が喜んでくれるなら、比較的まだ元気な自分たちが、いろんなことをリードしていく立場になっていかないとはじまらない!」と曹さんは思ったそうです。

そしてライフラインが復旧してガスが通った3月には、早くも”南京町復活宣言”をすることに。獅子舞の演舞なども余興に出し、短期間ながら盛大なものとなりました。

はじめは「地震が起きて、人口の流出がはじまるな」と思いました。実際、まちに人が歩いてないんですから商売ができない。私も大阪に店を移すことが頭によぎったこともありました。

でもね。震災後すぐに肉を焼いて売り出した店が飛ぶように売れて、店が倒壊した八百屋のおばちゃんがもう捨てようとしていた野菜を売りだしたら、それも一瞬で売れました。

そのときね、商いを通じて人は動いていくんやなあ。炊き出しはいつまでも続けられないし、それやったら店を再開しようと決めたんです。

その流れで屋台が一気に店を再開して、南京町はいちはやく活気を自らつくりだしていきます。

5月には中止になった神戸まつりのかわりに、南京町主導で何かやってもらえないだろうか、という相談を受け、元町商店街と連携して5月祭を開催。当日は大雨にも関わらず、5万人を超えるお客様で賑わい、民間主導の祭りが復興の先陣を切るかたちになったのです。
 
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炊き出しには、大勢の市民から感謝の言葉をかけられました

曹さんにはもう一つ忘れられない出来事がありました。震災から間もない2月、横浜の中華街が義援金500万円を持って支援に来てくれたのです。まだ新幹線も途中までしか走っていない時期で、在来線を乗り継いで駆けつけてくれたのでした。

当時は、横浜の中華街でも祭りを中止すべきかどうか議論があり、最終的には中止するのではなく義援金を集める機会として開催しました。そのうちの500万円が寄付され、倒壊した南京町の長安門の修復に当てられたのです。

彼らが三宮から南京町に入ったとたんに、まちに賑わいがあり、活気が出始めていたことにとても驚いた様子だったそう。そして、曹さんが義援金の御礼を述べるとこんな言葉が返ってきました。

「関東大震災のときに神戸にはお世話になったから、お互い様です」と。そんな世代を超えた昔のつながりを今でも大切にしてくれていたことに胸を打たれました。

自粛よりも、自分たちから動きだすことが復興になる。

曹さんたちが、震災から半年経たないうちにアクションを起こしていったことで、それに続く人がたくさん現れました。他府県のボランティア団体等が南京町の広場を使って瀬戸物市や落語会も開催。次から次へとアクションが起きてゆきます。

行政が奮闘している復興支援と並行して、曹さんたちがはじめた民間主導のイベントが成果を挙げたことで、「どこか自粛の空気を振りはらうことができたのかも知れない」と曹さんは振り返ります。
 
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自粛よりも明るい雰囲気をつくりたいという南京町の想いが結集

地震が起きたことで、当たり前のものが当たり前にある幸せを再確認しました。お客様、ガス、水、近所のつきあい、家族の絆もそうです。実は、震災前は祭りをするとなると準備がそれは大変で、正直なところやりたくないなあと思ったこともあったほどです(笑)

今は祭りができる幸せを毎年感じてやっています。

また、曹さんたちは2011年に起きた東日本大震災のときには、ボランティアとして東北入りし、現地の復興支援にも協力します。その時には、阪神・淡路大震災で経験したことが説得力のある言葉や行動として生きました。

神戸で地震を経験した私たちが語るのは、経験していない人が語るのとは全く違う説得力があると思います。ある意味で、他のボランティアの方が言いにくいことも経験者だからこそ、言うことができます。

たとえば、復興のためにはいち早く動く。行政ばかりに頼らず、自分たちのアクションにあとから行政が追いかけてくるようにならないとだめだ、と。

被災した方にそう言えるのは私たちしかいません。むしろ言わないといけない立場だと思うのです。ここであきらめたらだめ、もう少しみんなで力を合わせたら、希望が見えてくる、と。私たち自身が同じ状況から復活できたので、言葉の重さが違いますよね。

日本の元気を神戸から「KOBE豚饅サミット」にこめた思い。

そんな曹さんたちが始めた「神戸豚饅サミット」には、毎年すごい数のお客様が来場されます。

「KOBE豚饅娘コンテスト」や「オリジナルの豚饅の限定販売」などと合わせて、東北復興支援の義援金活動も行われ、2014年のサミットも「日本の元気を神戸から」という合言葉のもと、盛大な3日間となりました。

実は、このサミットは2010年、東日本大震災が起きる前年から企画されていたもので、もともとは神戸のまちと豚饅業界を盛り上げる主旨で開催予定でした。それが、2011年に震災が起き、東北支援も兼ねて沈みがちな日本の元気をもう一度神戸から取り戻していこうという思いが重ねられていったのです。
 
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神戸の被災体験を語る講演や協議会などにも参加していますが、私は復興のひとつの鍵になるのは“遊び心”だと思っています。現実的な対策の他に、ワクワク感のあること、既成概念を壊していくチャレンジがあってほしいですね。神戸はその手本になることができるまちです。

震災を乗り越えて世界の住みたい都市の上位にも選ばれるようになりました。神戸市など行政は神戸のまちや人が持っている発信力を生かしてもっともっと世界にアピールしてほしいですね。

最近は日本全体が、これはしたらいけない、あれもしてはだめ、というように規制ばかりになっているように感じます。それは正しいことなんですが、もう少しファジーな部分を残していかないと、良いコミュニティにならないのではと危惧しています。

これは、震災直後の何もかもが不安定であいまいな時期に、人のつながりとコミュニティが持つ底力、そして前を向いて進む爆発的なエネルギーを体験した曹さんならではの想いではないでしょうか。
 
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今年も「神戸豚饅サミット」の実行委員としてイベントの成功に尽力された曹さん

阪神・淡路大震災のような災害は起きないほうがいいものです。これは絶対にそうです。しかし、経験したことは未来に生かさないといけません。

曹さんも、もともとは人づきあいはそれほど得意ではなかったと言います。震災を境にコミュニティのつながりの強さを身にしみて感じ、まちづくりに対して積極的になっていきました。普段から肌感覚でこの人は信頼できるという人のつながりを深めて暮らしてほしいと曹さんは提言します。

そのつながりがあれば、非常時にも希望を失わずに顔を上げることができる、と。現在の南京町の賑わいがそのことを教えてくれます。