「市民で少しずつお金を出しあって、地元で自然エネルギー発電できないだろうか?」
今から13年前、心に芽吹いたその想いを、資金なし・知識なし・スキルなしの状態からたった3年で実現し、今ではおよそ人口3万人の町の使用電力量に換算できる6000万kWhのグリーン電力を生みだすまでになった、NPO法人「北海道グリーンファンド」の鈴木亨さん。
福島原発事故後、各地に次々生まれている「ご当地電力」活動の先駆者でもある鈴木さんにうかがった、夢を叶えるヒントがいっぱいのこれまでの道のりと胸踊る今後のヴィジョンを、前・中・後編の3つに分けてお届けします。
絶望は、希望のはじまり。
NPO法人北海道グリーンファンド理事長:鈴木亨さん
市民出資による自然エネルギー発電を進めてきた「北海道グリーンファンド」の合言葉は、「コーヒー1杯分の寄付で、地球にやさしい未来をつくりませんか?」。
その活動基盤は、電力会社に対する“電気代の支払い代行”を前提に、会員の月々の電気料金に5%のグリーンファンド(自然エネルギー基金)分を加えた額を徴収し、それを積み立て基金として「市民の共同発電所」を建設・運用する「グリーン電気料金制度」です。
月々の電気代が1万円だったとしても、5%ならたったの500円。市民一人一人の小さな力の集積が、大きな電力を生み出すエネルギーになっている事実を思うと希望が湧いてきますが、このしくみが生まれるまでには、多くの市民を絶望に陥れるような厳しい現実がありました。
ぼくはもともと、東京の「生活クラブ生活協同組合(以下、生活クラブ生協)」で配送などの仕事をしていたんです。
生活クラブ生協は、安全な食品や生活雑貨の生産者を見つけ、その商品を組合員たちで共同購入して買い支える、という活動を行っている組織なのですが、1986年4月に起きたチェルノブイリ原発事故のあと、生産者が苦労して育てた完全無農薬のお茶に、274ベクレルのセシウムが出てしまったんですね。
国の基準値は356ベクレルだったから、まぁ国レベルでは問題なかったのですが、生産者さんは「出荷できない」といって全て焼却処分。生産者さんも、生活クラブも、会員さんたちも、大きなショックを受けました。北海道の生活クラブでは汚染された茶葉を瓶につめ、原発について話し合う「わたらい茶」班会を開催していました。
「安心安全な食」をテーマにがんばっていても、自分たちの力だけではどうにもならない。そんな現実を思い知った生活クラブのメンバーは、この事件を機に食だけでなくエネルギーの分野にも意識を向け始めます。
その2年後、鈴木さんは出身地の北海道へ転勤になり、札幌の生活クラブ生協が職場に。折しも北海道は、新しくできた泊原発の稼動について、大論争のまっ只中でした。
チェルノブイリの後でしたから当然大きな反対運動が起き、道民あげての道民投票運動がくり広げられていました。生活クラブでも組織をあげて運動に参加し、みんなで一軒一軒署名をあつめモーレツにがんばって、道民みんなの力で、なんと100万筆をあつめたんです。
北海道の人口は約550万人だから、ざっと有権者400万人として4人に1人が反対した計算になる。すごいことですよね。でも、道議会では惜しくも2票差で負け、道民投票は却下されてしまったんですよ。
ショックと悔しさに打ちのめされつつも、安全を求めるお母さんたちの情熱が消えることはなく、その後鈴木さんは業務命令で、生活クラブ内にあった「脱原発部会」の事務局担当者に。
配送業務と並行して、部会メンバーの熱血ママさんたちとともに、デモ、署名活動、原発についての勉強会…などを行うことが職務の一つになりました。
けれどもだんだんと、その活動に違和感を感じるようになっていったそうです。
ぼくはもともと運動家タイプじゃなくてね(笑)。そりゃ生活クラブ生協に就職するくらいだから社会問題への意識はありましたが、みんなとデモや抗議をしつつも、「これだけじゃ社会は変わらないよなぁ…」っていう気持ちが、どこかにずっとあったんです。
生活クラブは商品開発をするとき批判するだけではなく対案を示し、生産者と共同開発したものを継続利用で支えています。
だから、1・2号機だけでもあれほど反対していた泊原発に、また3号機ができるという話が持ち上がった1996年ごろからは特に、「今のような反原発運動のままでいいんだろうか?もっと効果的な方法が考えられないか?」という想いを、ぼくも部会の組合員さんも強く持つようになりました。
エネルギーも食品と同じように、買い手と売り手で成り立っている商品。ならば、「安全な食品」のつくり手と買い手をつなぐ生活クラブ生協の手法を応用し、エネルギーも自分たちの望むものをつくってもらうしくみをつくれないものか…。
人知れずそんな想いを持ち始めたある日、鈴木さんたちは一冊の本に出会います。その本には住民投票で原発をやめ、住民の家々の南側の屋根に寄付で設置した太陽光パネルのソーラーパワーで電力公社を運営する、カリフォルニア・サクラメント州都の取り組みが載っていました。
「原発に代わる自然エネルギー発電を市民の協力で事業化した場所があるんだ!」。鈴木さんは、興奮冷めやらぬまますぐに著者の東北大学教授・長谷川公一さんにコンタクトをとり、彼を北海道に招いて生活クラブの会員さんたちとともに勉強会を開催。そこで大きな希望をつかみます。
集まったお母さんたちに長谷川さんが、「月に電気代の10%を寄付してでも、自然エネルギーの電気をつくることに賛同する方はどれくらいいますか?」とたずねたんです。すると、なんと参加者みんなが手をあげたんですよ。
「少し高くても安全なものを食べたい」という組合員さんたちの本気がエネルギーに関しても同じであることを感じ、生活クラブ生協のノウハウを活かせば、市民出資のグリーン電力づくりもまんざら夢じゃないかもしれない!と思いました。
“妄想”から“構想”へ。
ちょうどその頃、ヨーロッパではグリーン電力の原型となる取り組みが各地で誕生。日本でも31年ぶりに電気事業法の規制緩和が行われて「異業種企業による自家発電電力の電気事業者への売電」が可能になり、1997年には京都で開かれた「地球温暖化防止会議(COP3)」で「京都議定書」が話題になるなど、自然エネルギーへの社会的な気運が上昇。
周りの人々には「途方もない妄想」と笑われつつも、鈴木さんは頭の中で、「生協式グリーン電力事業」への夢をふくらませていきました。
そんなある日、鈴木さんは生活クラブ生協の職員として、朝日新聞の記者から食に関するインタビューを受けることに。取材が終わったあと、ふとまだ部会での構想段階でしかなかったこの夢について語ると、記者は「おもしろい!」と共鳴。なんと後日その内容が生活クラブ生協の新構想として、夕刊の一面に発表されてしまったのです。
ぼくもビックリしましたが、その記事はとても話題になり、賛同や参加を希望する声もたくさん届いて、なんと北海道電力の営業部長からも「詳しくきかせてほしい」と連絡がきたんです。
その部長に会って話したら、「電力会社の仕事は公益事業なのだから、道民のためになることなら協力する」といって、ぼくがまったくの門外漢だった電気や事業のしくみについて、参考になるいろいろなことを教えてくださったんですよ。
畑は違えど理解しあえる人というのはいるものなんですね。彼のような広い視野と度量を持つ企業人に出会えたことは、本当に大きな幸運でした。
“遠むすび”のチカラ。
生活クラブ生協と北海道電力、脱原発運動の中では対立しがちな関係であっても、利害が一致すれば協力することもできる。
一見遠くかけ離れた敵対する間柄のようで、実はひとつの接点で関係を結ぶこともできる二者との協議を取りまとめながら、市民と電力会社、両方のニーズと視点を学び、知恵と心を交し合っていった鈴木さん。
その結果、両者の「求めるものとできること」が合致した新しい連携システムとして、生活クラブ生協内に「グリーン電気料金制度」が提起されます。
「安全な電気の生産と共同購入」を食品と同じ感覚で実現しよう、という生活クラブならではの想いをベースに、
2:グリーン電気料金が上乗せされる5%ぶん、節電を心がけること
3:みんなの5%を集めた基金で、自然エネルギーを広めること
の3つを目標に打ち出されたこの制度は、理事会で議論を重ねたのち、有志60名へのトライアルを経て、1999年12月、本格的にスタートします。
下記は、鈴木さんを含む生活クラブ生協の脱原発部会「さようなら原子力発電の会」の編集で1998年11月に刊行された、「グリーン電気料金制度」開始の原動力になった本。
右は初版本。左は初版本に加筆・修正を加え、新たに編集し直されたリニューアル版。
「市民出資のグリーン電力を作ろう!」という熱い想いのお母さんたちが、鈴木さんとともに膨大な専門資料と向き合い途方に暮れつつも、学習会と編集会議を重ね1年かけてまとめあげた、学びと情熱の結晶です。
原発をやめ、自然エネルギーでつくった電気を共同購入するしくみをつくりたい。そのためにはまず、自然エネルギー発電について知り、それをみんなに知らせなくっちゃ!
そんな心意気が詰まった素人にもわかりやすい内容とともに、「グリーン電気料金運動」の提起も記されたこの本が出版されてから4ヵ月後の1999年3月、鈴木さんは「グリーン電気料金制度」の普及を目指し、退職。
当時施行されたばかりのNPO法を活用し、その年の7月にNPO法人「北海道グリーンファンド」を立ち上げ、生活クラブ生協ともつながりながら、「市民出資のグリーン電力づくり」に向け新たな一歩を踏み出します。
それは鈴木さんの胸に自然エネルギーへの夢が芽ばえた長谷川公一さんの勉強会から、約3年後のことでした。