みなさんは「刺し子」という民芸を知っていますか?
東北地方に伝わる、布にひと針ひと針、針を刺して模様を描き出す技法で、糸で布を補強することで保温性を高め、布を強くしたものが始まりとされています。
そんな刺し子の制作を通して、震災後、仕事もやることもない状況で避難所にこもっていたおばあちゃんたちに交流の場を提供し、ささやかながら自分で得た収入で生活の再建をはかるお手伝いを行ってきた「大槌復興刺し子プロジェクト(以下、刺し子プロジェクト)」があります。
活動場所である大槌町は、岩手県の沿岸南部に位置する三陸の小さな町。町役場など町の機能の大半を津波で失い、2年経った今も、多くの方が仮設住宅での生活を余儀なくされています。そんな中で、「刺し子プロジェクト」を立ち上げ、大槌町の方々とともに歩き続ける吉野和也さんにお話を伺いました。
[こちらの記事は「東北マニュファクチュール・ストーリー」を参考に構成しています]
「そんなことでおばあちゃんを泣かすな。」
震災後、現地に行った人のブログにこんなことが書いてありました。
とある避難所で、震災が起こった時からずっと同じニット帽をかぶっているおばあちゃんがいた。支援物資で届いたニット帽があるから欲しいとおばあちゃんが言っているけれど、「人数分ないと不公平になるから」とニット帽は支給されず、おばあちゃんは泣いている。
これを読んだ吉野さんは、「ニット帽をあげればいいじゃん、すごく大変な目にあってきたのに、そんなことでおばあちゃんを泣かすな」思ったそうです。
でも、現地には現地の事情があるはずで、それは行ってみないとわからない。当時、ウェブ制作の会社に勤めていた吉野さんは、会社の休みを利用して現地に赴き避難所を訪問しました。
実際に行ってみると、出会ったおばあちゃんが「ここは地獄だ」と言っていて、現地は壮絶な状況でした。
津波から逃げている途中、うずくまっているおばあちゃんを助けられず自分だけ逃げた。旦那さんと、不妊治療の末に授かった子どもを2人とも津波で亡くした。そんな人たちがたくさんいて、僕には本人がどれだけ苦しいか全くわからなかった。想像がつかないんです。その人たちに、自分ができることって何だろうと……いや、ないな、と思いました。
でも、そばにいることはできる。そばにいれば、一緒になって泣いたり、笑ったり、喜んだりすることができるんじゃないか。そばにいれば、ちょっとは心が安らぐんじゃないかと思ったので、仕事を辞めて移住することを決めました。
吉野和也さん
日頃からお世話になっていた経営者の方へ想いを伝えると「私の分も頼む」と現地で活動するための資金を援助してくれることになり、吉野さんはすぐに会社に辞表を出し、5月4日には大槌町へ移住します。
そのときその経営者の方に言い渡された条件は「ずっと現地にいること」というもの。関東でずっと育ってきた吉野さんですが、「そんな簡単に、復興は終わるわけではないんだから、ずっといるんだよ」というその方の言葉にも「うん、それが一番やりたいことだから」と迷いのない瞳で、現地へ飛び込んだといいます。
避難所の「やることがない」「仕事がない」という課題
吉野さんが被災地の中でも大槌町へ移住を決めたことには理由があります。
「ふんばろう東日本プロジェクト」という、当時現地に行った人が次に現地へ向かう人たちのためにノウハウを書き込み、共有していたサイトで、一人の男性と知り合ったことがきっかっけでした。その男性は大槌町の避難所52カ所を訪問して回り、amazonのほしいものリストを活用することで2,800点の物資を届け終えたところでした。
「支援を行う上で、信頼関係を築くところからスタートしたら、本質的な活動ができるまでに相当な時間がかかってしまう」と考えていた吉野さんは、この男性に協力をお願いし、大槌で男性が築いた人間関係をそっくりそのまま引き継がせてもらうことにしたのです。その後、吉野さんは現地で避難所の片隅に寝床を借りてのヒアリングをスタートしました。
まず、ここで何が起きているのかを知るために、避難所や地域の色々なところに行って、いろんな人に話を聞くことを繰り返しました。そこで出てきた問題点に対して、ネットで知り合った4人の仲間たちと、毎週末スカイプで4時間くらいディスカッションする日が続きました。
その中で課題となったのが、まず収入がないこと。そして避難所でも、若い人はすぐどこかへ出て行くけれど、年配の人はずっと残っていること。この「やることがない」ことと「仕事がない」ことに対して何かしようということになったんです。
刺し子プロジェクトのはじまり
避難所では個人のスペースはとても小さく、そのような狭いスペースでも継続してできることを探しているうちに、「刺し子はどうか」という提案があがりました。刺し子に必要なのは、針と糸と布だけ。狭いスペースでも作ることができ、手仕事をすることで心が落ち着く効果もあるだろうと考えた吉野さんたちは、すぐに現地で刺し子の試作品をつくりはじめます。
また、製作した刺し子を販売することで収入が得られる仕組みをつくろうと、同時に東京側でもサイトを立ち上げ、6月にはネット販売を開始。試作品はすぐに完売し、プロジェクトは順調にすべりだしました。
商品が売れたことももちろんですが、刺し子さんたちの反応がすごく嬉しかったんです。おばあちゃんが初めてつくったコースターに300円をお支払いしたら、そのあとで「孫にジュースを買ってあげられたのよ。ありがとう」って言ってもらえました。
震災前は大きな家に住んでいた、とても品のよいおばあちゃんなのですが、避難所暮らしになってからはお孫さんがジュースを欲しがっても買ってあげられなかったそうなんです。喜んでいる顔を見てぼくも嬉しくて、仲間に「ちょっと聞いてよ」って電話してしまいました(笑)
今では刺し子のおばあちゃんたちは、息子や孫のように「体大事にすんだよー」と心配してくれる、家族のような関係だそうです。
チベットの言葉で、好きなことわざがあるんです。「ふるさとは、あなたが心地よく感じるところ。両親は、あなたにいいことをしてくれた人たち」。僕にとって岩手はふるさとで、震災後、僕には家族がたくさんできたなと思っています。
たくさんの手助けとともに
順調にスタートした「刺し子プロジェクト」ですが、メンバー5人はここで現地の人手不足に悩まされます。現地には吉野さん一人しかおらず、刺し子さんを増やすことができなかったのです。
そんな時、吉野さんを職員として採用していたNPO法人テラ・ルネッサンスが運営を引き継ぐことに。テラ・ルネッサンスは海外で地雷撤去支援や元子ども兵の社会復帰支援に取り組んでおり、国内では震災後「ともつな基金」を立ち上げるなどの活動を行ってた団体です。このテラ・ルネッサンスが運営するようになったことで、組織的に刺し子プロジェクトに取り組んでいくことができるようになったのです。
また資金面だけでなく、刺し子の製作を実際に行っていく中で生産面での課題も見えてきました。
試作品を東京メンバーに送った時のコメントが印象的でした。「返品されるようなレベルではないものの、カオスです」って(笑)。どうやってレベルをあげればいいのだろうと頭を抱えましたね。それからしばらく、試行錯誤の日々が始まりました。
布への下書きも、最初はチャコペンを使っていましたが、水性のチャコペンでは下書きが広がってしまったり、時間が経つと消えてしまうので、刺し子さんが刺す場所が分からなくなってしまうという問題がありました。
この難局から救ってくれたのが、岐阜県の飛騨という地域で、刺し子を40年間行っている「飛騨さしこ」でした。刺し子プロジェクトで使う糸を飛騨さしこのECサイトから購入していたところ、「大槌復興刺し子プロジェクト」という名前に目を止めたスタッフの方が、「私たちに手伝えることはありませんか?」と連絡をくれたのです。
飛騨さしこの担当者は2カ月間、現地に張り付いて刺し子の縫い方や商品の作成方法の指導や、刺し子プロジェクト用に水につければ消えるインクを開発して、裏地にデザインを印刷した布を作成してくれたそう。
僕たちがよっぽど「苦しい、苦しい」みたいに言っていたのでやってくださったんだとは思うのですが(笑)産業革命みたいでしたね。すごく楽になって、みんなものすごく喜びました。ここがすごく大変な部分だったから、飛騨さしこさんのご協力は本当に心強いです。
飛騨さしこ本舗さんの人気商品「段染め糸」で、鮮やかな虹色のラインを描いたTシャツ
活動開始から1年程が過ぎた2012年6月30日には、担い手である刺し子さんも186人に増え、販売枚数は計14,256枚。この頃になると1ヶ月の販売枚数は1,300枚ほどになり、刺し子さんの意識も高く成長し、一点ものなど高い技術力を要する商品も手掛けるようになりました。
しかし軌道に乗った後も、今日まで様々な課題の連続だったといいます。
運営面で特に難しかったのは、生産コストと売上のバランスです。1,500枚の製品を刺し子さんから買い取るのには、70万円程必要になります。買い取った上で、材料の仕入れをするので、手元のキャッシュが1回なくなるという状態になってしまう。
このバランスをうまくとれずに、あるとき一旦、キャッシュアウトになりかけて、一時、生産停止したこともあるんです。その反省を活かし、今では生産コストと売上を意識してコントロールするようにしているため、このようなことは起こらなくなりました。
テラ・ルネッサンスの支援は、「地域の人たちが、地域の課題に自分たちで取り組んで解決していくこと」を目的にしており、刺し子プロジェクトも2021年までに運営主体を地元の人へ引き継ぐことを目標にしています。
刺し子さんの意識が育つ中で、吉野さんたちは小さくても地域に根付いた産業となるよう、経営体制を整えることにも力を入れており、プロジェクトを始めた当初は助成金や寄付金頼りだった活動資金も、最近では刺し子の売上から捻出できるよう取りはからっているそうです。
「大槌復興刺し子プロジェクト」から「大槌刺し子ブランド」へ
吉野さんたちは、ネット販売をはじめた2011年6月ごろから「大槌刺し子」への夢を抱いていました。
始めたばかりの頃は常に必死で、刺し子を地域のものにしていく見通しが見えたことも一切なくて…。でも、いずれ「大槌復興刺し子プロジェクト」の”復興”の字を抜いて「大槌刺し子」にしようと思って活動をしていました。
大槌に刺し子がもともとあったのかというと、雑巾を縫って作るというような日常的なものはありましたが、津軽の「こぎん刺し」、南部の「菱刺し」、庄内の「庄内刺し子」のような伝統工芸はありませんでした。
そんな中、刺し子プロジェクトを発端に「大槌といえば刺し子」というような、大槌ブランドを確立し、継続的な事業にすることで、また雇用が生まれる、というかたちで町に貢献してくことが吉野さんたちの目標です。
手仕事による伝統工芸の復興というのは世界的にも例がないと言われていて、それに対するチャレンジを今、行っています。「飛騨さしこ」の方が、大槌から飛騨に来てほしい人がいると言っていたくらい、大槌の刺し子さんにも力があるんです。
伝統文化や、伝統工芸の担い手不足は震災前から深刻な問題として取り上げられてきました。震災後、被災地ではどこも急激な人口減少と高齢化が進んでいます。日本のどの地域も同じように抱えている未来へ、一歩先に足を踏み入れた東北。お話を聞いているうちに大槌町の産業として刺し子が成長しても、その産業を受け継いでいくだけの人がいないのでは…?という疑問が湧き、ぶつけてみました。
そういった課題に対して、様々な対策があると考えています。例えば今、別事業で紙の書類を電子化する仕事をしていますが、その原稿の校正の内職は、釜石市と大槌町で70人ぐらいの方が参加しています。そこに参加している若い人や、主婦の方たちは、大体時給500円ぐらいの賃金をもらっていて、すごく割がいいと言われている。
そのように時給500円の仕事を自宅でやりたいという若い人たちがいるので、もし、刺し子プロジェクトもそれぐらいの工賃が支払えるような状況になれば、刺し子の担い手になってくれる可能性があると考えているんです。
現在、布巾1枚に対して刺し子さんに支払われる金額は500円、布巾を1枚作るのに約2時間かかることを考慮すると、「時給500円」は今の刺し子の倍の時給ということに。その水準まで押し上げることは難しい挑戦ではあるものの、復興支援という気持ちを抜きに買ってもらえるような優れた商品を作ること、そして販路を拡大し、売り先をきちんと確保していくことを通じ、若い人たちも納得するような工賃を支払えるようにしていきたいとのこと。
また、未来の展望に関してはこんな風に話してくれました。
今は、我々の縫製の技術も拙く、制限を出しているので、デザイナーさんも全く本領発揮されていないと聞いています。刺し子さんの技術力向上に取り組み、少ない単位で新商品としてどんどんリリースしていくような仕組みを作ることで、ベストセラーを早く見つけていきたいですね。それができると、地域にとってなくてはならない産業になると思っています。
それから、刺し子プロジェクトが行っている地域課題に対するアプローチは、同じような課題を抱える地域にも展開できると思っています。こちらがある程度落ち着いた段階で、大槌町以外の過疎地域や似たような課題を抱える地域でも、課題解決のお手伝いを行っていけたらと考えています。
震災から2年。被災地では、自らの力で生活を立て直していこう、という想いが溢れていました。吉野さんは今だからこそ現地に入っての肉体労働だけでなく、個人が得意とする技術をいかに現地の役に立てるかという発想が大事だと言います。
さまざまな技能や経験を持っている個人や企業の力を借りて、この大槌町という場所でイノベーションを起こし続けていきたいです。大槌の未来が日本の未来につながることを信じて、これからも仲間を探し続けます。
そう話す吉野さんの目は輝いていました。これから大槌町もどのように輝いていくか楽しみです。
(Text:櫻井眞)
[こちらの記事は「東北マニュファクチュール・ストーリー」を参考に構成しています]