夏、毎年訪れるものといえば、セミ、子どもたちの夏休み、甲子園などなど。そしてもうひとつ忘れてはいけないのが原爆の日。今年は広島、長崎に原爆が落とされてから65周年に当たる年、8月6日と8月9日には、原爆の被害あわれた方々のことを想い、もう二度と核兵器が使われることのない世界への想いを新たにしようではありませんか。
というわけで、今日は原爆について考えるきっかけとなりうる名作映画『さくら隊散る』をご紹介します。広島で原爆にあってしまった移動演劇隊に降りかかった出来事を、関係者のインタビューと再現ドラマで描いたこの作品は、原爆の記憶を新たにするのです。
原爆を映画にするというのは非常に難しいことです。爆心地近くにいた人々は一瞬で灰になってしまった。即死を逃れた人々の多くは全身にやけどを負い、あるいは建物の下敷きとなり、飛んできたガラスに切り裂かれ、瀕死の状態で町をさまよった。さらに無傷のように見えた人々も直接に放射線を浴び、あるいは黒い雨によっていわゆる原爆症となって数日後に亡くなった。それをいかに映像にするか。目を背けたくなるほど悲惨すぎず、しかしその苦しみが伝わるように描くというのは非常に難しいことでしょう。
この作品の題材となっているさくら隊は、俳優の丸山定夫を中心とする移動演劇隊で、昭和20年8月6日、広島で原爆にあってしまいます。5人が即死、4人が即死は免れたものの、原爆症にかかってのちなくなってしまいます。この作品は即死した5人についてはほとんど何も語りません。彼らは一瞬で焼き尽くされ、数日後に焼け跡に行ったときには骨しか残っていなかったのです。そのすさまじさは数十万度という数字によって示されるだけ、おそらく彼らは苦痛を感じる暇も無く焼き尽くされたのでしょう。死んだということはもちろん悲劇ですが、自分の身に何が降りかかったのかもわからぬまま苦痛を感じることも無く死んだという点だけにおいては彼らは幸せだったのかもしれないのです。
この作品を監督した新藤兼人は1912年、広島生まれ。彼自身は徴兵されて広島にいなかったため被爆することはありませんでしたが、彼の心に重くのしかかります。1952年には、戦後初めて原爆を直接取り上げたとされる『原爆の子』を監督します。
その新藤兼人がこの作品で描くのは、原爆が落とされたその瞬間を生き延びた人の苦しみです。それぞれが命からがら生き延びながら、結局、同じ原爆症で死んで行ってしまう。彼らの死の原因が原爆症であり、それが放射能による骨髄機能の破壊からくる白血病であることが明かされるのは、さくら隊の9人目の犠牲者である仲みどりが東大病院でようやく「原始爆弾症第一号」と認定されたあとのことなのです。その苦しみこそがこの映画の核となるのです。
この作品は基本的にドキュメンタリーで、映画の中心はインタビューなので、非常に淡々と展開しているように見えます。しかし、誰もがもう老齢に差し掛かってしまった証言者たちの語りを再現映像によって見せることによって観客に新たな記憶を植え付けます。単に話を聞くのと、映像によって見せられるのではまったく違います。とくに丸山定夫、園井恵子、高山象三、仲みどりといったさくら隊のメンバーの(原爆症の)病状が進んで行く様は、まさにこの世の地獄。生きながら内臓が腐って行くというその苦痛は想像を絶するものであり、役者の演技によってその痛みと高熱で悶絶せずにはいられない彼らの苦悶が伝わってくるのです。
その再現ドラマから彼らの無念が伝わり、さらにインタビューによって彼らの戦前の姿が明らかになって行くことで、観客は徐々に彼らに近づいて行くことができます。そして映画の終盤、淡々と丸山定夫との想い出を語る杉村春子の姿や、『無法松の一生』に出演していた園井恵子の姿をみて、思わず涙がこぼれそうになってしまいました。
その涙をもたらすのは、原爆という兵器の無差別さに対する憎しみです。原爆は、戦争のための兵器というよりは、一般市民を大量殺戮する道具です。そして、そのような兵器が今も世界に大量にあり、しかもそれらは広島の原爆の何十倍もの威力を持っているということの恐ろしさに慄然となります。そしてまた、劣化ウラン弾という偽装された核兵器によって、その兵器が使われた地域の人々や帰還兵の間で白血病や癌の患者が増加しているという事実(その相関関係は確認されていないが)に怒りを覚えます。
この作品は過去の出来事を扱った証言フィルムです。しかし、そこに描かれていることは、単なる過去の事実ではなく、現在へとつながる悲劇なのです。原爆の日という絶好のタイミングに、この作品を見ることで、核兵器の恐ろしさを今一度、思い起こしてみてください。