『生きる、を耕す本』が完成!greenz peopleになるとプレゼント→

greenz people ロゴ

山崎亮×アサダワタル×兼松佳宏「ソーシャルデザインを教育するってどういうこと?」

「ソーシャルデザイン」の浸透とともに、ソーシャルデザインに関する講義や授業が増えてきました。とはいえ実際に現場の話を伺うと、まだまだ手探りというのが現状のようです。

そういう僕(兼松)自身も京都精華大学人文学部で一年間、ソーシャルデザインの授業を担当してきました。後期の授業が終わっていま頭のなかにあるのは、「僕はソーシャルデザインを教えることができたのだろうか?」「ソーシャルデザインを教育するってどういうことなんだろう?」というそもそもの問いです。

そこで今回お招きしたのが、『ソーシャルデザイン・アトラス』等の著者であり、東北芸術工科大学コミュニティデザイン学科長も務めるstudio-L山崎亮さんと、『住み開き』等の著者であり、京都精華大学ポピュラーカルチャー学部で「ソーシャルデザイン演習」を担当しているアサダワタルさんのおふたりです。

対談は、山崎さんの「ソーシャルデザインに最低限必要なスキルって何?」という直球の問いからスタート。そこからみえてきたのは「大学そのもののソーシャルデザイン」という大きなビジョンでした。

ソーシャルデザインに最低限必要なスキルってなんだろう?

山崎亮さん

山崎さん いきなりなんですが、アサダさんと兼松さんは、ソーシャルデザインに最低限必要なスキルって何だと考えてますか? 例えば「デザイン」と付くからには、絵を描いたり、モノのかたちを美しくするスキルは必要なのかとか。

兼松 そういえば、山崎さんのコミュニティデザイン学科では、一年次にスケッチの描き方を学ぶそうですね。そういう発想はなかったので「なるほど!」と思いました。

山崎さん それは概念を整理して人に伝えるスキルが、コミュニティデザイナーにとって必須だからなんですよね。絵の良し悪しというよりも。

僕が考えてみたいのは、核となるアイデアが大事だとして、アウトプットの段階でクオリティを高めるためのスキルを、ソーシャルデザインの授業で教えるべきかどうか、ということなんです。

アサダワタルさん

アサダさん 僕が教えているのは、音楽やファッションをつくったり、伝えたりする人を育てるポピュラーカルチャー学部というところなので、他の授業でモノのつくり方を学んでいることになります。だから僕はそうやってつくった作品を社会にどう届けるのか、というところを担当している感じですね。

兼松 僕も同じで、人文学部の他の授業でリサーチやエッセイなどをしているはずなので、自分の好きなことや興味のあることをどう社会とつなげるのか、にフォーカスしています。

ひとつのキーワードは「自分にもできることがある」という“自己効力感”なのですが、どちらかとうとマインドセットやTOBE(あり方)に近い話なので、いざTODO(やり方)を問われると、もう少し整理が必要かもしれません。

山崎さん そうすると、コミュニティデザイン学科特有のジレンマなのかもしれませんね。音楽やファッション、文章など、自分の核となる表現があって、そのアウトプット先が社会に向けばソーシャルデザインと呼べるかもしれない。

一方で、自分では何もつくれないけれど、「ソーシャルデザインの専門家です」といえるのか。いえるとしたら、それはどんな意味を持つのか。今まではコンセプトを考えたり、お金をとってきたりする人はプロデューサーの役割ですよね。

兼松佳宏(元「greenz.jp」編集長)

兼松 「コミュニティデザインの専門家」というと、少なくともコミュニティデザインの歴史や事例、手法について豊富な知識を持っていることと、実際のワークショップの現場で何かが起こったときに臨機応変に対応できること、とかが思いつきそうですね。それに比べて「ソーシャルデザイン」という言葉はもっと漠然としているし、そもそも「デザイン」をどう捉えるかが難しいです。

僕はあくまで課題をクリエイティブに解決していく、という意味での「デザイン」だと考えていて、人文学部ではどうしてもモノではなくコトを発明することがゴールになっています。とはいえ確かに、アイデアだけ考えて他は誰かに丸投げではなく、ウェブサイトでもZINEでも家具でも、下手でもいいから何かしら自分の手でつくる経験はしてほしいなとは思います。

アサダさん 僕の授業の名前は「ソーシャルデザイン演習」なんですが、先にそう決まっていたので、ずっと不安だったんですよね。そもそも僕はデザイナーではないし、デザインの歴史に詳しいわけではない。そんな僕が学生に伸ばしてほしいのは、音楽やファッションという作品をつくるだけではなく、その使い途を広げていくセンスなんです。

兼松 例えばどんな授業をやりましたか?

アサダさん ひとつは身近なソーシャルデザイナーへのインタビューですね。学生にとっては、自分がどんなテーマに関心があるのかもわからない段階だと思うんです、最初は。そこで自分の人間関係からつながっていけそうなひとたちから、ソーシャルな要素を自分なりに見出し、そこからどんなふうにいまの活動につながっていったのか聞いてくる。そうやって、発想するための行程を知ってほしいなと。

兼松 それ、人文学部でもやってみたいです(笑) リビングワールドの西村佳哲さんは、造形教育の手前の領域をめぐる、デザイン教育の試みとして「プレデザイン」という授業をやっているそうなんです。もし「プレ・ソーシャルデザイン」があるとすれば、どんな内容になるかなあ。

アサダさん 考えてみたいですね。

兼松 とにかく、いまのところ京都精華大学におけるソーシャルデザインの方向性はコト寄りなのかもしれませんね。もちろんモノとコトの両方できることが理想ですが。ただ、本当に言葉って難しいなあと感じています。「ソーシャルデザイン」というとデザイン系の学生には興味を持ってもらえますが、人文系の学生にはピンとこないことも多いんですよね。

要は文学でも歴史学でも、自分の好きなことや専門性をどう社会的な課題の解決にいかしていくのか、ということなんですが、「ソーシャル編集」とか「ソーシャル・クリエイティブ・ライティング」とか、人文学部生に届く新たなラベリングを考える必要があるなあと。

アサダさん それはポピュラーカルチャー学部でも一緒です。選択必修といっても「興味がある」というのは、よくて3割くらいじゃないかな。ただ「何がしたいのかわからないけど、とにかく既存の枠を超えて何かをやってみたい!」という学生の受け皿になれているような気はします(笑)

兼松 その期待感は、それはそれで大切ですね。ちなみに来年度から、精華が持つ、芸術、デザイン、マンガ、ポピュラーカルチャー、人文の専門性を社会に展開する力を身につける全学プログラム「SEEK(Socially Engaged Educational Key)」という仕組みがスタートします。

そこでは人文学部だけでなく学部横断型でソーシャルデザインの授業も担当することになっているので、いろいろ実験していけるといいですね。

「ソーシャルデザイン」を分解する

ホワイトボードもフル活用

山崎さん 「ソーシャルデザイン」という概念が漠然としているので、少し分解してみた方がよさそうですね。例えば「ソーシャルアート」と「ソーシャルデザイン」の関係。

先ほど出た「好きなこと」と、「社会に役立つこと」って必ずしも一致しないですよね。「科学」だって、その成果が社会に必要とされたとき初めて「技術」になるわけです。同様にさまざまな制約条件や表現可能性の程度の差で分けてみたとき、アートとしてより自由に生み出されたものが、社会のニーズに適ったときデザインになる、ともいえる。

そうするとアートプロジェクトを通じて社会を変えようとする「ソーシャルエンゲージメントアート」のような分野はソーシャルデザインといえるのか。

兼松 直接的な意図がある場合と、間接的な、結果的にそうなったという場合があると。

山崎さん アサダさんの得意な音楽で言うと純粋な作品と、人と人がつながる音楽、孤独死を撲滅する音楽、銃を置きたくなる音楽はどう違うのか。

アサダさん ややこしくなってきましたね(笑)

山崎さん 一方、「コマーシャルデザイン」に対する概念としての「ソーシャルデザイン」もありますね。消費社会が広がった20世紀中頃から、いつのまにか社会的ニーズ=株主への説明責任、企業の成長、売上の拡大、商品の差別化となってしまった。

そもそも19世紀末から20世紀初頭におけるアートアンドクラフト運動やバウハウスの時代は、デザインといえばソーシャルなものであり、貧困や公害から人々を救うことを目指したのがデザイナーでした。それがいまや商業的なデザイン活動が主流になったことで、わざわざ「ソーシャルデザイン」と言わなくてはいけなくなった。

兼松 そう言わなくてもいいくらいが理想だと。

山崎さん さらにややこしいのが「ソーシャルデザイン」というときに、「何をつくるのか」と「どうつくるのか」の違いです。

プロダクトデザイン、グラフィックデザインというとデザインする“対象”です。一方、ユニバーサルデザイン、サステナブルデザイン、インクルーシブデザインはデザインするときの“考え方”でしょう。コミュニティデザインも、「コミュニティをつくる」というよりは、むしろ「参加型で決めていく方法論」だと考えています。

兼松 インクルーシブなプロダクトを、コミュニティでつくる、みたいな。

山崎さん はい(笑)この分類でいうと、「ソーシャルデザイン」は「社会をデザインする」のではなく、「社会的なニーズに応えるデザイン」だと捉えると、もう少し輪郭がはっきりするのではないでしょうか。

アサダさん ちなみに社会に役立つアイデアを考える訓練として、僕の授業では「Yahoo!知恵袋」を使っているんです。そこにはつい考えたくなる悩み相談がたくさんあるんですよね。「ぼっちになっているんですが、どうしたらいいでしょうか」みたいな。

そこで「どんな曲やったら、なぐさめられそう?」という課題を出しました。既にある曲でプレイリストをつくって理由を添えたりしながら。なんでこんなことをするかというと、音楽業界でもファッション業界でも、つくる人たちだけではないからなんです。

既にあるものを編集してみることで、全く新しいルールを生み出すことだってできる。音楽やファッションが好きなら、それらを別に文脈へと使いこなす方法からクリエイションして、その仕事の幅を広げていけることがゴールというか。

兼松 なるほど。僕の場合のゴールは「それぞれマイプロジェクトを持ちましょう」の一点なんです。マイプロジェクトとは「誰かに頼まれたわけではないのに、その人にしかない問題意識から始めたプロジェクト」のことで、ソーシャルデザインの入り口と位置づけています。

よく「Will(やりたいこと)」「Can(できること)」「Must(すべきこと)」を重ねていきましょう、と言われたりしますが、Will=「ほしい未来」についてじっくり考える機会って意外と少ない。そこでマイプロジェクトを考えることで、Willを掘り下げてほしいなと。

山崎さん どんなマイプロジェクトがありましたか?

兼松 この前は「18:00以降の学生の居場所をつくりたい」というWillに、「ゲーム好き」というCanを組み合わせて、ゲーム大会が開かれました。教室の大画面でポケモンやスマブラをみんなで一緒にやるというイベントなんですが、授業中とは違う学生の一面を目の当たりにしましたね。

そこで気づいたのは、ゲームの本質的な価値です。例えば没入するあまりあるがままの自分をさらけ出すこともある。そうやって見知らぬ者同士だった人たちが仲良くなって、キャンパスで声をかける間柄になっていく。であれば、もしかしたら孤独を感じている留学生にとっても、いい場になるかもしれない。

こんな感じで「好きなこと」をツールに、実際に社会を動かすことができるということを実感してほしいなと。

アサダさん そこが地続きである、いろんな可能性があるって気づけると、もっと楽しくなりますよね。自分のやりたいことを少しずつでもいいので自分の言葉で話せることって大事だと思います。一見どんなにわかりにくい問題意識でも、「あいつはあれがやりたいんだな」って、周りに気づいてくれる人が必ず現れてくるんで。

カリキュラムデザインでできること

兼松 とはいえ人文学部の今の位置づけだと、他の授業と連動性があまりないので、週に一回のペースだと熱が冷めてしまうこともあるんですよね。だからカリキュラムマネジメントが行き届いている山崎さんのコミュニティデザイン学科が正直うらやましいです。

本来は他の教員たちと連携して、ゼミの学びを踏まえたマイプロを一緒に考えたり、こちらからもゼミでは見せない側面を共有したりできると、よりクリエイティブで効率のよい授業になるのかな、とか。来年度はそのあたり動いてみようと思っています。

山崎さん 確かにゼロから立ち上げたので、全部コーディネートできるのはいいですね。教員もstudio-Lのスタッフなのでいろいろ試すことができています。

参考にしたのは、僕が留学していたオーストラリアのメルボルン工科大学の授業なんです。特徴はすべてのカリキュラムの中心にデザインスタジオがあることで、すべての授業の成果がそこに集約されるようなカリキュラムデザインになっていたのです。

例えば「この公園をデザインしなさい」といったとき、週一回のその授業に役立つように、デザインスタジオのための模型をほかの授業でつくったり、写真をほかの授業で撮影したり、他の授業が関係づけられていて、無駄がないんですよ。

兼松 本当にうらやましいです。

山崎さん しかも半分くらいが社会人で、それぞれの経験の違いが学びになるんです。

兼松 その点も素晴らしいですね。ソーシャルデザインのワークショップをやるとき、参加者の多様性が何より重要だと思っているんです。

ただ、いまの日本では大学2年生=20歳前後なので、どうしても同質性が高くてマンネリするケースもあります。そうしたとき、もっと社会人大学生が増えるような状況をつくることが、結果的に深い学びにつながるだろうし、それこそ少子化時代の大学の新たな役割かもしれませんね。

山崎さん 結局のところ、表層を変えたところで限界がありますよね。僕が京都造形芸術大学で学科長を担当したときは、数年かけて学科のマインドを変えていこうと、教員たちにソーシャルデザインの講義をたくさんしました。それをまとめたのが実は『ソーシャルデザイン・アトラス』なんです。

兼松 まずは中から、ということですね。僕もいま「平安文学者×高齢者福祉」みたいに「人文科学的ソーシャルデザイン」についての事例を集めたり、つくったりしながら研究しようと思っているんですが、その成果をまずは教員同士で共有することを大切にしていこうと思います。

アサダさん それにしても、これからの時代の大学の役割って改めて何なんでしょうね。僕はいま音楽をやっていますけど、学部は法学部だったので音楽をやっていたのはサークルなんです。つまり学業での専門外で関心を持ったことを、どうやってキャリアにつないでいくかを実践するのは別に当たり前のことだと思いますが、いまの学生をみていると、生真面目すぎるところがあるというか。

兼松 うーん、確かにちょっと授業が窮屈すぎるところがあるかもしれませんね。僕のソーシャルデザインの授業では、週に一度、一息つけるくらいがちょうどいいのかな。

アサダさん ある程度の自由さって大事だと思うんです。例えば会いたくて会いに行った人の隣りにたまたまいた人と数年後にめっちゃ仲良くなったり、一緒に仕事を興すこともあります。そうやって関係性は常に編み直されていくので、偶然性を取り込む感覚も掴んでほしい。そういう意味では逆にいまの自分の感覚を信じ切るな、とも言いたい(笑)

山崎さん 何を教えたとしても、そこから離れるひとはいますからね。僕がコミュニティデザイン学科でずっと言い続けているのは、「ふるさとを元気にする仕事ができるひとをつくる」ということです。お世話になった人がいる場所が「ふるさと」で、別に出身地に限らない。そして、社会に還元する方法は就職以外にもいっぱいあるということを知ってほしい。

本当に大切なのは自分の心の火を燃やし続けることです。そして新しい火をつける方法や、薪をくべる方法を学ぶのが大学なんですよね。「社会のため」と思うことで火が燃え上がるのであればそれを目指せばいいし、「自分のため」のほうが薪になりそうならそれでもいい。いずれにしても、他者に感謝される仕事を続けていれば、徐々に道が開けていくはずです。
 

(対談ここまで)

 
ソーシャルデザイン教育をめぐる生々しい対談、いかがでしたでしょうか。

新しいカリキュラムによってどのような成果があったのか、本当のところは卒業まで待たなくてははっきりしません。あるいは社会に出て10年くらい経って初めて思い出されることもあるでしょう。

そういう意味では少々、焦りすぎなのかもしれませんが、少なくともこうして試行錯誤を共有することで、よりよいソーシャルデザインの授業づくりにつながると信じています。みなさんは誰かにソーシャルデザインを教えるとなったとき、どんなことを大切にしたいと思いますか? ぜひご提案をお待ちしています。

(撮影: 楢侑子)

[sponsored by 京都精華大学]