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震災復興から、これからのまちのサイズを考えてみる。「旧グッゲンハイム邸」森本アリさんに聞く「変わらないことの豊かさ」とは

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特集「震災20年 神戸からのメッセージ」は、2015年1月17日に阪神・淡路大震災から20年を経過し、震災を体験した市民、そして体験していない市民へのインタビューを通して、「震災を経験した神戸だからこそできること」を広く発信していく、神戸市、issue+design、デザインクリエイティブセンター神戸(KIITO)との共同企画です。

神戸の繁華街・三宮から電車で20分程で、塩屋という街に着きます。

このエリアは、阪神・淡路大震災での被害も比較的少なく、また海と山が非常に近接していることなどもあり、大規模な開発が行われず、駅前には細い路地で連なる昔ながらの商店が並んでいます。

古くから外国人にも愛され、山手には個性的な洋館が今も残ります。その中でも一際目を引くのが「旧グッゲンハイム邸」です。

今回お話を伺った森本アリさんは、音楽家として、また旧グッゲンハイム邸の管理人として、特に関西の音楽好きの人たちの間ではよく知られた存在です。最近では、旧ジョネス邸の保存の運動など、塩屋のまちづくりにも深く関わっています。
 
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森本アリ(もりもと・あり)
音楽家、アーティスト。ベルギー人の父と日本人の母の間に神戸市で生まれる。ベルギー留学中21歳の時に阪神・淡路大震災が発生。現在は塩屋に住み、「旧グッゲンハイム邸」の管理を行う。「塩屋百景」主催。「塩屋まちづくり推進会」にも関わる。

塩屋のまちから震災復興を見る

森本さんは現代美術を学ぶために留学していたベルギーで、阪神・淡路大震災の発生を知りました。ニュースでは長田の街が燃える様子が映されていたそうです。

「大変なことになっているな」と思いつつも、幸いにして家族を含め身近な人たちが無事だったこともあり、しばらくはベルギーでの学生生活を続けました。

その後半年たって、夏休みに日本に一時帰国をしたとき、神戸を含め色々な場所を訪れ日本という国のことを深く考えたそうです。

その年は、地下鉄サリン事件があったり、戦後50周年の年だったりと災害、人災、犯罪などいろんなことが重なっていて、僕にとっても印象深く、沢山日本のことを考えた年でした。

地震から半年ほどたって大学が夏休みになって、スイス人の映像作家たちが、日本のドキュメンタリー作品を撮るというので、彼らと一緒に日本のいろんな所に行きました。

神戸では、被災者のインタビューを行ったり、すでに営業をはじめていた「神戸ポートピアランド」のジェットコースターから、すぐそばに建ち並ぶたくさんの仮設住宅の映像も撮影したそうです。

「その対比が強烈で非常に印象に残っている」と森本さんは言います。ほかにも、広島や長崎で原爆の被爆者の方たちに会ったり、雲仙や水俣にも訪れました。

神戸に戻って来たときに、多くの場所がすでに更地になっていることにびっくりしました。ヨーロッパだと結構いろんな場所で、戦争や災害のときのがれきとか残骸が、そのまま残っていたりする光景に出会います。そういうのと比べてすごく驚きました。

その後、森本さんはベルギーの大学を卒業して日本に帰国。神戸のまちが変化していく様子を見て、日本の災害復興のあり方に疑問を持ちました。

神戸には、小さいお店が並ぶ昔ながらの商店街や長屋、古い建物がたくさんありました。しかし、復興という言葉のもとに、その多くはビルへと姿を変えてしまいました。

大きな受け皿をつくって、地図上で線を引くだけの街づくりでは、その街の歴史と記憶の連続性は途切れてしまいます。もともとそこにあった物との規模が違いすぎる。

低い木造アパートに住んでいたようなおばあちゃんが、高層マンションに住むことになるというのが、僕には幸せには見えませんでした。

当時は、耐震診断の結果、「木造の建物は危ない」と言われて、どんどんコンクリートの建物に建て替えられてしまう風潮がありました。森本さんは「もう少し考えてやってほしかった」と当時を振り返ります。

古いからと言って、それを削って新しいものがその上にドーンと立ってしまうと、もともとの生活の大きさが失われてしまいます。豊かな生活基盤だった、小さな街はどんどん失われていってしまいました。

そんな変わってしまった街と、ここ塩屋は比較対象であり続けていると思います。震災の影響が少なかったのもあって、街の様子がそんなに変わっていません。

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旧グッゲンハイム邸の名前は、明治・大正期に神戸に滞在したドイツ系貿易商の家族に由来する。1909(明治42)年にアレクサンダー・ネルソン・ハンセルの設計で建てられたと考えられている。

売却寸前だった旧グッゲンハイム邸

森本さんは、ベルギーから帰国後しばらくは、ステンドグラス作家であるお母さんの仕事を手伝っていたそうですが、2007年からこの旧グッゲンハイム邸の管理をするようになります。

1909年にグッゲンハイム家の邸宅として建てられたものの、戦争の影響もありグッゲンハイム家は1915年に自国へ戻ります。

その後はいくつかの家族の所有を経て、竹内油業という会社の持ち物に。60〜70年代には集団就職などもあり会社の寮として使われていましたが、90年代以降はワンルームマンションが増え、寮というものが流行らなくなってしまいました。

地震で被害が少なかったとは言え、それでも修理等にはかなりの費用がかかったそうで、維持費だけでも大きな負担となっていました。さらに使う人もいないとなれば、会社の持ち物として維持するのには難しい状況になり、この場所は売却方針へと傾いていきます。

もともとは、僕の母と妹がこの建物に興味を持っていたんです。空家になっていたこの建物が有効利用されることをずっと願っていて、手紙を送ったりもしていました。

そんな中、叔父が持ち主である竹内油業とつながりがあるということが分かって、少しずつ対話も生まれていきました。建築家を呼んで内覧会を行ったり、妹はここでウェディングパーティーを開いて、その会場費を建物の修繕にあてようという話もしていました。

ところが、少しずつ良い方向に向かい出したと思っていた頃でした。とある不動産業者が買い手として現れ、森本さんのお母さんと妹さんは危機感を募らせます。

ちょうど同じ頃に、神戸市須磨区にあった旧室谷邸というヴォーリズ建築の邸宅が不動産業者の手に渡り、「建物を保存する」という約束が交わされていたのにも関わらず、解体されるという事件が起きたのです。

結局、竹内氏も建物を残し有効活用する事を第一に考え、旧グッゲンハイム邸は森本さんのご両親が購入することになりました。

当時、僕はそんなことは行政のやることだ、とか言って反対をしていたんです。ただ、ここの裏の長屋の管理人になるのは、『めぞん一刻』みたいで面白そうだなと思いました。

だから、始めの一年ぐらいはアパートの管理人みたいなことをしながら、この場所の修理をする大工という感じで。ステンドグラスの制作をやっていたとは言え自由業だし、僕がそういうポジションになっていきました。

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コンサートなどが行われる1F広間。窓の外に美しい庭が見える。

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庭を使って行われた賑やかな結婚パーティー

音楽が鳴り新しい流れが生まれた

音楽イベントやウェディングパーティーで使われるようになっていた旧グッゲンハイム邸に、急激な変化が訪れたのは、クラムボンの原田郁子さんがレコーディングで使用してからでした。

2008年春のアルバム発売ツアーで、会場のリストのなかに「旧グッゲンハイム邸」の名前が出たのです。

すると、音楽関係者がたくさん来るようになって、一気に認知が広がっていきました。その後は「旧グッゲンハイム邸を使いたい」という人が増え続け、ここ3年ほどは予定が常に埋まっている状況だそうです。

よく「今後の目標は何ですか」みたいな質問があるけど、もう本当に十分だなと思っています。

原田知世さんとか、高橋幸宏さんとかがライブをしに来てくれて、チケットが数分で売り切れてしまうんです。普通だったら1000人とかもっと入るような会場でやる人たちが来たら、そうなるのは当たり前なんですけど、でも、そういうのばっかりにはしたくないなと思っています。

ちょっと変わった音楽を聴けるようなイベントで、当日になって客席もそこそこ埋まる、というぐらいがいいし、もう今の状態がピークでいい。規模が小さくても、もう少しじっくりと表現に取り組める場でありたいなと思います。

昼間も文化教室等に使われていて、夜はコンサート。さらに間に撮影が入ったり、そして週末にはウェディングパーティーとフル稼働の状態が続いています。

取材の伺った時には11月に塩屋の文化祭があるとのことで、そちらの準備も大変そうでした。
 
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塩屋まち歩きの様子

旧グッゲンハイム邸と共にまちの人の意識が変わった

塩屋の文化祭の話が出たので、少し気になっていた塩屋のまちの話を聞いてみました。

ここ旧グッゲンハイム邸もそうですが、塩屋にはとても素敵な洋館がいくつか残っていて、細い路地を歩くだけでも良い気分になれます。そんな塩屋にも開発の手は迫り美しい風景に少しずつ変化が起きています。

最近では塩屋駅の南側にあった旧ジョネス邸という洋館が、森本さんたちによる保存運動にも関わらずに解体されてしまい、マンションの建設が進められています。

あるとき、「塩屋のまちの話をしましょう」というビラが貼ってあるのを見かけて、参加してみました。

塩屋まちづくり推進会」の準備段階の勉強会だったのですが、そこで年配の方たちの話を聞いていて、とてもショックを受けました。

おじいさんたちは、ノスタルジックな思いを持っているのかと思っていたら、開発大賛成で「駅前のこんなバラックみたいな商店街潰してしまえ」という言葉が出るほどでした。

僕たちから見ると、開発された駅前の風景はのっぺらぼうで味気ないものです。でも、年配の方たちは、きれいに整備され都会的に変わったとてもうらやましい景色として見ていました。

話を聞いていると、塩屋は地震の被害が少なかっただけに、予算が投入されず他のまちのような震災復興がなされなかった、取り残されたまちだというやっかみにも似た意識がありました。

大きな道路が通って、駅前はロータリーになって、コンクリートで固められた高層マンションが建っている。“どこのまちにでもある姿”になっていくことを望んでいる人たちは少なくなかったのです。

森本さんは「このままでは、僕の好きな塩屋はどんどん変わっていってしまう」と危機感を持ち、「塩屋まちづくり推進会」に関わるようになりました。

一部の上の世代の人たちとの価値観の違いには、ずいぶんと苦労したそうですが、旧グッゲンハイム邸が動き出してからは状況も大分変わったそうです。

メディアにも取り上げられる機会が増えたり、イベントで塩屋に来た若い人たちがまちのことを気に入ってくれたり。とにかくまちに若い人が増えてきました。塩屋は狭い道が多いので車の通りも少なく、人が道の真ん中を歩くことができます。

まちの外から来る子供連れの若いお母さんたちは「こんな場所がまだ神戸にあったのか」と喜んでいます。塩屋のまちに残った風景の意味や、その尊さが再発見され、広がっているのです。

今では、景観保存のために高さ規制を設けるよう働きかけたり、塩屋に住む周りの人たちの意識も変わってきているようです。

たとえば、約70年前から神戸市が計画している、塩屋の南北を通る幅16メートルの都市計画道路「塩屋多井畑線」。計画規模を変更するなど、以前はこうした開発に疑問を持っていなかった人たちや、さらには行政側の参加も含めて、流れに変化が生まれています。

これから日本は人口も減っていきますし、車の数も減っていきます。大きくて綺麗なものをつくり続ければ良い時代ではなくなりました。

日本って基本的に変化のスピードが早過ぎるので、もう少し足踏みしながら進んでいっても良いんじゃないかと思っています。

塩屋はこのまま変わらなくて良いと思います。それは新しいとか古いとかだけの話ではなくて規模感の話なんですけど。

別に古いものだけをリスペクトしているわけではなくて、塩屋だったら3階建て以上の建物は必要ないだろうとか、そういったことなんです。変わらないでいてほしいなと思います。

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取材中に森本さんは、何度か「もう充分だよ」「これ以上必要ない」「変わらなくてよい」と言っていました。

それは悲観的な響きではなく、もっと未来を見据えた確かなものでした。より良いものをとか、もっと便利にとか、常に現状よりも多くのものを求めることは、未来を疲弊させることにつながっているのかもしれません。

塩屋の細い路地を歩き、旧グッゲンハイム邸で音楽を聴いた時、そこには満ち足りた幸福感がありました。

今、ここにある幸せの拠り所を変わらずに守っていくこと。それは、新しいものを生み出すよりも、ひょっとしたら未来へとつながる、確かな道なのかもしれないと、そんなことを思いました。

(text: 吉田航)