街ですれ違う人や電車でたまたま向かいに座った人、そんな人の生活を想像して見ることはありませんか?私はたまにそんな想像をしたりします。そのとき想像する生活というのは、普段接している人や見聞きしているものが元になっていて、突飛なことを考えようとしてもその限界は自ずと見えてきます。でも、世界に目を向けてみたらどうでしょうか?インドのコルカタに盲目の貧しい両親のもとに生まれたビラル君という3歳の少年がいます。そのビラル君の生活をちょっと想像してみてください。
そこで想像した生活は本当に人それぞれだと思います。しかし彼の生活が「大変」だろうということは共通するのではないでしょうか。そんなビラル君の生活を1年以上かけて撮影したドキュメンタリー映画『ビラルの世界』が10月6日から公開されます。その映画を観てもらえばあなたの想像が果たして当たっていたのか、現実はあなたの想像力の及ぶ範囲を超えているのかがわかってもらえると思いますのでぜひ観て欲しいわけですが、そんなことを書くのはこの映画が私が想像したものとはかなり違ったものだったからです。
まず、ここで描かれているのは貧しいながらも頑張っている家族を描いた感動物語ではありません。感動物語にするには彼らはあまりに普通の人達なのです。ビラル君は幼いながらも両親を支える献身的ないい子などでは決してなく、むしろすぐ暴力を振るう問題児です。両親も障害を物ともせず頑張るしっかりした人たちではなく、弱くて、不平不満もいう、ずるいところだってある人たちです。
彼らの生活は本当に貧しく、かろうじて壁と屋根がある家に暮らし、地べたに座って食事をし、子どもは裸で走り回ります。ナレーションも説明の字幕も何もないこの映画は彼ら貧しさを「狭さ」で表現します。部屋が狭いためにどうしても寄ってしまうカメラ、路地が狭いためにすれ違うときに避けなければいけ無いカメラ。狭いために物理的な距離が近いこともあり、作り手がその中に明らかに入り込んでいるせいもあって、この映画は彼らとその周りの人々の貧しい生活が非常に生々しく感じられます。
そしてこの映画は単に描写が生々しいというだけでなく、映画としても「生っぽい」のです。映画というのはドキュメンタリーであっても素材を集めてそれを料理して、ある程度それをどう見るかという道筋を示すことが多いわけですが、この映画はそのような「料理」をしない生の素材そのものを出しているような印象を受けます。
この「生っぽさ」というのはこの映画のスタイルが作り出しているものです。この作品はナレーションや字幕を廃し、編集によって物語を構築するのではなく、さらに物語性までも剥ぎとったものなのだろうと思います。そして、その物語がないという映画としての弱点をリズムとスピードで補っています。それによって、私たちの日常からかけ離れてはいても、彼らにとってはあくまで平凡な日常でしかないものを、映画として面白いと思えるコンテンツに昇華させているのです。
なので、この映画を見ることはビラル君の目から観た世界が流れ込んでくるということで、実は映画を見ながら色々考えるということは難しく、見ながら想起されるいろいろな物事と観た人自身の生活が見終わったあとに反応しそこから何がしかの考えが生まれてくる、そんな映画なのではないかと思うのです。
だから、貧困について考える人もいれば、障害について考える人もいれば、宗教について考える人もいれば、電話について考える人もいるでしょう。映画について考える人も、家族について考える人も、お金について考える人も。そう考えるとこの映画は、題材自体が世界の多様性を示していると同時に、受け止め方もさまざまであるということによって人間の多様性をも示している、そんな映画なのかもしれません。
『ビラルの世界』
2008年/インド/88分
監督:ソーラヴ・サーランギ
10月6日より、オーディトリアム渋谷他、全国順次公開
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