困った人を助ける意味で用いられる「レスキュー(rescue)」。語源を紐解くと、ラテン語の「再び(re-)」「外へ(ex-)」「揺り動かす(quatio)」に由来するそうです。
その語源を新たな視点でなぞるように、少子高齢化や過疎化がもたらすさまざまな困りごとから地域の人びとを助け出そうと、地域の魅力を外へと伝える役割を一手に担い、心を揺り動かす体験を通じて「何度も訪れたい」と想いを寄せる地域のファンを増していく…。
そんな地域の中と外をつなぐ場所があることをご存知でしょうか?
和歌山県有田川町(ありだがわちょう)にある廃校を公設民営で活用した移住就業支援拠点施設「しろにし」です。“地域の人事部”を目指し、宿泊や食事の提供もできるワンストップな対応で、有田川町の暮らしや仕事に触れるお試し移住・就業体験を企画しています。
公設民営と言えば、行政が方針を決めて設備投資をしたのち民間に運営を委託するケースがよくありますが、「しろにし」は真逆。地域の事業主たちが行政に依存せず地域の課題を解決しようと法人を設立し、その熱意を後押しするかたちで行政が設備投資を担っています。
約1年前にグリーンズで「しろにし」を取材したときは、その立ち上げの経緯について紹介しましたが、その後、さらにパワーアップし「地域維持レスキュー」という総称のもと、地域の外から訪れる人びとが地域の困りごとを手助けする企画が一気に加速。
2025年10月は東京でトークイベントを、12月には国指定重要文化財の茅葺き屋根の修繕に向けて、県立自然公園「生石高原」でススキの刈り取りワークショップを開催するそう!
「地域維持レスキュー」とは? 「しろにし」に関わる地域住民や県外の参加者は今どういった思いを持っているの? 地方の暮らしや仕事に興味のある人はきっと気になる10月・12月のイベントの詳細は? などを伺うため、再び「しろにし」を訪れました。
大きな軒先を見上げると、あちこちでツバメの親たちがせっせと巣づくり。その姿を横目に扉を開けると、変わらない笑顔で一般社団法人しろにし代表理事の楠部睦美(くすべ・むつみ)さんと理事の白川晶也(しらかわ・まさや)さんが出迎えてくれました。
1987年、有田川町のみかん農家生まれ。大学進学を機に地元を離れ、愛知県の建築会社に就職し、リノベーション事業の提案を担当。親戚の古民家を譲り受けたことからUターンし、2016年に一軒家貸切の宿「ゲストハウスもらいもん」を開業。まちづくりにも積極的で「有田川女子会UP Girls」代表としてガイドブックを制作。「しろにし」の立ち上げに誘われ、2021年に参画し、気付けば代表に。
1968年、和歌山県西牟婁郡生まれ。富士通株式会社のグループ会社でシステムエンジニアとして勤務。有田川町役場に転職し、12年間人事を担当。2018年から5年間、産業課のち商工観光課の課長として「しろにし」の素案から立ち上げまで携わり、ついには役場を早期退職して運営側へ。一般財団法人有田川町ふるさと開発公社の副代表理事や、関西広域連合 都市農村交流アドバイザーも務める。
一次産業に富んだ有田川町の人手不足に立ち向かう「しろにし」
有田川町は、面積351.84㎢で人口約24,800人、森と川に恵まれた町です。
“ジャパニーズ・スパイス”としてヨーロッパを中心に世界的に需要が高い「ぶどう山椒」の発祥地で、その生産量は世界一を誇ります。ブランド銘柄「有田みかん」や良質な木材「紀州材」の産地としても有名です。

“緑のダイヤモンド”と賞賛されるほど大粒の実が特徴的な「ぶどう山椒」(撮影:前田有佳利)
東から西へと町を貫流しているのは、世界遺産・高野山に端を発する有田川。川がローカル度合いのパラメータを示すように、上流に進むほど自然が豊かで、下流に進むほど中心市街地が広がり、西の端にはメインゲートとなるJR藤並駅と高速道路の乗降口があります。
そのパラメータの中間地点、つまり町の真ん中に位置しているのが「しろにし」です。
上流域の山間部を中心に少子高齢化や過疎化が進む有田川町では、一次産業の収穫繁忙期はもちろんのこと、さまざまな場面で人手不足が深刻な課題となっています。
町内に若い人材が少ないため、多くの場面で外から人を呼び込む必要があるなかで、「どうやって呼び込んだらいいんだろう。もし来てくれたとしてもホテルやコンビニが近くにないから住居や食事の手配も考えなくては…」と、次なる悩みの壁が立ちはだかります。
こうした地域の困りごとをまるっと解決するため、地域の事業主たちが共同で出資し、代表理事に楠部さんが就き、2022年9月に一般社団法人しろにしを設立。2023年6月に移住就業支援拠点施設「しろにし」をオープンし、同年9月には理事として白川さんを迎えました。
全国から参加者が集まる「ぶどう山椒収穫レスキュー」の今
「しろにし」が最初に取り組んだ企画は「ぶどう山椒収穫レスキュー」です。
有田川町を象徴する産業のひとつであり、世界的に需要が高まる一方で、ぶどう山椒の発祥地である清水地区における農家の平均年齢は約75歳。高齢化による担い手の減少が顕著だったため、最も人手が必要となる7月下旬から8月上旬の収穫繁忙期に企画することに。
内容は、町の歴史に精通したベテランの地元農家や、移住して畑を継いだ若手農家のもと、ぶどう山椒を収穫するという1泊2日の援農ボランティア企画です。
実施直前まで農家からは「自分で交通費や宿泊代を支払ってまで手伝ってくれる人なんているの?」と心配する声があがっていたそうですが、ふたを開けてみると、初年度の2023年は3週間にも満たない短期間での告知募集にもかかわらず、延べ30名が全国各地から参加しました。
初年度の参加者は白川さんや楠部さんの知り合いが約7割を占めましたが、「しろにし」が大阪で何度か開催したトークベントやSNSでの発信から次第に認知が広まり、リピーターや口コミも合わさって、2025年は初年度の倍以上となるのべ85名が参加したそうです。
私も数時間だけ参加させてもらいましたが、なんとも心地のいい没入体験! ぶどう山椒の木陰はほどよく涼しく、開放的な山並みの景色を眺めつつ、普段は住む場所も仕事も異なる人たちと、同じ空間で誰もが夢中になって香り豊かな実を摘む時間。青空のもと輪になって食べるお弁当も美味しくて、リピーターになる人の気持ちがよくわかりました。
「地域維持レスキュー」で“移住”の前に“定住”を大切に
「ぶどう山椒収穫レスキュー」だけでも充実した内容ですが、さらなるステップとして2024年9月から「しろにし」は、地域の外から訪れる人びとを対象とした地域の魅力に触れる体験企画として、新たに3つのレスキューを増やしました。
移住希望者と空き家の持ち主との縁をつくる「空き家片付けレスキュー」と、地域住民とともに生活道や旧街道を整備する「道普請(みちぶしん)レスキュー」、そして有形・無形を問わず地域の伝統を守る「文化継承レスキュー」です。
全4つの企画をまとめて「地域維持レスキュー」という総称を掲げています。
なぜ、このように地域外の人たちによるレスキューの活動を増やしたのでしょうか?
白川さん 「集落で草刈りをしようと思っても、もう人手が3人しかいない」。地元の人がぽろっと口にしたその言葉がきっかけだったんです。昔は各世帯から1人以上が参加して、みんなで協力し合って草刈りをやっていたけど、今は過疎化が進んで世帯数が少ないうえに、高齢の一人暮らしがほとんど。自分たちの力だけでは限界を迎えつつあると。
それまで私たちは、一次産業の収穫繁忙期に焦点を当て、移住や援農にまつわるコンテンツとして「ぶどう山椒収穫レスキュー」を企画してきました。だけど、その言葉を受けて、地域の困りごとは農繁期だけでなく、もっと日常のなかにあると気付かされたんです。
楠部さん まちづくりでは“移住”という言葉が目立ちやすいけど、もっと“定住”に意識を向けることが大事だと、その頃からチームで話し合うようになりました。外から人を呼び込むことだけを考えるんじゃなくて、「ずっと住み続けたい」や「将来戻ってきたい」と思える定住のベースを整えることが、移住や関係人口のアプローチにも効いてくるんですよね。
「空き家片付けレスキュー」は整理整頓や掃除のみならず防災や防犯につながり、「道普請レスキュー」は草刈りや獣害対策、「文化継承レスキュー」は思い出や教育の意味合いもあり、地域に愛着をもって住み続けるうえで大切な要素です。
地域の日常生活にまつわる人手も不足しているのであれば、定住のベースを整えるプロセスさえも体験イベントに変え、町外から訪れる人びとを楽しく巻き込もう! と考えたのです。
楠部さん 日常生活に近い企画ほど地味になりがちで、プロセスを部分的に切り取れば全体の趣旨が伝わりづらくなる。だから、川遊びや旬の味覚をとって味わう「遊び暮らし体験」というオプションや、企画の全体像が見渡せるトークイベントを組み合わせて、参加された方が「楽しかったから、また来たい」と思える工夫を心がけています。
約600年の伝統を誇るお堂の修繕「文化継承レスキュー」とは
新たなレスキュー活動のなかでも今回注目したいのは、2025年12月に第1回のワークショップが開催される「文化継承レスキュー」です。
舞台は、有田川町の杉野原地区にある「雨錫寺阿弥陀堂(うじゃくじあみだどう)」。杉野原地区は、和歌山県から「わかやまの美しい棚田・段々畑」に認定されるほど美しい棚田が広がる農村集落で、南北朝時代の城跡や古戦場跡などの史跡も数多く残っていることから「歴史の隠れ里」とも呼ばれています。
1514年に建立された「雨錫寺阿弥陀堂」では、五穀豊穣を祈願して稲作の生産工程を唄と踊りで演じる行事「御田舞(おんだまい)」が毎年2月11日に奉納されていました。
国の重要無形民俗文化財に指定される貴重な伝統行事ですが、少子高齢化と過疎化によって担い手が減ったことで年々規模が縮小。近年では一年おきの開催となり、ついに2018年、約600年続いた「御田舞」は休止となりました。
「御田舞」の再開を願いつつ、阿弥陀堂という舞台を守ろうと、「しろにし」はお堂の茅葺屋根の修繕に向けたプロセスをワークショップ化することにしました。
茅の葺き替え作業で必要な素材は、茅。この地域ではススキを用います。有田川町役場と話し合いを重ね、せっかくなら有田川町にゆかりのある素材を選ぼうと、有田川町と隣町の紀美野町にまたがる標高約870mの山頂に広がる県立自然公園「生石(おいし)高原」のススキを使用することに。
見頃を終えたススキの刈り取りは「生石高原」の保全活動としても必要な作業です。12月のワークショップでは、かやぶき職人からレクチャーを受けてススキの刈り取りを行います。
さらに、前夜祭として「しろにし」に前泊する参加者を対象に、茅葺き職人と杉野原在住の語り部などをゲストに迎えたトークイベントも開催するという盛りだくさんな内容です。この前夜祭はまさに、楠部さんが話していた、参加者の満足度を高める工夫のひとつですね。
今回はススキを刈り取るまでの段階ですが、2026年の夏から秋にかけて、そのススキを用いて「雨錫寺阿弥陀堂」の屋根の葺き替え作業を行う予定なので、続きが気になる方は募集情報が随時アップされる「しろにし」のnoteをフォローするといいかもしれません。
地域の文化は面白い。だけど、伝えないと消えてしまうから
杉野原地区に暮らす、語り部の白藤勝俊(しらふじ・かつとし)さんに、地域の変遷を知る定住者として「文化継承レスキュー」ひいては「地域維持レスキュー」に対する思いを伺いました。
白藤さんは有田川町の遠井(とい)地区に生まれ、結婚後の子育てをきっかけに杉野原地区に引っ越して以来、この集落で半世紀を過ごしています。実家のある遠井ではぶどう山椒を、杉野原では米づくりを行うかたわら、失われていく遠井の文化を後世につなぐ伝承プロジェクト「TOI STORY」を主催し、両地区の語り部としても活動しています。
白藤さん 数十年前まで「御田舞」は、杉野原の老若男女が総出で行う盛大なものでした。3ヶ月くらい前から準備をはじめ、役割を決めて、唄を覚えて舞を覚えて、衣装や装飾をこしらえたり、祭りで振る舞う料理の段取りをしたりして。私は役者や装飾を担当したことがあるし、子どもや孫も役者として舞を踊ったことがあるんですよ。
準備には手間がかかるし、極寒の吹雪のなかで当日を迎えたことだってあります。だけど「御田舞」があるおかげで、地域のみんなが顔を合わせて協力し合える機会や、大変だけど楽しかった共通の思い出ができ、すごくいい結束力が生まれていたなと思います。
地域の人びとにとって思い出深い行事だったため、2018年に休止が決まったときは誰もがショックを受け、悲しみに暮れていました。だからこそ、一筋の光となる「文化継承レスキュー」をはじめ、「しろにし」の企画には大きな期待を寄せているようです。
白藤さん 過疎化が進むなか、地元の人間だけでは地域の維持が難しくなってきています。だから「しろにし」さんの企画を通じて、地域を深く知って愛着を持ち「もっと関わりたい」や「いつか移住したい」と思ってくれる人が増えたら嬉しいです。
今はまだ「御田舞」は地元の人間がつくるものという考えが根強いですが、それでは維持できない。歴史をたどれば大昔は米農家の長男だけが役者を務めたそうですから、これからも時代の変化に応じて柔軟に考えを広げて、地域の外の人にも積極的に関わってもらいながら、貴重な地域の文化の灯火を絶やさず後世に伝承していきたいですね。
地域の文化は知れば知るほど面白い。だけど、伝えて残さないと消えてしまうから。
ひとりでも多くの人に地域の文化に触れてもらうことが大切であり、その入り口に「しろにし」が立ち、一緒に企画したり相談したりしやすい環境をつくってくれてありがたいと言います。
白藤さんは12月だけでなく、10月に東京で開催されるトークイベントにも登壇されるので、地域の文化について詳しく知りたい方は、ぜひイベントを訪れ、白藤さんに話しかけてみてくださいね。
“第二のふるさと”をもっと知りたい、もっと関わりたい
さて、では「地域維持レスキュー」の参加者はどういった感想を持っているのでしょうか。
リピーターである東美伶(あずま・みれい)さんと森真紀子(もり・まきこ)さんにお話を伺いました。ともに大阪在住で、和気あいあいと会話する姿から仲良し姉妹かと勘違いしそうになりますが、実は昨年開催された「しろにし」の企画で出会った縁なのだとか。
地域創生に関わる会社に勤務する東さんは、仕事を介して「しろにし」の存在を知り、地域をもっと知りたいとイベントに参加したことが有田川町との関わりのはじまりだそうです。
一方、繊維専門の商社に勤務する森さんは、大阪で開催されたトークイベントに出席していた友人の誘いを受けて、「ぶどう山椒収穫レスキュー」に参加したことがきっかけだと言います。
二人が出会った「秋の遊び暮らし体験」では、みかんの収穫やぶどう山椒の石うす挽き、仕掛けカゴを用いたモクズガニ漁の体験、そのモクズガニさらには鮎まで堪能するBBQも行われました。
東さん 人生初の胴長靴を履いて地元の人に教わりながら川で鮎をとったりと、どの経験も新鮮でした。スマホに意識が向かないくらい目の前のことに熱中して、すごくリフレッシュできました。BBQのときチラッと真紀子さんのほうを見たら、真剣な表情でひたすらカニ味噌を食べていて。その姿が可愛くて、思わず写真を撮っちゃいましたよ(笑)
森さん いや、もう本当に美味しかった! 「ぶどう山椒収穫レスキュー」もそうでしたが、日常の漠然とした悩みがスッキリ吹き飛ぶくらいの没入体験はすごいです。都会でのトークイベントは訪れやすい分だけ参加者が多いけど、現地のイベントは少人数制や泊まりがけだったりするので、地域のみなさんとたくさんお話ができたこともよかったですね。
二人とも約1年半の間で、すでに3〜4回も有田川町を訪れるほどのハマりっぷり。段階的に地域との関わりを深めるなかで、気持ちの変化はあったのでしょうか。
東さん 最初は仕事がきっかけだったので、得たものを仕事につなげなくちゃと焦っていたんです。だけど、むっちゃん(楠部さん)や白川さん、個性豊かで優しい地域の人たちがいつも迎えてくれて、あっという間に仕事の枠を超えて有田川町が好きになりました。
地域の人たちと信頼関係を築きながら地域の課題にダイレクトに向き合う「しろにし」のお二人の姿を間近で見て、地域創生とはこういうことなんだと、大切なことを教わるばかりです。まだ知らない魅力がきっとたくさんあるから、何度も訪れてもっと知りたいですね。
森さん 都会では開発が進んで、便利さの代わりに、自然豊かな思い出の景色がどんどん失われています。私が幼稚園の頃に歩いた田んぼの畦道も、今ではコンクリート敷きの住宅街。日本の食料は海外への依存度が高いけど、お米やぶどう山椒、モクズガニみたいに、自然豊かな地方にはその土地ならではの美味しいものがたくさんあるんですよね。
「しろにし」のみなさんのおかげで、こういう景色の貴重さや生産者の方々の大変さを肌で感じて、知らないことを知るって大事だと気付かされました。地域の人たちがかけがえのない景色や食文化を守り続けてくれたことに感謝ですし、私が地域に関わることで、地域の魅力が受け継がれていく可能性が少しでも高まるなら、ぜひ関わり続けたいです。
そして「有田川町は、また訪れたいと思える“第二のふるさと”です」と、笑顔で口を揃える二人。取材後は、楠部さんおすすめのスポットで川遊びを満喫してから、森さんの車に東さんが相乗りするかたちで仲良く大阪に帰っていきました。
「裏高野」でエリアの特性をいかしたトータルデザインを
オープンから3年目を迎え、企画の関係者や参加者はもちろん、「しろにし」に対する近隣住民の理解も深まり、応援や期待の言葉をかけられる場面が多くなったそうです。
さらに、「しろにし」の活動を支援しようとサポーター契約をしている企業は個人会員を含めて24社に増加。有田川町の中と外をつなごうと励んでいる他の地域団体から運営に関する相談も続々と舞い込んでいます。
楠部さん 最近は、参加者と企画する側という関係で終わらず、「しろにし」の活動にも興味を持って「お手伝いできることがあれば、いつでも言ってくださいね!」」と声をかけてくれる人が増えはじめていて嬉しいです。これが関係人口なんでしょうかね。
さまざまな手応えを感じている「しろにし」の二人に、今後の展望について伺いました。今、二人が描いている未来はどういったものですか?
白川さん 和歌山県では観光地として世界遺産「高野山」が有名ですよね。鉄道もあるため、大阪方面から高野山を目指す北側のルートが一般的ですが、実は有田川町上流域から高野山を目指す南側のルートには、今でも弘法大師・空海にまつわる伝承や史跡が数多く残り、江戸時代には紀州徳川家の歴代藩主がこの道を度々通ったとも言われています。
観光名所として知られる和歌山の“表”の情報だけでなく、知る人ぞ知る“裏”に潜む魅力的な地域や暮らし、文化、そして地域の人たちに出会ってほしいという思いを込めて、私たちはこの隠れた名所を「裏高野」と名付けて打ち出しはじめているところなんです。

10月に開催されるトークイベントで掲げられるテーマにも「裏高野」の文字
過疎化が進む上流域の山間部を中心に、エリアごとの特性をいかしつつ、共通のキーワードとして「裏高野」を掲げてトータルデザインしたい、と二人は話します。
上流域には、教育施設が揃った子育て向きのエリアもあれば、学校には遠いものの日本家屋や史跡が点在する自然豊かなエリアもあります。町全体で一律に移住や定住を促進するのではなく、趣ある空き家を使った分散型のホテルや旧街道沿いの空き店舗を用いたサテライトオフィスなど、エリアの特性に応じた多様な選択肢を描こうとしているようです。
楠部さん 有田川町を盛り上げようと行政の人たちが日々努力されているので、私たちがトータルデザインしたいと口にするのはおこがましいことかもしれません。だけど、行政の立場では市民の平等性が前提になるから、きっとやりたくてもできないことがあるはず。
そういうかゆいところに手が届く、もうひとつの「役に立つ場所」、つまり民間側の“役場”として、私たちが柔軟に活動していけたらいいなと思っています。そうは言っても、まだまだ試行錯誤の日々なんですけどね。
この数年で「地域創生」や「関係人口」という言葉は市民権を得ましたが、その実態をありありとつかめている人は果たしてどのくらいいるのでしょうか。試行錯誤で実体験を何度も重ねる「しろにし」は、その言葉のたまごを温めて現実に孵化させるツバメのようです。
そんな「しろにし」の姿は、「地域ともっと関わりたいけど、どうやったらいいの…?」とためらっているどこかの誰かのもとへ、渡り鳥のごとく勇気を運んでいることでしょう。
この記事を読んで、もしあなたの心にもふわりと響くものがあれば、10月に東京で開催されるトークイベントや12月に有田川町で開催されるワークショップから参加してみませんか?
(撮影:黒岩正和)
(編集:村崎恭子)
























