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参議院議員会館でアースデイを実現! 「政治に善玉菌を広げていく」冨田貴史さんにソーヤー海が聞く(後編)

ハロー! ソーヤー海だよ。今回は、僕がリスペクトするアクティビスト仲間、冨田貴史さん(とみた・たかふみ、以下、タカ)との対談の最終回だよ。ぜひいろいろな人にタカのことを知ってもらいたい。

冨田貴史(とみた・たかふみ)
1976年千葉生まれ。兵庫在住。大阪中津にて味噌作りや草木染めを中心とした手仕事の作業所(冨貴工房)を営む。ソニーミュージック~専門学校講師を経て、各地で和暦、食養生、手しごとなどをテーマにしたワークショップを開催。著書『春夏秋冬 土用で暮らす』(2016年/主婦と生活社・共著)『いのちとみそ』(2018年 / 冨貴書房)『ウランとみそ汁』(2019年/同)、『暦のススメ』(2022年/同)、「未来につなげるしおの道」(2023年/同)など

タカ、参議院議員会館でアースデイを開催

ソーヤー海(以下、海) タカから「参議院議員会館でアースデイをやる」って聞いたとき、マジですごいと思ったんだよね。

会場では日本という国に結構な影響力を持つ人たちが、一般市民と一緒の部屋で、ひとつのたらいのなかに素手を入れて、麹と大豆と塩を揉んで味噌をつくっていて。あと、マッサージやヒーリング系の人たちもいて、「10分あるなら、その時間で肩を揉みます」って議員をマッサージしたりして……その光景がシュールだった。

 特に僕は福島の原発事故のあとに日本での活動を始めていたから、心のなかで「悪いのは政府だ!」みたいな対立構造があって。でも政府は手の届かないところにいて、たまにテレビに出てくる程度で、同じ人間として見れていなかった。「とにかくこいつらムカつく!」みたいな。原発事故も国債も、いろいろな問題を彼らのせいにして、でも変えられる気がしていない僕もいる。

だけどその光景を見て、「この人たちも人間なんだ」って思って感動したんだよね。「Humanize(人間化)」っていう英語があるけど、ひとりひとりの議員の人間性を思い出す、すごくパワフルな機会だった。

 たぶん議員も、金と権力が渦巻いている難しい戦略的な世界につねに立たされているし、メディアからはつねにスキャンダルを探されて餌食にもされているし、休む時間もそんなにないかもしれない。そんななかで、前の年に自分たちや、普段は会わないような市民とつくった味噌で、体を養生する。

それって健康的な政治活動だと思うし、本当に対立構造を崩すような、しかもそれぞれの肩書や立場を外したひとりの人間として地球について考えるような光景で、僕が望んでいる革命を実体験できたし、戦うのではなく養生=養って生きていくことの大切さを思い出させてくれた。

冨田貴史(以下、タカ) 永田町の国会議事堂から道路をひとつ挟むと参議院議員会館と衆議院議員会館があって。ホテルやマンションみたいに、各フロア20部屋くらい、ひと部屋が2DKくらいの各議員の事務所があるのね。あと地下には食堂、カフェ、売店、コンビニもある。

で、1階と地下に会議室が10以上あるんだけど、そこで議員や議員事務所や党が開催する「院内集会」に何回か参加したことがあって。原発系の話とか、環境問題、国民投票の仕組みについて知る会とかだったんだけど。

その会議室は、空いていれば僕たち有権者も議員事務所経由で使えるんだよね。それで、とある院内集会を僕が主催したときに、ある国会議員が、僕からするとすごくがんばって粘り強く福島第一原発で起きたことを調べてレポートしてくれたんだけど、最後の質問タイムで、その議員に対して敬意のない感じて「もっとやれ!」みたいにマウントしたり、場への配慮を欠くような発言をいっぱい浴びせていたりしてたのを聞いて、気分が悪くなって、「もう二度とやらない」って思ったの。

 僕も院内集会に行ったことがあるんだけど、やっぱり一般市民が話せる場が少ないから、質疑応答で意見したり、無力感を植え付ける形式に対して感情が爆発したり、だけど「上の人が書いたもの」を行政の人が読むしかなかったりして、それが全然的外れの場合、みんなの怒りが出てきて、読む役割を果たしている人に対して思いっ切り攻撃態勢に入ったり、そういう対立構造にハメられてしまうんだよね。

それをみんなでどうつなげていくか、どう多様性を持たせるか、いまは僕たちの理想とはまだまだ程遠い政治をどう変えていくか……。

タカ 僕はその頃、すでにNVCと出会っていたから、自分がなにを感じているかを味わう時間を取ってみたら、「この場所のバイブレーションが気に食わないなら、そこに働きかける何かができないか」と思うようになって。

それで、最初はクリスタルボウルの演奏会を考えたんだよね。議員会館の地下で演奏したら、建物全体にいい感じに伝わるだろう、みたいな(笑) だけど、ある議員秘書さんに相談したら、国会法に「館内での生演奏と詩吟は禁ずる」と書いてあると。「詩吟っていつの時代だよ!!」って思ったけど(笑)、たぶん、戦後くらいから法律が変わってないんだろうね。

で、ヒーリングにもいろいろあるから、「マッサージはOK?」とか、あと「味噌つくるのは?」「CDかけて踊るのは?」っていろいろ聞いていったら、「それは大丈夫だと思う」っていうのがいっぱいあって。販売も、「売買はNGだけどカンパはOK」「食べ物も出せると思いますよ、試食会もよくやっているし」とか、アドバイスももらって。

あと、こういうのって前例をつくったらそのあともやれるっていう前例主義があるから、「とにかくやってみよう、NGと言われたら辞めよう、そんな感じで行けるでしょう!」っていう感じになり。それであれこれ相談しているうちに、「それってアースデイだな」と。

30人のチームワークでつくった、やさしくあたたかい場

タカ そもそもアースデイって、1969年にアメリカで議員さんが提案したものだと思い出して。地球について話すのがアースデイの原型なら、日本で一番「話す」ことに特化した場所のひとつが永田町なわけで。

それ以前に国民投票運動についての話を聞いて、「僕らを代弁してくれる代議士である議員に議論を委託する間接民主主義は、僕らが話をする直接民主主義的な動きがあってこそ健全さを保てる」と思っていたから、「よし、だったら永田町でアースデイをやろう」と。

まあそもそも議員会館の会議室だって税金でつくって運営しているわけで、それならもっと自分たちが望むスタイルで使ったほうがいい。じゃあ何人かの議員さんに協力を頼めば何部屋か借りられるんじゃないか……みたいにどんどん前向きな気持ちになって来て。

で、千葉の金谷で行われた『We are God ~子供帝国の逆襲~』というイベントで日本の暦について2時間くらい話したあと、質問タイムで「今後やろうとしていることは?」と聞かれて、「永田町でアースデイをやろうと思うんだけど、興味ある人いたらこのあとしゃべらない?」って言ったら、30人ぐらいの輪ができて。その30人、ほぼ全員で、「アースデイ永田町実行委員会」が立ち上がってしまったんだな。言い出しっぺは僕だけど、それからはもう、本当にみんなでやった感じだね。

 僕は企画のチームにはかかわってなかったけど、みんながものすごくチームワークを表現してたよね。しかも本当にやさしくて、誰でも迎え入れるあたたかさがあって。戦うだけじゃなく、思いやりや敬意を払い合うのも、すべて政治活動の一部だと思う。そこから新しい社会を紡いでいくんだなって。

いま思い出したけど、最後にジョン・レノンの『イマジン』をCDでかけながら、古代フラをやってるみさおさんのガイドで、みんなで輪になって踊ったよね。「何これ?」って最初は思ったけど(笑)、それもすごく多様なエネルギーというか、そういうことが議員会館で起きたことで議員会館のエネルギーの幅を広げた感じがして。本当にパワフルでシンボリックな場面がいっぱいあった。

 実は、日本の革命的なアクティビズムの例としてアースデイ永田町の話を海外でよくしているんだよね。その話でパンチラインとして使っているのが、「政治に善玉菌を広げていく」という言葉。これはタカから聞いたんだと思うけど、「これこそが共生革命だ!」って感じた。

タカ あるとき、ヒラヒラでフワフワした服の人とか長髪でヒゲの人とかが議員会館の入り口の荷物検査のところにたくさんやってきて、新人っぽい警備員がちょっとソワソワしだしたんだよね。そうしたら先輩っぽい警備員が彼に「ああ、あの人たちは『アース関係者』だから大丈夫」って。それを聞いてさ、「アース関係者」って言葉が出回ってるんだと思ってウケたよね(笑) それで「アースデイ菌」が少しは永田町に入ってるんだなと。

 そうそう、スーツを来た男性がほとんどの参議院議員会館のなかを、ヒラヒラした華やかな服を着た女性たちがたくさん出入りしてたのもシュールだった(笑)

タカ それは、友人が国政選挙に立候補したのがデカかったね。僕は何カ所かで応援演説をしたんだけど、「この人が当選したら、俺は秘書のひとりになるんだろうな」「もし永田町で働くことになるんだったら職場環境を良くしたいな」と思ったんだよね。

やっぱり永田町って独特の緊張感があるから、フリフリでヒラヒラな、ヘンプとかオーガニックコットンを纏った長髪でヒゲの男とか、フラをやってるような人とかがもっと気軽に出入りできたり、「時間空いたから議員会館の地下でお茶しない?」って議員や秘書に混ざってお茶するのが普通、みたいな感じだったり、そういう多様性があると気楽だよなと。

そうすれば僕らがもうちょい通いやすい感じになるし、なんなら永田町にゲストハウスとかシェアハウス、カフェ、ライブハウスとかがあれば、デモ目的だけじゃなくても永田町に来れる。全国から「東京に来たついでに寄った」みたいに、自分の地域から選出された議員に会いに行くとか、ジャムハウスみたいなゲストハウスに泊まって情報交換するとか。

タカ そういうイメージができたのは、2004年、28歳の頃に、きくちゆみさんに同行してワシントンD.C.の議員会館でロビイングした経験が大きい(参考:きくちゆみブログ「ワシントン報告 冨田貴史の場合」2004年9月17日)。

セネター(上院議員会館)とロングワース(下院議員会館)に行って、カリフォルニア州から選出されたバーバラ・リーやバーバラ・ボクサーという議員さんの事務所に行って、「平和省という組織をつくる法案が提出されるから、賛成してほしい」って言いに行って。僕も拙い英語で「日本とアメリカの連携を本気で考えていかなければ」って伝えて。

で、ロビイングが終わったあとに、すぐそばのカフェで「お疲れー」「すげー緊張したね」「タカ、英語いけるじゃん」みたいな感じですごく楽しいおしゃべりをしたんだよね。それで、「日本でももっとこれくらいカジュアルにロビイングができればいいのに」と。

だけどアースデイ永田町に関しては、コロナのロックダウンが特に大きくて、「ちょっとやれる状況じゃないな」と。おしゃべりも、体を触るのも、食べ物を持っていくのも、基本的に全部引っかかるだろうと。僕個人としても関西でお産と子育てが始まって、永田町でイベントを企画運営するのは現実的ではなくなってしまった。

 アースデイ永田町を振り返って、どう思う?

タカ 収穫とお祝い、それから課題や「こうなれたらいいな」というところにたどり着いているかどうかを考えると、いろいろと思うことはあるね。だけど一番大きいのは、一緒に時間を過ごしたメンバーへの感謝だな。

主に関東に住んでた人たちが手弁当で何回もミーティングして、三軒茶屋にあったカフェオハナとか、ジャムハウスとか、議員会館の地下会議室に集まっていろいろな準備をしたり、招待状をつくって議員事務所をひと部屋ずつ回って手で届けたり、そこであいさつしたり名刺交換したり、イベントに来てくれた議員さんや秘書さんにはお礼状や報告書もつくって届けに行ったり。

議員会館の地下会議室で仕込んだ味噌は、確か6階にあった、イベントに協力してくれた議員さんの事務所の台所の下に置いといてもらったんだよね。それを1年後に取りに行って、その年のアースデイ永田町で味噌汁にして振る舞ったり、パッキングして「あのときにみんなで仕込んだ味噌です」って議員さんに届けに行ったりしてたね。本当に感謝とリスペクトを表したい。

そうやって相手の文化や礼儀に合わせると、相手は「配慮してもらえている」と感じるわけで、それって自分たちが提供するものが本当にギフトでありもてなしであることを、相手に感じてもらえるあり方だと思うんだよね。だからイベント当日だけでなく、その前後も素晴らしく心動かされるものだった。アースデイ永田町のような院内集会がもっと増えたらいいなと思ったよね。

ブックレットに可能性を感じている

 タカのやってる冨貴書房やメディアのことも聞きたいんだけど?

タカ アースデイ永田町にもかかわったメンバーがたくさんいたジャムハウスで、海と二人で寝っ転がって食べたり飲んだりしながらしゃべっているときに、「この会話をそのまま録音しちゃおうよ」ってなったのが、海とのメディア「RadioActive Radio」の始まりだよね。僕も海も、いろいろなかたちで情報や自分の考えを発信していきたいと思ってた頃だったし。

最初に取り上げたテーマは「ストーリーパワー」「メディア・コントロール」だったね。人が信じ込んでいる物語の力とか、「どんな物語をつくっていけるか」みたいな話とか、メディアが持っている力、日本だけじゃなく世界のいろいろなメディア・アクティビズムの事例についてとか……。

ただ、僕は「手触りのあるメディア」への信頼がすごく強い。具体的には「紙メディア」。新聞、冊子、紙芝居、フリーペーパー、ジン、雑誌、小説、ブックレット、回覧板、掲示板、ポスター、フライヤー……あらゆる印刷物にすごくエネルギーを感じていて。

理由はいくらでも挙げられるけど、例えば誰もが言うように「正倉院の時代のものがまだ読める」ぐらい、紙にした時点で記録に残り、受け継ぐ力が強くなること。あと、電気やデバイスがなくても読める点で、受け取れる人の範囲を平等に広げる可能性もあると思う。

僕は特にブックレットに長いこと、可能性を感じてる。2003年くらいから好んで読んだり買ったりしているけど、社会運動や環境運動の講演会やイベントに行くと「うちの団体でやった講演会の文字起こしをブックレットにしました」みたいな、その場でしか買えないものがたくさんあって。1冊40ページで300円とか、そういう感じが多いから、買うのも読むのも気軽だし、その団体への応援にもなるし、つながりを継続できるから、事あるごとに買ってた。

書きたいと思ったことを、出会った人に届ける

タカ 初めて自分でブックレットをつくったのは2006年なんだけど、その3年くらい前に、僕は突然原発と出会ったんだよね。それで自分が知ったこととかをまわりの友達に広めるときに、誰かの本を見せても「大事だということはわかるけど、難しくて読めない」「分厚い」「表紙とタイトルが怖い」とかすごく言われて、「なんだよ、それくらいのハードルは越えろよ!」ってブーブー言っているうちに、「じゃあタカが説明してよ」と。それで「俺が書くしかないのかな」と思って。

そういうなかで、「そうか、みんなこうやって、自分の身の回りに届く言葉を紡いできたんだな」と。それで、本腰を入れて原発や放射能についてめっちゃ調べながら、自分の考えとそれまで以上に深く向き合ったんだよね。ワープロで原稿をつくって、近所の印刷屋さんに持ち込んで印刷してもらって、完成したのが『わたしにつながるいのちのために』(当時の版は絶版、2023年に新装版を刊行)というブックレットだった。

タカ これが本当にいい経験になった。いろいろな人たちの協力のもとに、たくさんの人たちの手に取ってもらえたという実感が生まれて、「やっぱりブックレットって大事だな」と思って、それからは何年かに1回のペースでブックレットをつくり続けている。

さらに、2017年にパートナーの栄里が妊娠したことをきっかけに、ブックレットをつくって販売していく取り組みに本腰を入れることにしたんだよね。それまで全国を回る旅をしながら、「子どものニーズと大人のニーズが対等に尊重されること」「子どもが小さいうちは徒歩で動ける範囲を中心にして暮らすのが理想」という話を聞いたり、実際にそういう暮らしの実践を見てとても納得したりしてたから、栄里のお産の前からもう全国を動き回らないことに決めて、旅で学んだことや関心を寄せてきたこと、書きたいと思っていたことを書いて、それをブックレットにして、いままで出会った人たちを中心に送り届けようと。

それで2018年に「冨貴書房」をつくった。

タカ 最初に刊行したのは、栄里のお産の直後に完成した『いのちとみそ』。2冊目が翌2019年夏の『ウランとみそ汁』。その翌年の春からコロナのロックダウンがあって本当に動けなくなり、ワークショップは一切辞めて、家と工房を行き来するだけの日々になり。

オーダーメイドの染めの仕事を続けながら、工房を書斎のようにして『曆のススメ』『曆のススメ 月編』『暦のススメ 惑星編』の3冊を出し、2022年に『ウランといのちの声を聴く』を出した。

タカ その後に、絶版になっていた『わたしにつながるいのちのために』の、最後の10ページにいま言いたいことを書いた新装版を出したり、その間にコミュニティの仲間たちと『ハナヤ通信』というジンや、浜松のフォレストガーデンのオーガナイザーでありイラストレーターでもある友達の川村若菜のイラストを塗り絵にした本も出版したり。

ロックダウンから3年間は、「タカフミさんの出版業をサポートしたい」と言ってくれた友人がやっているサンワ電建という会社が販売元になって制作費を出資してくれたおかげで、一連の出版物を刊行できたことはとても大きいことだった。コミュニティに支えられてなんとかやってこれたという気持ちがとても大きいね。この3年間の経験に関してはいまも感謝と受け取ったギフトをじっくり消化している最中って感じだね。

そして今年の1月に、再び冨貴書房が販売元になって『未来につなげるしおの道』というフィクションの単行本を出したんだ。これはいろいろな意味で新しい第一歩になった感じだね。まだその一歩をやってる最中だけど。

受け取った声を出すには、物語にするしかなかった

 『未来につなげるしおの道』は小説だよね。どうして小説にしたの?

タカ ブックレットをつくりながら、ずっと拭えないジレンマがあったんだ。

特に原発や放射能やウランの話って、「セシウムや味噌はこういう働きをします」とか、科学的なデータを噛み砕いて解説するとか、客観的な情報をわかりやすく伝えることが大事になる。だけど自分が原発や放射能と向き合い続けているのは、誰かと出会って話を聞いたときに、心が動いたからなんだよね。でも、そういう話って相手のプライバシーを尊重すると、出せないんだよ。「六ケ所村の再処理工場で働く○○さんの話を聞いてショックを受けて……」とか、書けない。

そういう僕が受け取った声をちゃんと出すには、自分でフィクション=物語を紡ぐしかないと思ったんだよね。だから『ウランといのちの声を聴く』では第一章で12人の架空の登場人物の語りを入れてみたんだけど、それをやってみたあとに何とも言えない手応えを感じて、「次は1冊まるまるフィクションの本を書いてみたい」って思って。

それから、ロックダウンのときにたくさん小説を読むようになったんだけど、なかでもティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』という短編集を読んだ影響も大きいね。

彼はベトナム戦争を体験していて、どう考えてもその時に体験したことを書いているような印象があるんだけど、本人は「この物語は全部フィクション」って言い切ってるの。その本を読んでとても心が動いた体験も、後押しになった。自分の中にうごめいているいろいろなものを消化するために書いたっていう感じがすごくしたし、描写のあり方そのものからも「こういう書き方もあるんだ」って感じたし、この本から受けたインパクトを消化している最中って感じもあるね。

その前から、それこそコロナ禍に入ったぐらいからすごい量の文章を書いてきてたんだけど、あるときに「塩に絡む文章だけ抜いたらどうなる?」と思いついて。一方で、同時期に僕の塩炊きの話に反応する人がすごく多かったんだけど、「そう言えばあんまり塩炊きのことは書いてないな」とそこでも思って。そうやっていろいろなものが混ざって、 『未来につなげるしおの道』ができた感じかな。

「出版文化が僕らの暮らしのなかにある」

タカ 僕はもちろん執筆もするんだけど、編集の仕事も最後までやっていて。デザインをしてくれる友人の作業に寄り添って伴走したり、会計をしたり、取扱店を募集するオーダーフォームをつくって受付対応をしたり、そこに発送したり、必要があれば製本もやったり、一連の仕事を誰かにやってもらう場合は、そのマネージメントをやったり。

 タカは、カバーをわざわざ自分でひとつずつ手で折って付けるとか、自分の手を動かして何かをつることをとても大切にしているよね。知らない人には手折りしてるなんてわからないだろうけど、そうやってただの商品としてではなく、コンテンツも制作も流通の仕組みもいろいろなことを考えていて、できる限り自分の思いを表現している。そこにもすごく心が打たれる。

タカ そこは、未来を見ていて。僕が「自分のやる領域をなるべく増やす」って思ってやっているのは、「ひとりでやりたいから」ではなくて、むしろ誰かと一緒にやっていきたいからなんだよね。会計も製本も発送も、「どんな手間がどれくらいかかるか」とか「やっていてどんな気持ちになるか」とかが実感としてわからないと、「やってみない?」って気軽に言えないと思ってて。

まあ実際、何らかの仕事を引き継ぐってときに、何かがすれ違ってしまったりっていう経験も過去にたくさんしてきたから、それもあって、いまはまずいろんなことを自分でやってみようと思ってるね。

そのうえで、誰かを誘ったり、技術やノウハウをシェアしたりする「場のデザイン」を丁寧にみんなでやっていきたい。人が何かを学んだり体験したりするための交差点のような場所とか。誰かと何かをやることでどんな関係性を紡げるか、お互いにとってどんなエンパワーメントとサポートができるか……。

いまはまだそういった実践のプロセスが始まったばかりの段階だと思ってるけど、そういうことも含めた「出版文化が僕らの暮らしのなかにある」という世界を、ずっと描き続けている。

(後編ここまで)

(編集: 岡澤浩太郎)
(編集協力: スズキコウタ)