小さい頃から、サンタクロースを信じていた記憶がない。
そんな僕も、なぜか「家族」については、「25歳くらいになったら結婚して、子どもができて、郊外のマンションでも借りて暮らすんだろうなぁ」なんて、無邪気に信じていたのだ。
そんなピュアだった少年も、今や33歳。ここのところ、けっこうな不安を持ち始めている。
「あれ…家族、つくれないかもしれん…」
人生ゲームのようにコマをすすめていれば、どこかで「家族ができた!」っていうマスが待っている…ことは、どうやらないらしい。リアルな人生は、ボードゲームみたいに選択肢が用意されてるわけじゃなく、自分で選択肢を探し、ときには世の中にはない選択肢をつくって、そのなかから選びとっていく必要があるようなのだ。
「家族つくるの、めっちゃむず!」
現実に直面して、僕は立ちすくんでしまいそうになっている。
さて、この連載「ほしい家族をつくる」は、「家族」があたり前でなくなった時代に、
「生きるうえで支えになるような関係性をつくるには、どうしたらいいのか?」
という問いをたずさえながら、「家族」にかわるあたらしい関係性のかたちを探究していく、というもの。
第一回は、「なんでそんな連載はじめるの?」ということをお伝えするので、すこしばかりお付き合いいただけたらうれしいです。
山中散歩(やまなか・さんぽ)
生き方編集者。生き方の物語をともにつくる活動に取り組む。「ほしい家族をつくる(greenz.jp)」「キャリアブレイク(東洋経済オンライン)」連載中。ときどき友人と「ほめるBar」を開催。関心領域はナラティブとケア、家族、キャリアブレイク。散歩の合間に働いてます。
「家族」って、なんだ?
「家族」と聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろう。
ひとつ屋根のした、両親と子ども、場合によっては祖父母が一緒に暮らす、ぬくもりに満ちた場所ーーたとえばクレヨンしんちゃんの野原家のような関係性を、「幸福な家族」としてイメージする方も多いかもしれない。
こうした「野原家」のような家族は、「近代家族」と呼ばれる。
「近代家族」の定義は研究者によってさまざまだけど、僕なりにまとめると
「愛情によって結婚した夫婦と、その性愛関係から生まれた子どもによる血縁で結ばれた関係性。愛情でつながっていて、男性は働き、女性は家事育児をするという性別役割分業が基本とされ、子どもが家族の中心になっている」
といった関係性のことらしい。
「うんうん、それこそ家族だよね!」と、思う方もいると思う。だけど、こうした関係性は決して普遍的なものではない。「“近代”家族」という名前があらわしているように、こうした家族のかたちがひろまっていったのは欧米でも19世紀に入ってから、日本では明治期以降のことだったようなのだ。
欧米では近代以前は、現在のような職住分離ではなく、住む場所と働く場所が同じで、女性も子どもも働き手であり、「母性愛」や「子ども」といった観念も希薄だったそう。さらに、「家族」よりも共同体の存在が重要で、プライバシーは重視されなかったといわれている。
「幸福な家族像」からこぼれ落ちる関係性
さて、ここでちょっとだけ個人的な話を。
僕の家族は、先ほど紹介したような「幸福な家族(近代家族)」のイメージとは少しちがった。
僕は物心つく前から、大学院に通い始める23歳の頃まで、埼玉の家で暮らしていた。我が家にいたのは、母方の叔父と叔母、祖母(僕が中学の時に亡くなってしまったけど)と、「プリ」という黒猫。猫が20歳で大往生を遂げてからは、「レオ」という白いマルチーズ(僕はレオとすこぶる仲がわるかったのだけど、それはまた別の話)。
共働きだった両親は普段川崎に住んでいて、土日だけ深谷の家にくる、という生活をしていた。つまり、両親が基本的には家にいない環境で育った。
そのことを話すと、「親がいないなんて、寂しかったでしょう?」と、言われることもある。が、僕はといえば、寂しいという感覚より、口うるさく「勉強しろ! 髪をきれ! 歯を磨け!」と言ってくる親がいない平日のほうが、のびのびとしていたのだ。
世の中にある、「幸福な家族」のイメージ。そこからこぼれ落ちる我が家族。そのギャップへの違和感は、深谷の家を離れて進学、就職し、フリーランスとして独立したあとも、「『家族』って、なんなのだろう?」という問いとなって残り続けることになる。
家族のイメージは、「みんなちがってみんないい」?
そんな問いをきっかけに開催したのが、写真展『家族の輪郭』だった。
2022年2月21日から27日まで、東池袋にある「ひがいけポンド」という場所で開催したこの写真展では、シェアハウスや自立援助ホーム、高齢者同士、夫婦と子からなる家族、同性パートナー同士、海外出身で日本に暮らす人々など、6つの家族の写真を展示した。
さらに、展示を見た上で「あなたにとっての家族のイメージを教えてください」という問いをもとに、画用紙に絵を描いてもらい、その上で家族について対話する、という「対話型鑑賞」のような仕掛けも用意した。
約1週間の展示で、30枚以上の「家族のイメージ」が集まった。
驚いたのは、一枚として似たような絵がなかったこと。ある人は「先祖から子孫につながる血縁関係」として、ある人は「そのときどきで個々人が変容していくアメーバ」として、またある人は「パートナーとのユニットを基本単位としたつながり」として…
一人ひとりの家族のイメージは、他の誰のものとも異なる、オリジナルなものばかりだったのだ。
1994年に社会学者の上野千鶴子が行った 「ファミリー・アイデンティティ」についての調査では、ペットを家族だとみなす人々が現れるなど、家族が選択できるものであるという意識が広まっていることが明らかにされていた。(参考:『近代家族の成立と終焉』上野千鶴子)
このときの僕は一枚一枚の絵を眺めながら、上野の調査をうらづけるように、「家族のイメージは、『みんなちがってみんないい』だよなぁ」なんて、楽観的に考えていたのだ。
けれど、そんな考えは、すぐに不安へと変わることになる。
自由な家族はつらいよ
写真展の会期中、読書会も開催しました。それぞれが「家族」というテーマで思い浮かぶ本を一冊持ち寄って、その内容や気づきをシェアする、というもの。そのなかで、参加者から次のような言葉が出てきた。
家族が自由に選べるからこそ、どうしていいかわらないですよね。
いや、ほんと、その通り。自由は、ときに人を不安や恐怖へといざなう。僕がメニューが豊富な牛丼屋より、かぎられたメニューの牛丼屋を選ぶのは、「自由が不安」だからだ。(ナチズムへの傾倒の背景に、実は自由であることによる不安があったことは、エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で論じている)
牛丼であれば、選択に失敗しても「めっちゃうまい牛丼」が「そこそこうまい牛丼」になるだけ。
しかし、「家族」であればどうだろう。
近代以降、人々は「家族」に大きな役割を持たせてきた。「一般社団法人PublicMeetsInnovation(PMI)」は、家族の機能を9つに整理している。
これほど多くの機能を、家族は担ってきたのだ。
裏を返せば、家族をつくる自由度が増すことは、生きるために必要なこうした機能を、どのように選び取るかを考えなければいけないということ。
そうなったらもう、牛丼どころのさわぎではない。選択に失敗したら(あるいは、そもそも選択できなかったり、選択されなかったりしたら)、これらの機能を市場に求めたり、公的サービスに求めたりしなければいけなくなる。
実際に、すでに9つの機能の多くを、僕らは市場や公的サービスに頼っている。けれど、お金も限りがあるし、公的サービスが十分であるとはいえない。そうなると、「家族がつくれない」リスクは、ずしんと個人の背中にのしかかってくる。うおー、これはつらいぞ…。
家族が個人化した時代のリスク
家族が選択できるものになることは、自由をもたらすだけでなく、リスクをもたらす–。このことは、家族についての研究でも指摘されてきた。
「現代社会は伝統やコミュニティなどの価値が解体し、自らが選択していくことが必要になる『個人化』が進んでいる」ということは、ベックやギデンズ、バウマンなどが分析してきた。
山田昌弘は、家族という領域においても、家族関係自体を選択したり、解消したりする可能性が増大する「家族の本質的個人化」が進んでおり、そんな「家族の本質的個人化」が、家族のリスク化や階層化をもたらしているという。(「家族の個人化」『社会学評論 54 (4)』山田昌弘)
つまり、家族が選択可能なものになることは、「家族を望んでもつくれない」というリスクや、「つくれたけど、解消しなければいけなくなる」リスクと隣り合わせになるということなのだ。
また、家族をつくれるかどうかという選択可能性は、その人の経済力や魅力といった要因に左右され、それらを持つ人と持たない人との格差が生じることになる。
そうなると、もし家族以外のセーフティーネットが十分でなければ、家族をつくれなかった人は孤立してしまう…。そんな孤立が実際に生まれていることは、80代の親が家にひきこもる50代の子どもを支え、経済的にも精神的にも行き詰まってしまう「8050問題」などがあらわしている。
「ほしい家族をつくる時代」は、「家族をつくれない」というリスクをはらんだ時代なのかもしれない…。
「家族って、みんなちがってみんないい」
なんて、無邪気に考えながら写真展をひらいた僕は、写真展を通して、「自分は家族をつくれないかもしれない…」という不安を、ずっしりと抱えて帰路につくことになったのだった。
家族の実践から学び合う。
「家族をつくれない」リスクに、どうしたら対応していけるのか。
ひとつは、社会でセーフティネットが整備されるのを待つことだろう。が、そんな悠長なことしてられない。必要な制度ができたときには、もうヨボヨボになってる可能性は大いにあるのだ。
きっと重要なのは、「家族って、みんなちがってみんないいよね」から一歩進んで、「ほしい家族は、どうしたらつくれるのか」を、ともに学びあうことだ。
さきほど説明したように、「家族」の機能についてはこれまでさまざまなとらえ方がされてきたけれど、ごくシンプルにいえば、次のふたつにまとめられると思う。
そして、「近代家族」というあり方があたり前のものでなくなったいま、「ケアが無条件でおこなわれ、なおかつ大切にされているという実感が得られる」場所を、「近代家族」とは異なるかたちでつくる実践が、あちこちで生まれている。
たとえば、親族ではない人々が共同生活する「シェアハウス」や、入居希望者が組合を結成し、 自ら事業主となって建てる集合住宅「コーポラティブハウス」、婚姻関係を結ばないけれど、パートナー同士で助け合う「事実婚」と呼ばれる関係性、住居はシェアせずとも近隣で助け合う関係性、などなど。
そうした実践は、「あの人たちはこうしていたから、こうするのが正しい」といったように、一般化できる正解があるわけではない。
家族のイメージと近い言葉として「親密圏」という言葉がある。その定義は「愛などの情感的結合を基礎に結びついた人間関係からなる領域であり、具体的で代替不可能な他者との関係が営まれる場」。ちょっとむずかしい。
ただ、「具体的で代替不可能な他者との関係」とあるように、それぞれの関係性は、その人たちがそのとき、その場所だからこそ行っているものだということが、さしあたり重要だと思う。人や場所が変われば、ちがった実践が立ち上がるはずなのだ。
だからといって、まったく何も参考にするものがないなか、一人で「家族のかたち」を模索していくのは、ちょっと心もとない。だからこそ、それぞれの人や関係性は「具体的で代替不可能」だという前提に立った上で、さまざまな事例を知り、学び合いながら、自分なりの考え方や実践を立ち上げていくことが必要だと思う。
「ほしい家族をつくるには、どうしたらいい?」を学んでいこう。
この連載プロジェクトでは、さまざまな家族を取材しながら、「ほしい家族をつくるには、どうしたらいいのか」という問いについて探究していく。
その家族は、どのような関係性なのか。
どのような経緯で生まれ、どのような困難があり、それをどう乗り越えてきたのか。
どのような制度的・社会的なサポートを活用しているのか。あるいは必要としているのか…
「家族は、みんなちがってみんないい」で終わらせないために、そうした問いを携えて、全国各地(あるいは海外も?)のさまざまな実践の現場をめぐっていこうと考えている。
「ほしい家族をつくる」を探る旅。
よかったら、みなさんが考える「家族」についても、話を聞かせてくれたら嬉しいです。
参考文献
(撮影: 山中康司)
(編集:佐藤伶)
– INFORMATION –
8/25(金)第1回 「ほしい家族をつくるには、どうしたらいい?」を語る
「ほしい家族の井戸端会議」は、本連載に紐づいて「家族」についてゆるゆると対話をする会です。毎回、直近で公開された記事を題材にし、記事では伝えきれなかったエピソードを、執筆者である山中康司が紹介。それを踏まえて、参加者の皆さんと「家族」というテーマについてざっくばらんにおしゃべりする、という企画です。第一回のテーマは、「ほしい家族をつくるには、どうしたらいい?」。