インターネットを使えば、世界中の膨大な情報が瞬時に手に入る現代。それでも、休暇があれば海外へ行くという人はたくさんいます。
現地に足を運んで過ごす時間、目にする景色、感じる空気は、何にも代えがたいのでしょう。
ドキュメンタリー映画『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』は、タイトルどおり、世界中を歩いて見て回った作家・チャトウィンの足跡をたどる映画です。
15万年前から放浪していた人類。現代人にとって放浪するとは
ブルース・チャトウィン(Charles Bruce Chatwin)は1940年生まれのイギリスの作家。デビュー作『パタゴニア』は池澤夏樹が編集した『世界文学全集(河出書房新社)』に収録されていますが、日本でベストセラーを獲得するほど人気があるとは言えないかもしれません。けれども、彼の著作を読んだことがなくても、彼の名前を初めて耳にしたとしても、この映画は十分に楽しめます。
彼と親交があった映画監督、ヴェルナー・ヘルツォーク(Werner Herzog)が彼の足跡をたどるように旅をし、さまざまな人と言葉を交わし、チャトウィンが目にし、そこから広がった思考、そして彼という人物が自然に感じ取れる作品に仕上がっています。
映画の冒頭を飾るのは、チャトウィンによる『パタゴニア』の朗読。そこで語られる「ブロントサウルス」の皮(本当は、古代に生息していたミロドンという大ナマケモノの皮)の発見場所であるチリが、最初の行き先です。
そして、チャトウィンが10代の頃に足を運んだイギリスの古代遺跡、さらに妻エリザベスと愛を育んだウェールズ。そこから南半球へと足を伸ばし、ヘルツォーク監督とチャトウィンが出会ったオーストラリアへ。
チャトウィンはこのように世界中を旅しながら、小説を書き続けました。彼は、「ノマディズム/放浪」に魅了されていたといわれます。私たちが知るノマドワーカーとは桁違いの放浪を、現代人が想像するのは難しいかもしれません。けれども、そもそも私たちホモ・サピエンスは15万年ほど前に東アフリカで誕生して以来、アジアやシベリア、さらにアラスカへ渡り、南北アメリカを南下、その南端まで世界中を放浪し続けてきた歴史を持っています
そんなスケールの大きな「ノマディズム/放浪」を感じさせるのは、南米大陸の突端の洞窟に1万年前から残されている無数の手形。スクリーンに映し出されるそれらは生々しく、それまでの時間、距離に思いをはせずにはいられません。
「ブロントサウルス」の皮や遺跡などの古いもの、自分たちの暮らしを守り伝えているアボリジニのような民族や彼らの文化、厳しくも美しく雄大な自然などが、この映画を構成する8章に詰め込まれています。ほかにも、ワルピリ族と暮らしてきたという作家や、ワルピリ族やアボリジニの老人、人類学者や山岳ガイドらの言葉からは、歴史や文化人類学的な、けれども単なる知識や情報ではない、それぞれの経験に基づく智恵のようなものが感じられます。
これらの映像と写真、ナレーションや朗読、対話、そして音楽、それらがパズルのピースのように、生きながら放浪し続けたチャトウィンという人物や彼の人生の輪郭を形づくっていくのを目にするでしょう。そのうち、どうして人間は放浪をやめたのか、定住生活をしながらなぜ旅をするのか、どうして私は旅をするのか、そんな命題が頭をよぎるかもしれません。
神保町に行って、岩波ホールへ。劇場まで足を運んで、この映画を観る
映画の最後を締めくくるのは、『本は閉じられた』という第8章です。妻であるエリザベスが、彼との結婚生活を振り返ります。男性とも関係を持ったチャトウィンですが、カトリック教徒でもある彼女は離婚することなく、彼の最期までそばにいました。
チャトウィンは、HIVが流行し始めて間もなく感染すると、常に自分の死を意識していたといわれます。まだエイズが不治の病であった当時。世界を旅し、放浪を続けながら、彼の頭の中には常に自らの死があったのかもしれません。そして、死に方を考えていたのかもしれないとも思うのです。そんなことを考えながらチャトウィンの足跡を追うと、同じ景色でも異なる表情が見えてきそうです。
死期が近づき、ひどくやせ細っても、「旅に出なきゃ」と口にしていたというチャトウィン。彼は死ぬまで、放浪することを追い求めていました。「ノマディズム/放浪」が人生そのものになりえるのは、それが実際に足を運んだ経験であり、時間だからでしょう。インターネット上の情報は、それをどれだけ集めても情報にすぎません。
パンデミック以降、感染予防の観点から物理的に距離を置くことが求められてきました。そのために、直接見る、聞く、会うといった経験は激減しました。いつしかそのことに慣れてしまった人もいるかもしれません。けれども、実際に「歩いて世界を見る」からこそ、自分の全感覚で感じ取れるものがあるはずです。ZOOM越しの会話は、同じ場を共有したり、ましてや触れ合ったりする交流とはなりえないことを改めて思い出しました。
「歩いて世界を見る」ことを改めて考えるきっかけとなりそうなこの映画は、ぜひとも劇場に「足を運んで」観ていただきたいもの。東京での上映館は、神保町の岩波ホールです。質の高い映画の数々を上映することでよく知られたこの映画館は、7月29日にその54年間の幕を下ろします。『歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡』が、最後の上映作品となります。
地下鉄で神保町へ行き、岩波ホールの座席に座って、この映画を観るとき、あなたは何を目にするでしょうか。映画の中でヘルツォーク監督が旅をする世界各地だけでなく、もっともっとたくさんのものを目にし、感じるはずです。そんな鑑賞体験こそ、この映画を観るのにふさわしいのではないでしょうか。ぜひ劇場に足をお運びください。
– INFORMATION –
原題:Nomad:In the Footsteps of Bruce Chatwin
監督・脚本:ヴェルナー・ヘルツォーク
2019年/イギリス=スコットランド=フランス/85分/ドキュメンタリー/配給:サニーフィルム
6/4(土)より岩波ホールで公開
©SIDEWAYS FILM