みなさん、こんにちは。はじめまして。
ぼくは、兵庫県尼崎市を中心に、さまざまなローカルプロジェクトの立ち上げやプロデュース、「場づくり」などを行っている「株式会社ここにある(尼崎ENGAWA化計画)」の藤本遼です。
これまでに手がけてきた取り組みは、
などなど。
先日、greenz.jpに取材いただいた記事もあるので、よろしければお読みください。
今回、ご縁がありまして『場づくりという冒険 いかしあうつながりを編み直す(グリーンズ出版)』を出版させていただくことになりました。それに関連しまして、連載企画をスタートいたします。
書籍内に収めているいくつかのインタビュー事例を編集なしでそのまま掲載させていただきます。ぜひ、記事を読んで関心を寄せてくださった方は、書籍をお手に取ってくださいますとうれしいです。
壊し続ける文化住宅「前田文化」とは?
最近、リノベーションが流行っている。使われなくなった空間や建物の使い道として、カッコいいカフェにしたり、ゲストハウスにしたり、ショップにしたりすることが割と最近の主流になってきている。それはとても素晴らしいことであると思うし、筆者もそういった場所を使わせていただく機会が多い。
また別の使い道としては、残念ではあるが完全に更地にしてしまって、駐車場や倉庫にするという方向性もあり得る。だが「前田文化」は、そのどの道も選ばない。
阪急茨木市駅から徒歩10分ほど。絵に描いたような閑静な住宅街の一角にその風変わりな2階建ての文化住宅はある。しかし、1階の壁はすでにほとんど壊されているため、「そもそもここは文化住宅なのだろうか」という思いになる。
現在の管理人・前田裕紀さんは、数年前から「前田文化」を拠点にいろいろな取り組みを行ってきた。壁の破壊記念に「新幹線開通式」をしたり、相撲取りに壁を壊してもらったり、大寒波が訪れた際に「大寒波監視小屋」を制作して凍死者が出ないか監視をしたり。一見なにをやっているのか、なんのためにやっているのかが全くわからない。
また最近では、文化住宅を破壊しながら演劇パフォーマンスをしたり、同じく文化住宅を破壊しながら楽団と一緒にオーケストラの演奏をしたりとその活動の幅は広がっている。
彼らは「壊し続けることの中に価値を見出すことはできないか」という問いを持って、彼らなりのアプローチを続けている。正直、意味がわからない。でも、その意味のわからなさの先に、実は自分がどこかで求めていたものがあるのかもしれない、とも思う。
そういった既存の主流に対してのカウンター的取り組みとして「前田文化」を紹介したい。いや、そうじゃない。本当は「前田文化」こそが現代社会の本質をえぐっているのかもしれない。
種々の取り組みの根底にどんな想いがあるのだろう。底冷えする冬の日に「前田文化」の1階でお話を伺った。壁がないため、とても寒かった。
1984年5月31日生まれ。文化住宅「前田文化」の管理人。文化住宅「前田文化」のオーナー・管理人として、祖父から相続した建物と向き合うことに創造的な意味を見出すべくさまざまな企画を実施中。企画を通じて『取り壊してビルか駐車場にする』か『きれいな内装にリノベーションする』の二択以外の文化住宅の可能性を世の中に問い直している。現在は「のせでんアートライン」のアートプロデュースにも関わるなど、創造的な才能を発揮している。
祖父の所有物件を相続するところから始まった
藤本 そもそもこの場所ってなんですか(笑)?
前田さん 文化住宅やね(笑)
藤本 文化住宅としての「前田文化」はいつできたんですか?
前田さん 1960年代にすでにあった建物を土地ごと祖父が買って、余っていた土地に実家をつくって住みはじめた。もともと祖父は大阪天満の市場で八百屋をやっていた人で。この地で自分で独立して卸しとか八百屋をやろうと思っていたんよね。でも近くに大きなスーパーができてしまったのでお店はやらないことにして。ずっと貸家業のみでやってきていた。自分が記憶してる限りではずっとその状態。
藤本 ほかにも管理している物件があるんですか?
前田さん いや、ここだけやと思う。50年以上この物件だけ。
藤本 ずっとおじいさまのもの?
前田さん 2013年までは祖父のもので。祖父の死後に相続したんやけど、父は早くに亡くなっていたから孫で一人っ子の自分が相続した。
祖父が所有しているとき、最後のほうは寝たきり状態になっていて。その頃に自分は東京から帰ってきてたんよね。ニートみたいな状態でめちゃくちゃひまだった状況なんやけど、家賃払いに来る人がいたから対応するようになって、そこから「前田文化」に関わるようになった。
夜逃げした部屋とか、住んでるんか住んでへんのか分からへん部屋なんかもあったよね(笑) 明らかに契約しているはずなのに家賃を払っていない場所もあった。それらをちょっとずつ確認していってたね。
藤本 何歳のときですか?
前田さん それが2010年から2012年くらいかな。20代後半くらいのとき。で、2階が空いていたから使えるようにしたいなと思い立って。近所の友達の助けを借りて片づけて、Xboxとテレビを置いてゲームだけができる部屋にした(笑)
床が汚かったから掃除をしてブルーシートだけ敷いたら、現場検証みたいな空間になったけど(笑) そんなことをしていたら友達が「前田文化」に住みたいと言い出して。「家賃払ってくれたら住ませるで」と言うと、そのXboxの部屋に友達が住むことになった。それをきっかけに他の部屋も掃除して開けるようになっていった。
友達が2世帯住んでいた時期もあったね。当時の自分は時間がありすぎたから、空き部屋のひとつを編集部屋にして雑誌をつくっていた。その時期からいろんな人の出入りがはじまるようになっていった。
藤本 部屋は結構埋まっていたんですか?
前田さん いくつかは埋まっている状態だったけどほぼ空いていて。空いてるとこを開拓していた。その流れでモーリスという人が転がり込んできた。
藤本 モーリス?
前田さん 統合失調症の友人が病院で出会った人。そのモーリスは当時、「前田文化」の近くのマンションに住んでたんやけど、トラブルがあって追い出されることになって。友達にその話を聞かされて、ウチで受け入れることになった。
藤本 そうなんですか。
前田さん その頃はそれぞれの部屋も汚かったんやけど、まだ建築の仕事はしてなかったからね。雨漏りの修繕なんかも見よう見まねで自分なりにやってたね。
アイデアづくりを学んだ東京時代
藤本 学生時代はなにをしていたんですか?
前田さん 地元の高校を卒業してから浪人して、大分の別府にある立命館アジア太平洋大学に通うようになった。でも3年間で4単位しか取れなくて。別府は温泉がいっぱいあるところなので、大学3年間で温泉入りに行ったみたいな感じ(笑)
藤本 21歳くらいのときに大学をやめられた?
前田さん そうそう。3年でやめたかな。学校にはあんまり行ってなかったけど、同級生の友達はいっぱいいた。でもみんなが就活をしはじめて。多くが東京で就職活動をするから会えなくなるんよ。だからさみしくなるなと思って、みんなより先に東京に行こうと思って。一足先に東京に行ったな(笑)
そこで就職先を見つけた。学生のころ、別府でフリーペーパーをつくっていたのでデザインができた。それもあって制作会社にどんどん乗り込んでいった。末端の会社というか、大変な会社にやけど。
藤本 そのあとはしばらく東京に?
前田さん 3年くらいはその制作会社で働いていたね。制作会社と聞いて思い描いていたのは電通とか博報堂みたいな有名なところばかりで。自分はクリエイターになりたかった。でも末端の会社の働き方は全然違った。パソコンの前でずっと寝ずに働いている人たちばかり。表参道にあったんやけど(笑)
かっこよくておしゃれな場所なのに楽しくなかった。狭いマンションの一室で風呂にも入らんとずっと作業しているという状態やったからね。
藤本 かなり大変ですね。
前田さん それとは別に、東京にいた同級生と一緒にテレビ局の企画に参加していて。映像クリエイターを食わせるという企画があったんよ。
『電波少年』が終わったあとにその『電波少年』のプロデューサーが動画クリエイターを育てるという企画をつくっててね。毎週、千原ジュニアさんが出したお題に対して、動画で大喜利的に返答するという内容やった。
3人組のユニットをつくって、毎週動画をつくってたな。実写とかアニメとか。それでおもしろかったら1万円、もっとおもしろかったら3万円みたいな感じでお金をもらったり。それでは食べていけんかったけど、それのほうが忙しくなって仕事をやめたな(笑)
その頃は深夜のバイトをしてた。東京駅の近くのホールの清掃とか、商品の数を数えるバイトとか。スーパーのレジ打ちは長く続いたね。25歳くらいのときかな。
藤本 ずっと動画はつくり続けていたんですか?
前田さん そうやね。昼間は3人のチームで動画制作の打ち合わせをして、深夜にバイト。その生活が大変やった。
藤本 どれくらい続きましたか?
前田さん 1年半くらいかな。でもしんどくてやめた。その当時、一緒にやっていた人とは今一切連絡を取ってない。しんどかったときにちょうどおじいちゃんが倒れた話を聞いてたから、それを口実にして大阪に帰ろうと思って。逃げ帰ってきたって感じやな。
藤本 そうだったんですね。
前田さん 東京にいたときに住んでた高円寺に行くと今でも切ない。深夜にやっているファミレスとかマクドとかを見ると今でも胸が苦しくなるというか。なにも前が見えない感じ。ずっとファミレスとかで打ち合わせしてたから。
藤本 辛い思い出ですね。
前田さん でもアイデアの出し方とかはその時代にいろいろ学んだ気がするね。相当ストイックにやっていたから。
現場仕事を体験し「前田文化」の改修を決意するまで
藤本 つくるということに思い入れがあったんですか?
前田さん 大学にいるときにデザイナーや現代アーティストに出会って。そういうことを仕事にしている人に対して憧れがあったかな。
藤本 大阪に帰って来て友達が住み出して、そのあとは?
前田さん また雑誌をつくってたかな。でも続かない。結局、ひまになってくると引きこもっちゃうんよね。
当時は朝から晩までオンラインゲームをしてた。オンラインゲームって仕事をしてない人が絶対的に強くて(笑) 昼夜関係なくできるから。その時はオンラインの世界でめっちゃがんばってて。王国を築き上げるゲームなんやけど、Skypeでユーザーと連携を取りながら3ヶ月ほどで盤石な自分の王国を築き上げてた。
でもゲームの仕様が変わったときに別の勢力に自分の王国が攻められて。昼夜問わずやり続けたんやけど、仲間たちがいなくなってもうダメだと思った。もう自分もやられるというタイミングで二度とやらないと決め、全部消した。最後に一番近所に住んでいたユーザーの人にだけ連絡したな。
藤本 そんな時期があったんですね。
前田さん それが終わって外に出ようと思った。ゲームばっかりしていたときも、朝の散歩だけはしていて。猫を連れて近所を歩いてたのね。そのときに、よく近所に住んでる建築関係の職人さんに会ってて。ゲームをやめてなにをしようかなと思って散歩してたら、その人に声をかけられて。
藤本 出会ったんですね。
前田さん 「毎朝、猫連れて気持ちよさそうに散歩してるけど、なにしてるん? ひまなら一緒に働かへん?」って言われて。現場の仕事はやったことなかったんやけど、やってみようかなって。明日から行きますって言って。
藤本 すごい。そのときはどんな仕事をしていたんですか?
前田さん ゼネコンがやっているような大きな仕事の下請け。内装の下地をつくっていた。毎朝ハイエースに乗って現場に行って。で、ラジオ体操をして仕事をしてという日々。だからなんか知らんうちに建築とつながったって感じやね。
自分自身も建築の現場に行くタイミングで前向きになっていってた。なんかやりたいって。そこでタイミングよく大学のときに一緒に芸術祭をやっていた友人の林くんが声をかけてきて。
藤本 そうなんですね。
前田さん 「今なにしてるん?」って言われて。「建築やったり、『前田文化』を運営したりしてるよ」って言ったら、「前田文化改修したらいいやん。アートスペースつくったらいいやん。建て替えたらどうなん?」っていう話をされて。なんかやりたいって思ってたから、それをきっかけにして前田文化改修プロジェクトがスタートした。
集まって、解体からやっていこう。
藤本 なるほど。林さんの存在はかなり大きかったんですね。
前田さん 大きかったね。アーティスト・イン・レジデンスなどの活動をずっと彼はやっていたし、そういう場のつくり方とかコーディネートもできたし。別で親からも「新しくマンションにしたらどうや」という話は出ていたし、自分もなにかできるような場所にしたらおもしろいなとは思っていたし。近所に住んでいる仲間とかにも声をかけはじめて。それが2013年の12月頃かな。
藤本 結構前なんですね。
前田さん 当時は建築士や設計士も入らないといけないと思ってた。みんなで話をしていたときに有名な人たちの名前が結構出てて。そんな人たちと一緒にやれたらいいなと思いつつ、彼らは忙しいとも聞いていた。結局有名な方々とは別のまだ少し余裕のある同世代の人たちと一緒にやろうっていう話になって。そこからはじまった。
藤本 意外と真面目なスタートですね。
前田さん そうやね。飯坂くんという今でこそ大活躍している方なんやけど、当時はまだ駆け出しで。彼と一緒にやろうってことになった。
「土曜日とか日曜日なら現場が休みやしいけるよ」って。なんとなく図面とか描いてくれてて。「1階は人が集まれる場所にしたいね」とか、「それって公民館的なところなんかな」とかって話しながら。
「コーヒーも出るし、たまに教室みたいなこともする。それって新しい公民館みたいなコンセプトなんじゃないか」って。そういうものを自分たちでつくろうという話をしていた。「毎週日曜日に集まってつくっていこう。解体からやっていこう」って。
藤本 楽しそう。
前田さん でも一応イメージはあったけど、なにも具体的に決まってないまま壊しはじめてて。「最初に壁を壊して入り口をつくりましょうか」という話をしていた。「毎週日曜日にみんな集まるし、イベントみたいなのをやろうよ」って。
藤本 最初のイベントはどんなものですか?
前田さん 最初はセレモニーをしないといけないという思い込みがあって(笑) 「壁が壊れたことを記念して新幹線を開通させよう」って。
壁があったころは、外へ出るのに玄関のドアを通らないといけなかったけど、壁に穴が開いてすぐに出られるようになったから。だから新幹線かなって。それをイベント実施前夜に思いついて、段ボールを集めてきて仲間たちと新幹線をつくって。2014年の2月かな。みんな集まって話しはじめてから2ヶ月後くらい。
イベント当日はまったく誰も見ていないのにはちまきを巻いて演説して。「わっしょい!」って言いながら新幹線を通して。で、最後はみんなでご飯を食べて終わるみたいな。
藤本 ヤバそうですね(笑) そのときは何人くらいいたんですか?
前田さん 参加者はみんな知っている人で6名。3日間は新幹線が壁から突き出ている状態やったな。
藤本 突き出ている(笑)
前田さん その期間は段ボールの新幹線を出しっぱなしにしてた(笑) それを出しながら普通に仕事に行ってて。
いつも通りハイエースで迎えに来てもらうんやけど、一緒に行く人がいろいろ聞いてきて。「お前あれ大丈夫?」「誰かになんかされてんの?」とか(笑)
「お前のところやろ?」「うちじゃないです」みたいな(笑) 他の人に聞かれると、なんか恥ずかしい気持ちになった。
藤本 恥ずかしいんですね、そこは(笑)
前田さん 恥ずかしいというか、よくわからないというか。言いたいことをうまく説明できないと思っていたから。「前田文化」をつくり直してるみたいな話もしなかった。
「なんのために壊すんやろう」
藤本 そこからいろんなイベントをするように?
前田さん なにかと理由をつけてやってた。なぜか毎週しなければという気持ちがあって。一応工事をするという体裁で、今日はこの作業をしますという感じで。
藤本 特に印象的なコンテンツはありますか?
前田さん 個々のコンテンツはそれぞれおもしろい。全部おもしろいんやけど、大きな流れのなかでつくり直していっている感じはあった。
飯坂くんは俺のことをお施主さんと呼んでて、あくまでも改修工事をやっているという状態。外から見るとずっと工事をしているように見えるから近所の人も聞いてくるんよね。勇気をもって。「なにしているんですか?」とか「なんのためにやってるんですか?」とか。でもちゃんと答えられなくて。みんな集まってくるし楽しかったんやけどね。
作業やイベントをやって、飲みに行って。それだけで十分おもしろかった。でもここをどうするか、みたいな話になったときに戸惑う自分がいて。その違和感みたいなものが最初の感覚やったかなと思うな。
藤本 その違和感みたいなものが明確に自覚された瞬間はいつですか?
前田さん 2016年までなんとなくなにかやっているという感じ。そういう風に動いていた。で、2016年に「劇団子供鉅人」という劇団と一緒に解体公演をすることになって。解体しながら演劇をするという。それが大規模な解体で。
藤本 それが大きかったんですね。
前田さん 方向性が決まっていないなかで解体だけするというのが決まった。それが2016年10月くらいやったんやけど、それでいいんかなって。どこまで壊すかは決まってなかったけど、まだ人は住んでるしなんのために壊すんやろうとか、壊してどうするんやろうとか。解体することだけが決まってもやもやしてた。
藤本 不安もあったんですね。
前田さん それですごく焦って、夏休みに2ヶ月くらい住み込んだりその住んでいる状況をネットで流し続けたりしてた。
今思えばなんか無理しているなという企画やね。自分もしんどかったし、誰もおもしろいと思っていなかったよね。みんな疲れてた。でも壊れてしまう前に残っている空間を体感しておかないといけないと思ってて。住むというのはどういうことなのかとかそういう企画。
「前田文化」って夏はほんまに暑いんやけど、夏の本当に暑い期間に3日間住み続けてみたり。そうしたらみるみるうちにみんなゲッソリしていって。その夏の状況を一番覚えてるな。嫌がっているけど、泊まらされるっていう(笑)
藤本 怖い企画ですね(笑)
前田さん みんなが離れていくなかで、自分と妻のあかりだけが残った。住みながら「髪の毛を染めてみる」ということもやったね。風呂なしアパートに住んでいる女性はどんな髪型にしたらベストなのかという企画の答えとして。髪を脱色させてマーブル模様の頭にした。脱色するとフケが見えにくくなったね(笑)
藤本 半ば狂ってますね(笑)
前田さん なんで壊すんやろうってずっと思ってた。一部綺麗にしている部分もあったけどそこも壊していって。解体公演の期間はいろんな人がバーっと来て、いろいろなところを壊していった。で、イベントが終わった次の日からは、自分たちでひたすら壊された瓦礫の山を片づけていくんよね。
藤本 大変そうですね。
前田さん その時に2階に住んでいたモーリスが「片付けるんかい!」と言い出して。「このままが一番ええやん」って。もはや「お金出すからこの瓦礫売って」とまで言われた。でもぐちゃぐちゃのままやったら誰も来れなくなるし、近所からも文句言われるから。綺麗にしないといけないという思いがあった。
藤本 普通はそう思いますよね。
前田さん でも今から見たら瓦礫に埋もれていた状態はええ感じやったとも思うんよね。土壁の状態のままとか、腐敗している床とか、汚れている場所とか。今まで工事としてやってきたことはそういうものを隠すことやったんかなって。
なんかそのモーリスの言葉を聞いてからは、隠す目的のために工事をする必要はないなと思うようになって。改修するとか、つくり変えるということに対しての感覚が見えたような気がしたな。
藤本 どこかで綺麗にしたいとか、使える形にしたいという気持ちがあったんですか?
前田さん あったね。でもそれも中途半端に進めてきた部分があった。一応、使えるようにしていたけど、来てもらうためには何かしないといけないとかそういうことを思っていた。
でも全部面倒やったんよね。一般的な形でわかりやすく活用してもらうにはとにかく誰に来てもらうかとか、どうやって人が入りやすい状態にするかとか、経済的で合理的な視点が必要。そのためには数字を使って計算しないといけない。でもそれがわずらわしかった。
藤本 自分の中で方向性について葛藤があった。
前田さん 中途半端に手を入れた状態でもし自分が死んだら、このまま腐敗していくんやろうなとか思う。誰もなにもしなくなるんだろうなと。それやったら大きなディベロッパーなどに託してマンションとかにしたほうがいいんちゃうかなと思うこともあった。
だけど、2016年に瓦礫の山を見て、モーリスが「このままの方がかっこいいぞ」と言ってくれた。それをきっかけにつくり直すという表面的なことはどうでもいいのかもしれないと思うようになった。
藤本 大きな変化だったんですね。
前田さん 2階に住んでいたモーリスは、室内に絵を飾ったり、近所から集めた石やコケを使って自分の庭のようなものをつくっていたりしていて。そんな人にこのままがかっこいいと言われると説得力があった。
そこからはつくり直しているということは言わなくてもいいんやと思うようになって。解体しているだけ、ただそれだけやと。それ以来なんのためにやってるのかと聞かれなくなった。というか耳に入らんくなったんかな。質問が怖くなくなったように思う。
矛盾に気づかせてくれたモーリスという存在
藤本 イベントの内容はそれ以降変わっているんですか?
前田さん 変わってると思う。中途半端に人を呼ぶためのイベントはしなくなった。毎週日曜日になにかしないといけないということからも逃れた。
藤本 結構な納得感があった。
前田さん そのときは自分のなかに納得感があったね。ただただ解体していく、ということにシフトしていった。
藤本 でも今も葛藤があるんですか?
前田さん そうやね。どこまで解体するの? ということもあるし、まだ人は住んでいるし。
でもモーリスが2018年の12月末に亡くなって、いよいよ住む人がいなくなるなって。それは文化住宅じゃなくなるということでもあって。解体してなくそうとしているのに、住む人がいなくなるとさみしいと感じる。大きな矛盾よね。なんで解体していたんやろうって。そういう葛藤がある。
藤本 モーリスってどんな存在でしたか?
前田さん この建物に対しての価値感覚の基準になっている人かもしれない。
イベントをして人が来ていたらモーリスが2階から下りてくるんよ。で、汚らしい格好と低い声で、女の子に声かけたりするんよね。トランクス一枚で椅子に座って、酩酊していて。椅子に座りながら見せつけるようにおしっこをしていたりとかもあって。
そんなことばっかりしてたから、女の子もいなくなるし、女の子だけじゃなくてそもそも人が来なくなるって思って。俺はそんなモーリスを見て、邪魔するならここに住めへんようにするでとかって言ってた。でも、実は人が集まることや若い女の子が来るということは、自分にとってどうでもいいとあとから思えるようになった。
上にモーリスが住んでいるのに、下で大きい音を立てて工事をしていた自分たちの間違いというか。文化住宅やんって。
藤本 自分たちの矛盾とモーリスの本質みたいな。
前田さん 次第にイベントがあるときは、今度こんなんあるでという話をモーリスにするようになって。でも最初、解体公演の前に劇団の人たちと話をしたときは、モーリスが酩酊してお客さんに迷惑をかけるかもしれへんから、お金を渡してどっかに行ってもらいますかという話もしていた。
でも実際に紹介して会ってもらったら、モーリスのことをおもしろがってくれて一緒に出ることになった。そういうこともあって、彼を隠さんでもいいんやと思った。モーリスは大きな工事でも協力してくれていたし、本人もずっと気にかけてくれていた。「今どうなってるん?」とか「もっとこうしたらええんちゃう?」とか「俺をネタに使ってくれてもいいよ」という提案をしてくれた。
藤本 おもしろいですね。
前田さん 2018年は騒音コンサートを開催して。まあまあ人がいっぱい来て成功したんよね。その後「『前田文化』をゲストハウスにしたらいいのでは」とか、今までとは異なる雰囲気が生まれていて。「前田文化」としてお金をつくっていきましょうみたいなそんな空気。モーリスはやっぱり酔っぱらいながらそれを聞いてて。
藤本 はい。
前田さん モーリスは「大丈夫か?」とか「それはまえちゃん(前田さん)にとってやりたいことなんか?」とずっと聞いてくれた。関わる人たちがどんどんと意思を持って、どうやったら「前田文化」がおもしろく続いていくか、どうやって生き残っていくかってみんな考えてくれていた。でも自分のなかで「ゲストハウスをやろう!」とは思っていなかったし、みんなが言ってくれることについては悶々としていた。
藤本 いつも問いかけをくれる。
前田さん モーリスは基本的にいつも酩酊していて。ずっと独り言を話しているんよね。ある日「いろんな奴が『前田文化』に白い粉を持ってくるぞ、まえちゃんは『前田文化』の柱のように腐敗していくんやぞ」と言っていた。モーリスはこれからの「前田文化」を予知しているのかもしれないと思ってたんよね。
藤本 なんかありそうですよね。
前田さん 今年のもちつき大会の企画は、地域の老人会のみなさんとすることになっていて。ある晩に近所に住んでいるメンバーのおっちゃんが入って来て、もち粉を置いていった。「これか! 白い粉!」と思った。確かに白い粉、持って来たなあって。そういう話。
藤本 なんの話なんですか(笑)
前田さん でも結果、モーリスはもちつき大会の1週間前くらいに亡くなって。もちつき大会を見ていないんよね。
藤本 そうなんですね。
前田さん 2018年のもちつき大会のとき、モーリスに豚汁を食べてもらった。彼はうまかったと1年間言い続けてて。その後、夏くらいに倒れた。病院に運ばれて、がんが見つかって。12月ごろには「あと1ヶ月くらいって医者に言われてんねん」と言い出した。年末には楽しみにしてたもちつきするから、そのときまでは生きてたらいいやんと言ってたけど。
藤本 最初、アルコール依存症のモーリスが住むということについて不安はありませんでしたか?
前田さん 多少の不安はあったね。モーリスは声が大きくてアルコールに反応する身体やった。でもそれだけの理由で隣人にうるさいと言われて、腹が立ってその隣人の車のワイパーを折って。それが原因でマンションを追い出された。
保証人もいないし。心のどこかで「前田文化」には空き部屋があるし、そんな人が住んでてもいいかなと思ってた。でも実際に住んでもらったらめっちゃうるさいし、クラシックの音楽をガンガンかけるときもある。南無妙法蓮華経を唱えるときもあった。
めっちゃ喧嘩したね。モーリスはお酒を飲みながら話をするから、腹が立って彼のタンブラーを叩き割ったこともあった。
藤本 改めて、モーリスとの関わりのなかでの気づきってどんなものでしたか?
前田さん マイノリティがどうとかはなくて。むしろモーリスが持っているおもしろさみたいなものに対してリスペクトのようなものがあった。常識がある人にはない突破力がある。自分は人の顔色を気にしているのにって。モーリス的なものを排除する限り、おもしろいことはできひんと思うな。
今の社会はどんどん綺麗になって、見えづらくなってきているものがたくさんあって。今、軸になっているのはその部分。どうやってそこを、モーリス的ななにかを見えるようにしていくか。文化住宅的なこととその点をつなげていきたいと思ってる。
藤本 いつからそう思っていますか?
前田さん 自分の過去ともつながっているような気がする。人の真似をしたくないというような、根本の話。そのことに気づけたのはモーリスとの出会いがあったからやと思う。
以前、本当に邪魔だから出て行ってという話をしたときに「まえちゃんがそんなに言うなら出て行きたいけど、出て行きようがないのよね」という話をしてくれた。そのときにわかった部分があったというか。自分はただ「前田文化」を綺麗に見せたいだけなんじゃないかって。
確かにめんどくさいのはめんどくさかったけど、モーリスが残したものもたくさんあった。俺らが日々抑圧しているものをモーリスは存分に出していた。
「前田文化」における多様なイベントや取り組みは「説明のできないもの」と前田氏が語るように、外部の人間からすると論理的に納得ができるというものではない。
だが、楽しい。なぜか、わくわくさせられる。驚きがある。それは、東京で動画制作に明け暮れた彼だからこそできる場のしつらえ方、開き方であるように思ったし、すべてを「お笑い」に還元していく彼らならではのアプローチがそこにあるように思った。
だが、彼らは、楽しくやっているように見えて、常に「こうあるべき」という呪いのようなものと対峙し続けている。そのゆらぎの感覚。どちらかに行き過ぎることのないバランス感覚のようなものの大切さも、改めて教えてもらったように感じた。
場をつくるときは、包含する力と排除する力が同時に作用する。そして、異質なものは排除される。理解できないものは軽視される。現代社会は、モーリス的ななにかを排除することによって成立している。しかし、その部分を無視することは逆に自分たちの首を締めることになるのかもしれないとも思う。
本質的な価値はなんであるのか、モーリスは前田氏に常に問うていた。本質を問い続けることと、矛盾をそれでも引き受けていくこと。今の社会の閉塞感を突破するなにかが、「前田文化」にあるように感じた。
(Text: 藤本遼)
– INFORMATION –
『場づくりという冒険 いかしあうつながりを編み直す』