「好きなことをして、そこそこ儲けて、いい里山をつくる」。
これは、大阪府南部・河南町の里山をフィールドに山仕事や米・野菜づくり、環境教育、木質バイオマスなどの里山保全活動に取り組む、「NPO法人里山倶楽部(以下、「里山倶楽部」)」の設立当初の合言葉です。
里山を維持することはたいへん根気のいる活動なのに、 “好きなことをしてそこそこ儲ける”なんて夢のような話ですが、なんと里山倶楽部はこのスタンスで”30年以上活動を続けてきた団体です。
かつて日本では、雑木林の間伐材を炭などの燃料にしたり、落ち葉を田んぼの肥料に使ったりと、生活に必要なものは山に揃っていましたが、やがて電気やガス、プラスチック製品が普及するにつれ、炭や薪、竹製品の出番はなくなり、放置される森林が多くなりました。
手入れされず真っ暗になった森には生き物が住めなくなり、生態系が崩れてしまいます。里山倶楽部では、そんな森を間伐するなど、さまざまなアプローチで河南町の里山を守る活動をしています。
「本当にストレスなく働けています」と話すのは、今回お話をうかがった理事兼事務局の寺川裕子さん。30年以上も前から里山の課題と向き合い、好きなこととして活動を続けることができた背景には、どういった組織運営の工夫があるのでしょうか。
NPO法人里山倶楽部 理事・事務局。大学卒業後、不動産会社勤務を経て大阪府農業大学校に再入学し、造園コンサルタント会社に10年ほど在籍。里山倶楽部の前身団体「南河内水と緑の会」の設立メンバー(1989年)。里山倶楽部を法人化すると同時に会社を退職し、倶楽部内に「里山環境教育オフィス」を立ち上げた(2002年)。以降、「里山の学校」などの講座や行政からの受託業務、および事務局運営に携わっている。
大好きな山が変わっていく様子を目の当たりにし、里山保全の道へ
もともと鳥や植物が好きで、現在「公益財団法人日本野鳥の会」大阪支部の幹事でもある寺川さん。きれいだった山がバブル期のリゾート開発でゴルフ場になったり、産業廃棄物が捨てられたりする状況を目の当たりにし、「山が荒廃していく状況をなんとか変えたい!」と、仲間たちと共に里山を守るなどの活動に関わるようになったことが、里山保全に興味を持つきっかけでした。
インターネットもスマホもなかった1980年代、寺川さんたちの情報源は、当時盛んに行われた環境分野のフォーラムやシンポジウムでした。「会場で出会った人たちと名刺交換をして、直に人と会うことでしか情報は得られなかった」と当時を振り返ります。
仲間たちと現在のコアフィールドである南河内で活動するようになったのは、故人、久門太郎兵衛(きゅうもん・たろうべい)さんと出会ってから。自然の生態系への理解に基づく「循環立体農法」の提唱者である久門さんは 、炭焼きや田んぼづくりなど様々なことを教えてくれただけでなく、南河内に所有する自身の山も、活動のために開放してくれたそう。
寺川さん 当時は “里山”という言葉も一般的ではなく、南河内地域には市民活動団体もほとんどありませんでした。自分たちが森や里山を楽しみながら守っていく活動を「里山保全活動」と呼ぶのは後から知ったんです。その中から里山をフィールドとする人たちを中心に、1995年に任意団体「里山倶楽部」を立ち上げました。
もともと造園会社でコンサルタントとして公園の設計業務に関わっていた寺川さん。時代はバブル崩壊後、リゾート開発が頓挫してしまった土地などを市町村がもてあましていた頃です。仕事の依頼の中には、市町村自体にもお金がないので「この山をどう活用したらいいか提案してほしい」という相談が多かったそうです。
寺川さん コンサルの仕事と並行して里山倶楽部の活動をしていたので、森林保全のノウハウを会社に提供していたのですが、会社にはあまり利益にならなくて、自分にとっては好きな分野でありながらやりがいにつながらないというジレンマがありました。
同じようなことを考えた人が身近に2人いたので、会社を退職して、任意団体だった里山倶楽部をNPO法人にしたんです。里山保全の業務を請け負ったことで、大好きな里山を再生することが本業になりました。
こうして、2002年から里山倶楽部はNPO法人として新たなスタートを切ったのです。
トップダウンではない組織だからこそ、自分のやりたいことに本気で取り組める
里山倶楽部の活動は8分野の事業に分かれていて、その活動内容は森林保全や環境教育、再生エネルギー、農業など多岐にわたります。活動の例をいくつか紹介しましょう。(2019年8月現在)
「里山事業部」では、森林の伐採や草刈りなど地元自治体からの依頼のほか、地域のお寺の裏庭の手入れなども行っています。
教育分野では、日本の文化に根ざした“日本的な自然観” をもとに、子どもの環境教育を行う「里山キッズクラブ事業部」などを展開しています。
再生可能エネルギーの分野では、万博公園内の間伐木を使って薪をつくり、その薪を燃やしてお湯や電気をつくる「木質バイオマスエネルギー事業部」など、さまざまな活動を行っています。
このように幅広い分野にわたる里山倶楽部の活動が30年以上も続いている理由として、最初からトップダウンではなく各グループが事業に責任をもって運営している組織であったことが大きいと寺川さんは話します。
寺川さん 多くの団体は、それぞれの事業の予算をあわせて「今年はどの事業に力を入れる?」とトップダウンのピラミッド構造で組織の方向性を決めていくと思うのですが、うちの場合はやりたい分野が自然系であるのが同じというだけで、やりたいことはバラバラのメンバーが“”集まっておりそれぞれが自分の財布を持って共同運営している感じなんです。
それぞれの活動の収支を事業ごとに管理し、活動実施後に事務局に対し「共同運営費」として収入の5パーセントを収めるというのが基本的なルール。残りのお金はそれぞれの事業が自由に使えるしくみなのだそう。
人件費に使ってもよし、備品を買ってもよし、次の活動のためにとっておくもよし。そのかわり、赤字が出ても各事業で収支をあわせる必要があるため、みんな必死で運営しているのだとか。試行錯誤の末にみんなで決めたというよりも、「自然とそういうルールが定着した」と寺川さんは振り返ります。
寺川さん もともとはボランティア活動としてスタートしたので、自分たちで事業を運営していくという意識は希薄でした。今でもそれは同じかも。それが長続きしている理由かもしれないけれど、逆に言えば消えていった事業やプログラムも山ほどあるんですよ。
「気持ちよくないと続かない、持続可能にならない」という思いを大事にしていると強調する寺川さん。「組織も里山の手入れをするように、循環する仕組みになるような思考があったのでは?」という質問には、「考えたわけではなく自然とそうなった」と笑って答えていました。
里山倶楽部が大事にしているのは、メンバーがやりたいことをうまくやっていくための環境づくり。その結果として里山が良くなっていく、ということに重きを置いているそう。
例えば、里山保全業務を担当するメンバーの高齢化により難しくなってきた作業があるため、「無理をしない」という考えから、今年から体力的にメンバーの負担が大きな委託業務を受けないことにしたといいます。メンバーが動きやすいようにした結果が独立採算制の組織運営につながっているようです。
一番の目的は組織を継続することではなく、里山を守ること。
70〜80代のメンバーが多い里山保全団体では、森林保全活動の大きな課題は次世代への継承と言われています。現在は50代メンバーが中心で比較的若いメンバーが多い団体と言われる里山倶楽部でも、これまでの30年間の成果をどう引き継ぐかは課題になっているそうです。
「寺川さんが辞めたら事務局はどうなる?」という疑問を投げかけると、「それぞれの事業をバラして任意団体になれば私のポジションは必要ない」と笑います。
寺川さん 極端に言えば、里山倶楽部としては解散しても構わないんですよ。今まで手入れして良くなってきた山々をそのまま放っておくとまた元に戻ってしまうので、ちゃんと活かして使っていくことが一番大事だと考えています。だから団体を引き継ぐのではなく、里山を引き継ぐことは何らかの形でせなあかん、という意識は強く持っています。
こうした考えのもと、同じ南河内の地域で活動する他の人たちともゆるやかにつながっているそう。里山民泊や古民家カフェ、未就学児童向けの野外保育などの活動をする30〜40代の人たちと知り合う機会が増え、最近ではコラボレーションすることもあるそうです。
特に、千早赤阪村で活躍する「地域おこし協力隊」の人たちが地域をつなぐ良い活動をしているので、寺川さんたちもその動きに呼応し、「地域のさまざまな人たちと関わる動きがしたい」と行動を起こしています。今年の9月に開催されるイベント「南河内 “里山の文化祭”」は、里山と地域のつながりをつくるために寺川さんが企画したもの。このチラシのデザインは、同じ地域で里山民泊を営むデザイナーの方に依頼したものだとか。
若い世代との活動では、常に年配者側が歩み寄るのが大事
寺川さんには、他団体や外部の人とコラボレーションしていく上で大切にしている考えがあります。それは、「経験豊富なほうが歩み寄らなければ必ず断絶する、過度な負担や期待を押しつけてはいけない」ということ。
きっかけは数年前、寺川さん自身がファシリテーターを務めた自然環境系のフォーラムで、「若者が定着するには?」というテーマのワークショップを試し、若者たちの本音を聞く機会を設けたときのこと。
20代〜30代・40代〜50代・60代以上のグループに分かれて行なったこのワークショップで判明したのは、一生懸命活動している団体や古くから活動している団体ほど、良きにつけ悪しきにつけ年配者が威圧的な話し方をするために、若者が入ってきても、ものが自由に言えない事実が判明したといいます。
寺川さん 後継者不足に悩む自然環境系の団体は、里山の分野に限らず「若者が来ない』「定着しない』と言うのですが、関心をもつ若者はたくさんいるけれども敬遠しているだけだとはっきりとわかりました。年配者はそれに気づかずにとうとうと専門用語で語り、知識も経験も少ない若者は理解が追いつかずに、ただただ長い話が続くと感じてしまうのです。
寺川さん自身も、若い頃は先輩たちの言葉を圧力に感じたことがあったそう。そうした経験を踏まえ、コラボ活動の際には、若い人たちに歩み寄る姿勢を意識するよう、メンバーにも伝えています。
里山の手入れをするステージから “知識を他の人に継承するステージへ”
ホームページを見る限り、それぞれのプロジェクトを長期間かけてどっしりと展開しているイメージでしたが、実際に寺川さんの話を伺うと、里山倶楽部の事業は次々と新しいものが生まれてくる一方、消えていくものもたくさんあり、中身がどんどん変わっていることがわかりました。現に、先述した「里山キッズクラブ」の活動は、地元の自然学校とコラボし、「里山っ子クラブ」の名称に変わる予定なのだとか。
また、南河内で活動している人たちとゆるくつながっていく様子をみると、里山の手入れをするステージから、その知識や技術をほかの人たちに継承していくステージに移り変わっているように感じました。それが里山倶楽部の最近のコンセプト「新しい里山的生き方・暮らし方の提案」にもつながっているのではないでしょうか。
終始楽しそうに語る寺川さんですが、法人設立当初は事務局としてストレスもあったと回想します。
寺川さん 大好きな山にも行けず、しんどい時期もあったけれど、努力したことでみんなが喜んでくれて、事業の成長が見えてくると面白くなってきました。活動している人たちにいかに負担をかけずにこなすか。工夫もいっぱいできるようになったのが変わったところかな。自分がいることでみんながやりたいことをできる状況をつくれるのがうれしい。今はまったくストレスがないです。
里山の生態系を整えるように、組織に関わる人たちのライフステージの変化にあわせて無理なく柔軟に活動しやすい状況をつくっている寺川さん。地域で活動している人たちをつなぐ活動も、里山を維持するという考え以前に、「楽しいからやっているだけ」と笑います。会話中に何度もでてきたフレーズ「自然にそうなった」は、言い換えれば、その都度無理なく楽しい方法を選んできたということではないでしょうか。
寺川さんの現在の活動は、里山を保全するだけでなく、里山に関わる人たちが楽しく活動を続けられるよう、自分たちのノウハウを地域で活動している人たちに自然と広め、いかしあうことに注力しているように感じました。
里山倶楽部の活動に興味をもった方は、ぜひホームページを確認し、気になるイベントがあれば足を運んでみてください。