こんにちは、信岡良亮です。連載「学習するコミュニティに夢を見て」、前回からコミュニティというものを深掘りしていますが、今回はチームとの比較でそれを行なっていきたいと思います。
唐突ですが、ダニエル・キムという方が提唱した、「成功循環モデル」というのをご存知でしょうか?
「成功循環モデル」では、成果の質を高めるためには、行動の質を高めなければならないとされています。そして行動の質を高めるためには、思考の質を高める必要があり、思考の質を高めるためには、関係性の質を高めることが重要だとした理論です。 (原書とか読んでないので、違ったらぜひ教えてください)
このモデルをネットなどで読みながら、関係性の質がなんとなく好きなソーシャル界隈(?)の人たちは、ダニエル・キムの提唱に対して「良いこと言ってくれる人がいるな」と思ったわけです。僕も関係性の質が好きというか大切だと思うタイプなので、こうやってモデル化されると人に説明しやすくなって助かっております。
ただふと気になったのは、「成功循環モデル」はあくまで成果の質を高めるために、巡り巡って関係性の質が大切だと説いてくれているのではないかということ。そこをちょっと応用すれば、自分なりのチームとコミュニティの違いが説明できるのではないかと思ったのです。
つまり、チームは「成果の質」を探求するために「関係性の質」を取り扱うけれど、コミュニティというのは「関係性の質」を探求するために「成果の質」というものと向き合うのではないだろうか? という仮説です。
関係性の質が目的そのもので、それをよくするために、思考の質をあげ、行動の質を変え、成果の質は関係性の質を楽しむための一つの道具、というイメージです。
とある町の卓球大会の話をさせてください。
2つの隣接した町の卓球大会がありまして、一つ目のA町の方は強いチームです。卓球を真剣になさっている方が4人いて、毎週欠かさず練習しています。練習は常に本気で、社会人のサークルという範疇を超えている雰囲気でした。
一方で隣町B町のほうはというと、真剣ではないというと語弊がありますが、みなさんがのびのびやっていて、年齢幅も多様でした。小学生づれのお父さんから、70代の方までいて、少しずつ体を動かしながら、仲良くやっています。
そんな中で、二つの町の合同卓球の試合がありました。結果はA町の圧勝です。B町では団体戦で5人中1人だけが勝てたくらいです。チームとしての習熟が全然違うので当然といえば当然です。
しかしながらその年の暮れ、年末卓球大会というのが両町でそれぞれ行われると、A町では人が集まらず、10人くらいの参加者がいるだけ。一方B町では、40人を超える人が集まって、小学生の部も、60代以上の部も開かれて、なかにはラケットの代わりにスリッパでのハンデ戦もある始末です。
A町はチームとしての卓球をされているなという感じで、B町のものがコミュニティとして卓球を楽しんでいる感じがします。もちろんB町の人も、大会では一つでも多く勝とうと成果にこだわっていますが、それは真剣なほうが試合自体が楽しいからです。
もう一つ、僕が居た島根県の海士町のとある神社の宮司さんのお話をさせてください。その方が「よい祭りの条件ってわかります?」とおっしゃるので、考えてみて、「わからないので教えてください」とお伝えすると、「何がよい祭りかは私もわかりません(笑)」と仰いました。
でもですね、祭りができるということは良い地域なのだと思うのです。
と続けます。
よい地域には3つ、条件があって
1つ目は、そもそも人がいるということ。人がいないとそもそも始まりません。
2つ目は、そこの人が集まって何かしようという話ができる関係があること。
3つ目は、若い人がいて、未来があるということ。年寄りだけでは祭りができませんからね。
そんなことを言うのです。なるほどなーと。そんな宮司さんの最後の一言がこれまたよくて、
だから何がよい祭りの条件かはわかりませんが、よい祭りができるというのはよい地域だなということだと思います。祭りというのは地域の通知表のようなもので、通知表の成績をよくするために勉強を頑張るんじゃなくて、勉強を頑張っている成果を測る指標として、通知表というのがあるんですよね。
なるほどなーと思ったのです。この時くらいから僕は「物事には主従関係というのがあって、何が主(目的)で、何が従(手段)なのか、というのはとても大切なことだな」と思うようになりました。
長く続けるためにこそ、そのプロセスを楽しめる関係性を。
もうちょっとだけ、ダニエル・キムさんの図の考察を深めますと、こんな風に区切っても面白いと思っていて、僕たちは目に見えないものを探求するために、目に見えるものを一つの物差しとして変えていくことができるともいえます。
さらにこうやってきると、私たちが生きる現実は、他者との協調や同調、競争だったり資本原理だったりを複雑に絡ませながら個人ではコントロール不能な関わり合いの中で揺らいでいます。
成果や関係性といったものは、自分一人の努力ではどうにもならないことが多々あります。
一方で、思考と行動は個人個人が自分で意思を持たない限り変わりません。そういう意味では関係性も成果も、個々人の思考と行動の束の結果なので、それらを変えるにはどうしても個々人の変化が必要とされます。
この二つの区切りからこの図を考察すると
となります。
3.11までの僕は、どちらかというと、成果を目的として、関係性を手段だと思っていたように思います。持続可能な未来というものに強い危機感があったので、どうして早く「成果=持続不能な現状の打開」を求めて人が動かないのか、常に苛立ちがありました(自分でもすぐにペットボトルは買ってしまうのですが・・・)
成果を求める心は、けっこう短絡的で、早く結果がほしくなります。それに慣れてくると、結果だけを求めてその道のりを楽しむ力は弱くなっていきます。
TVゲームをする方には分かってもらえる気がしますが、大人になってくるとゲームをしている途中で、困難に直面すると、すぐに攻略サイトなどをみて間違えのないように進めようとしてしまいます。しかしもうそこには子どもの頃のような、あちこちヒントを探してやっと解けた! みたいな達成感はありません。
持続可能な未来をつくるには、持続可能に到るまでの「プロセスを楽しむ」心が必要なのではないかと思うのです。そしてプロセスの楽しさをくれるのがまさに「関係性」なのだと思うのです。
結果だけを求めていると人生の視界が狭まるのだと思うと、結果ではなくプロセスを楽しむという意味でも、関係性をちゃんと主にしていて生きる、そういう生き方を探求するための実験場として、それぞれに学習するコミュニティがあると素敵だなと僕は思うのです。
人をくじけさせるのも人だけど、人を勇気付けるのも人なのだなと、つくづく。