こんにちは、信岡良亮です。連載「学習するコミュニティに夢を見て」、前回は「学習とは何か」について掘り下げてみたので、今回は「どこに向かって学習するのか?」について掘り下げていきたいと思います。
「学習するコミュニティ」というものを自分なりに翻訳すると「未来への自治率を高めるための人のつながり」となるのだと思います。
自治という言葉、普通の人はあんまり考えない気がしますが、僕にはどうにも大事な気がするのです。人は誰でも自由への欲求があって、その欲求が自立と自律を経て、自治に近づいていくというようなイメージを持っています。
自由になりたいですか? という問いかけならだいぶ馴染みやすいかもしれません。
自由という日本語だと少し掴みづらいので、英語のフリーダムとリバティという言葉のほうでイメージを明確にできればと思います。
個人の自由はフリーダムに近い感覚で、日本語にすると「〇〇からの自由」というらしいのですが、縛られていたものから自由になること。反抗期的な衝動は、フリーダムへの衝動。
一方でリバティというのは、好きな責任を引き受ける自由で「〇〇への自由」。僕はこの言葉というか考え方がとても好きなのです。例えばサッカーの日本代表になる自由(選択肢)をほとんどの人は持っていない。その責任を背負えると多くの人が認める時に初めてそれが選択可能になるという点で、それは獲得した自由と呼べるのだと思います。
経営学という視点から同じようなことをピーター・ドラッカーという人が言っていて「(組織において)自由とは、自身の貢献は何かを自分で定義すること」という言葉がそれです。好きな責任を背負った分だけ、人は自由(リバティ)を得られるのだというのです。
自立、自律、自治・・・
僕は大学生くらいから就職というものを意識し始めて早く自立したいと思うようになりました。自立というはきっと、ハード面というか社会的に一人前として自分の身の回りのことを自分で処理できることだと思います。
ちゃんと稼いでちゃんと生活する。
これが働き始めると想像以上に大変で、親とか実家というものにどれだけ助けられていたかを思い知りました。
自律というのはどちらかというとソフト面というか心の状況なのだと思っていて、自分で自分のルールを決めて、それを実行できるという部分。
会社をやめてフリーランスになったタイミングがあったのですが、自律って本当に難しい。そもそも毎朝ちゃんと起きることが自分一人だとできないので、友人と朝一で用もなくミーティングするみたいな仕組みを作って、自分の働くペースを自分でつくるというのも工夫が必要なのだと学びました。
自分で決めたルールを自分で守る、自律することの難しさは、自分のたるんだお腹をみるたびにいつも実感してしまいます。
では、自治ってなんだろ?
自分で治める。
集団にとっての自立と自律のことを、自治と呼ぶんだと僕は思っています。
個人の自律という川のさらに向こう側に、自分たちでの自治という海がある。
自分たちで決めたことを自分たちで結果の責任を追うこと。
自分(たち)のことをみずから処理すること。
自治・・・。言葉の意味は知っているものの、「体感としてどれくらい僕らは自治しているだろう?」というと、この問いはけっこう深いものがあると思うのです。
ちょっと自由から自治までの発展を物語っぽく語ってみますね。
自分の部屋を親から与えてもらったとき、一つ自由になったという感覚を持っている人もいるかもしれない。親元を離れて1人で暮らすようになって洗濯やご飯がこんなにも面倒で、生活していくということはたくさんの仕事によって保たれてたんだなと思い知る。
さらに自分で稼いだお金で生活をやりくりする社会人というものになって、生きてくって大変だなと思う。その一方で自分で稼いだお金だから好きに使っていいという「好きなだけ選択できる自由」に自治と自律の喜びを感じたりする。
では、自治はこれで終わりだろうか? 自分の人生を自分で設計していると言えるだろうか?会社のよくわからない出社義務に追われて満員電車にのっている人の「人生の自治率」はどんなものだろう? 保育園に落ちて職場復帰ができない母親にとって子どもとの関係性は「保育園の抽選に落ちた場合諦める以外に選択肢がない」のは自治と言えるだろうか?
もちろん誰もが起業して成功してお金に縛られないということは今の所難しいだろうし、待機児童の問題も政治が変えようとしないことにはどうしようもないという気持ちもなくはない。しかし自分の家から一歩出ればあとは誰かがつくった制度に「従うか、ルールを破るか、諦めてフテ寝するか」の3つしか僕らに選択肢はないのだろうか?
働き方も暮らし方も、社会との関わり方も、誰かがルールをつくってくれる、変えてくれるまで耐える以外に選択肢がないのなら、人生は忍耐力の勝負になってくる。僕はそういうゲームには全くもって勝てる気がしない(笑)
ユニバーサルスタジオジャパンにお気に入りの映画のアトラクションがないならば、神様に祈ったり短冊に願いごとを書くのでなはなく、企画書を書いてUSJに送りたい。
自分が生まれ育った町の未来の景色を、ちゃんと自分たちで創造したい。
東北の震災のあとに、あちこちで実施された避難訓練にあまり意味を感じなかったから、大学生の友人と2人で、本気の避難訓練キャンプとして5泊6日の自主的避難訓練をしてみたこともある。
東京で震災が起きて物が届かなくなったらどうしようと不安に怯えるのではなく、宮城に親戚の家があるのなら、そこまで自転車でいける体力だけはつけておきたい。さらには地図だけでそこまでいけるかどうかだけは先に実験しておきたい。 自分たちの住んでいる町の未来の姿や教育のあり方を自分たちで考えたい。考えたことすべてをただ貫きたいという意味でなく、どんな考え方で現状の仕組みができていて、未来をどうしようとしているのか、ちゃんと学びたい。
そんな小さな実験の積み重ねでいいから、未来の自治率というか何か起こった時の選択肢を1つでも増やせる生き方がしたい。
そういう実験者のことを、学習する人と僕は呼びたい。 そんな風に未来への自治率を高める学習する人と一緒に、僕は毎日を未来に向けた価値ある実験に変えていきたいのです。
学習、勉強、教育には違いがある
学習する人・・・ 勉強できる人ではなくて。
その学習と勉強というか教育とかとの違いを考えてみると
学ぶことって好きかという問いと、勉強は好きかという問いは別の問いだと最近ずっと考えています。上の表にその違いを表してみました。
一番の違いは「学習」は学び手自身が正解を決めていい場であり、教育は学び手の学習欲求よりも、教える側の「こうなってほしい」が主になりやすいというもの。
これは教育に対して否定的という訳ではなく、社会常識や文字の読み書きなど早く正解を覚えたほうが楽しいし、生きていきやすくなると思います。でもそれはあくまで学び全体の一つの形でしかなくて、人はもっといろんな形で学べるし、学んでいくんだと思うのです。
学びと教育の違いだけでなく遊び、労働まで含めて表にまとめた理由は、遊びからも労働からも人はたくさん学ぶと思うからです。ただ学習は「成長すること自体」が目的であるのに対して、遊びや労働は成長自体が副産物としてあるイメージを僕は持っています。
きっと、遊びから多くのことを学んだという人、仕事から多くのことを学んだという人がたくさんいることでしょう。僕も教育からよりもずっと多くのことを、その2つから学んでいるタイプです。人生で大切なことの半分は漫画から学んでいるかもしれません。遊びや仕事から多くのことを学んで、人として豊かになって、人生が楽しく過ごせるというのはいい人生だなと思います。
学習というのは、この未来を自治したいという欲に紐づいている
ちょっと寄り道になりますが、人生の楽しみ方が人によって様々なのだとします。例えばAタイプを自由人(寅さんのような)として「その日その日をご機嫌に過ごして、制約が少ないことを楽しいとする」人もいます。
Bタイプを安心人として「日々の喧騒の中で危険が少なくほっと紅茶を友人と飲めること」が幸せというタイプ。
Cタイプを「真理を追求して、社会の仕組みを理解したい」というような研究者。
Dタイプを表現者として「芸術やものづくりを通して自己表現ができること」が幸せな人。
そしてEタイプが「自身(たち)で未来をつくっていけること」が幸せな人、未来自治者とでも呼びましょうか、そんな人もいると思うのです。
僕自身の中は、未来自治欲が35%、研究欲が25%、表現欲20%、自由欲10%、安心欲10%とかそういう構成比率になっていて、未来を自分で自治したいという欲が強い。
なぜこんなことを書いたかと言うと、学習というのは、この未来を自治したいという欲に紐づいているというか、こんな未来をつくりたい、こんな自分になりたいという想いを原動力に動く感覚があって。
つまりは目的があるってことなのですが、まっすぐとまでは言わないまでもある程度、(自分のほしい)未来へと目的に向かって右往左往するプロセスのことを学習と僕は位置付けているのだと書きながら改めて思いました。
そして自分1人でつくれる実験の枠を超えて、みんなとだからつくれる未来実験というものがあると思っていて。それは「公・共・私」という3つの役割の違いというのをずっと考えていてそこから来るものなのだけど、それは次回のコラムで書くことにしましょう。
人をくじけさせるのも人だけど、人を勇気付けるのも人なのだなと、つくづく。