いつの時代でも、伝統を守るというのは並大抵のことではありません。何を残し受け継いでいくのかを見定めながらも、移りゆく需要に応じて技術を革新し続ける必要があるからです。
福島県双葉郡浪江町の大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)も、そんな課題に直面していた伝統工芸のひとつ。
東日本大震災と福島第一原子力発電所事故に見舞われ、これまで根ざしてきた土地を離れざるを得なくなりました。2017年3月にようやく一部で避難指示が解除され帰還が可能になりましたが、多くの窯元は工房や原料を採掘する山に入れない状態が続いています。
長い避難生活の間に浪江町以外で作陶を再開し、その地域に根付いている窯元も多い中、大堀相馬焼にたずさわる人たちはどのように伝統を受け継ごうとしているのでしょうか。
大堀相馬焼とは
大堀相馬焼は300年以上の歴史を持つ焼き物で、きれいにヒビが入った青磁と馬の絵が特徴です。地元の人たちに深く愛され、江戸時代から連綿と受け継がれてきました。
大堀相馬焼に関する最も古い記録が残っているのは江戸時代のこと。当時の相馬藩が財政を支えるために焼き物づくりを奨励し、浪江町大堀地区は、江戸末期には100軒以上の窯元が並ぶ東北随一の焼き物の産地になりました。
浪江町大堀地区の焼き物がこれほどまでに発展したのは、当地で良質な材料が採れたことが大きな要因です。中でも釉薬の原料である砥山石(とやまいし)は他の地域では採れない石。砕いて灰を混ぜるだけで青磁の釉薬をつくることができる非常に便利な石でした。
通常、青磁の釉薬をつくるには、長石、石灰、硅石など複数の材料を配合する必要がありますが、その手間がいらない砥山石を産出したことが、大堀を焼き物の一大産地たらしめた一因だったといえます。
江戸時代中期頃からは馬をモチーフにした絵が描かれるようになり、次の明治時代には持っても手が熱くならない二重焼きという技法が発明される、というように、大堀相馬焼の伝統は時代ごとに新しいものを加えながら築かれていきました。
その伝統は大正、昭和、平成と職人の手で受け継がれます。大堀相馬焼協同組合理事長の小野田利治さんも江戸時代から続く窯元の家に生まれ、高校を卒業から約36年間、大堀相馬焼をひとすじにつくり続けてきました。
震災前、多くの窯元が集まる浪江町大堀地区とその周辺には約30軒の窯元がありました。
大堀地区の中心には「陶芸の杜おおぼり」という施設があり、常時展示販売や陶芸体験教室が行われるとともに、5月の連休には大せとまつり、11月には登り窯の窯開きを開催されていました。
大せとまつりは、各窯元が新作をはじめ、さまざまな作品を展示販売する企画で、県外からもお客さんが訪れていました。逆に窯開きは地元の人たちが中心のイベントです。近くの小中学校や一般の方が陶芸教室でつくった作品をこの日に焼いたりしていました。
避難から再開へ
東日本大震災で浪江町は震度6強の揺れに襲われています。福島県の沿岸部に位置しているため、津波による壊滅的な被害を受けました。また、震災翌日の3月12日には、政府から浪江町に対し避難指示が出されます。
避難命令が出た時は1〜2週間で帰れるだろうと思っていましたが、2ヶ月ほど経った5月に入り、ようやく一時立ち入りが認められました。戻っても位牌や写真を持ち帰るくらいで、家の中の片付けもあまりできず、余震も続いていたので、行くたびに壊れているものが増えていく感じがしました。
先の見えない避難生活が一年近く続くなかで、小野田さんはまず、自身の活動再開に向けて動き出します。
ずっとやってきたことをやらないでいると手が物足りないというか、やり方を忘れてしまうんじゃないかと不安に思ったりしていたんです。そこではじめは、以前から陶芸教室をやっていたいわき市に仮の工房をつくることにしました。知り合いの人が土地を貸してくれるという話がまとまり、2012年の7月に新しい工房が建ちました。
小野田さんは震災前から陶芸教室に力を入れていて、福島県内のあちこちで教えていたそうです。震災後も教室をやってほしいという要望が多く、これはやるしかないなと思ったのだとか。
地震で食器が壊れてしまった人も多くて、せっかくなら自分でつくった思いのこもったものを使いたいと思っていたんじゃないでしょうか。だから、頼まれれば避難先でもどこでも教えに行きました。
自分の工房を建てるのと並行して、大堀相馬焼協同組合の拠点の再建にも乗り出します。
当時理事長だった半谷秀辰さんを中心に、近所に避難している組合のメンバーで話しあって、共同作業場をつくることになりました。
中小企業基盤整備機構に補助金をもらって二本松市から土地を借り、2012年の7月に「陶芸の杜おおぼり二本松工房」を開きました。震災で伝統を断ち切る訳にはいかないという思いがあったので、再開できたのは嬉しかったです。
再開にあたり、もちろん困難もありました。その最たるものは砥山石が使えなかったこと。
砥山石は線量が高い山の中にあるので取りに行くことができません。そこで、組合で会津のハイテクプラザに同じような釉薬ができないか開発を依頼したところ、6種類くらいの原料を調合すれば似たクオリティのものができるとわかりました。二本松工房でも焼成試験を行なった結果、近い仕上がりの焼き物ができあがったので、今はその釉薬を使っています。
それでも色合いが少し違ってくるので、昔から大堀相馬焼を見ている人は昔のほうがよかったといいます。手に入らなくなってみて、砥山石がいかに貴重だったかとわかりました。
代用できる釉薬も手に入り、国から再開のための補助金も出たことを機に、避難先で作陶を再開させる人たちが増えていきました。これまでに9つの窯が、白河市、二本松市、福島市など「それぞれがたどり着いた場所」で再開しているそうで、小野田さんも2017年にいわき市から本宮市に窯を移転させました。
震災を乗り越え伝統を受け継ぐ
一昨年、2017年3月に浪江町の一部で避難指示が解除された際、大堀地区を含む西側(山側)の地域は解除の対象にはなりませんでした。
避難生活が長引く中で、約30軒あった窯元のうち再開しなかった窯のほうが多く、中には亡くなられた方もいるのが現状です。大堀相馬焼協同組合は状況をありのままに受け止めながら、伝統を絶やさぬよう新しい取り組みを始めることにしました。
県と協力して地域おこし協力隊を募集することにしたんです。
作陶の基本的な知識と技術があり、かつ大堀相馬焼を学びたい人たちを協力隊として募集したところ、現在3名が2つの窯元で働いています。
その方たちが実技を学んで地域に残ってくれるようなら、他の窯元でも受け入れを続けて、後継の人材を育成していきたいです。ゆくゆくは独立して自分たちの窯を開いてほしいですね。
「震災前は長男が継ぐのが当たり前という空気があった」という大堀相馬焼の窯元ですが、実は震災の数年前から継がない選択をする人たちも増えていく傾向にありました。
地域外から継ぎ手を受け入れるなんて発想は、震災前だったら生まれなかったと思います。跡継ぎがいなければ自分の代でやめるだけ。ところが窯元があちこちの避難先に分散したことで、続けていくために何をするべきか改めて考えるようになったんです。
そのおかげで地域おこし協力隊の受け入れも始められた。課題はいろいろありますが、震災があったから新しいことに取り組めたとも思っています。
外からの人材を受け入れ、新しい時代へと伝統を引き継ごうとしている大堀相馬焼。大堀地区に帰る目処はまだついていません。浪江町の伝統工芸としての今後をどう考えているのでしょう。
浪江町役場の敷地に道の駅をつくる構想があり、その一角に工房とギャラリーのある組合拠点をつくろうと町と協議しています。浪江町の伝統工芸として、やはり浪江に大堀相馬焼の拠点を置きたいですし、浪江から離れたままでいては、伝統工芸品として大堀相馬焼の名前を使い続けられるとは限らないというのもあります。
今再開してない方の多くは私より年上で故郷への思いも深いです。浪江に戻れるなら再開しようと思ってくれる人もいると思います。そういう方々が作陶できる環境を2年以内には整えたいです。
浪江町と大堀相馬焼のこれから
小野田さんが長年暮らしていた小野田地区は大堀地区のすぐ隣にあります。避難指示は解除されたそうですが、未だに「帰れない」という気持ちを抱いているのだとか。
あの事故以来ぷつんと切れちゃってるんですね、地元というか家と。帰るには家を建て直さなければいけないし、生活用品もすぐ買える環境ではないので生活はしづらいです。
帰りたい・帰りたくないではなくて「帰れないなぁ」というのが素直な気持ちです。だから避難先の本宮市に住んだまま、浪江に拠点をつくるつもりです。
浪江町では避難指示が解除された地区でも「帰れない」と感じている人は多いようで、2018年11月末現在で、浪江町の居住人口は870人、人口の約5%に留まっています。
また、2017年11月の調査では、「帰還したいと考えている」が13.5%、「まだ判断がつかない」が31.6%、「帰還しないと決めている」が49.5%でした。それでも小野田さんは浪江町に拠点をつくることに意味があるといいます。
10年先を見れば、だんだんと人は増えていくと思うんです。10年以内には大堀の「とうげいの杜」も再開できるんじゃないかとも思いますし。だからこそ今は一歩一歩着実にやっていこうと思っています。
まず組合の拠点を浪江に移して、戻って窯を再開してくれる人がいればしてもらって、別の場所で再開した人には浪江の拠点に通ってもらって。そうやって場所をつくり上げていく。みんな浪江に拠点があること自体に価値があると思っているので、協力してくれると思います。
2018年11月、震災後はじめて浪江町で「大堀相馬焼大せとまつり」が開催され、7つの窯元が参加しました。
他にも福島空港で「新作展」を開催したり、各地のデパートの催事に参加する窯元がいたりすることで、大堀相馬焼により多くの人が触れられる機会が増えています。大堀の砥山石を使って本来のかたちで焼き物をつくるにはまだ時間がかかりそうですが、新しい方法で大堀相馬焼は、伝統をつなぎ、さらに多くの人に知られ使われるものになろうとしています。
そして伝統を継ぐためには、新しい創作に挑戦することも必要だと小野田さんはいいます。
伝統を受け継いでいくには、それぞれが自分のオリジナルのものをつくらないといけません。
馬のモチーフは、江戸の後期に他の地域との差別化を図るためにトレードマークとして相馬藩の御神馬を描くようになったと言われていますし、二重焼きは明治時代になって藩による保護がなくなり、新たな販路を開拓する必要が出てきたことから独自の特徴として開発されました。
それが今では伝統になっているのです。私はパソコンがまるで駄目なので、そういう方面で新しいことはできませんが、手足が動く限りは一歩一歩着実に何かしら新しいものをつくっていくつもりです。とにかく一歩一歩前進して足跡だけでも残していけば、誰かついてきてくれるんじゃないでしょうか。
大堀相馬焼は日常で使う器です。日常使いの道具というのは見た目だけではなく実際に手にとってみないと、その価値はわかりにくいものです。みなさんもぜひ、大堀相馬焼に触れられる機会を見つけて、一度手にとって感じてみてください。
撮影:ひさみつまゆみ