みなさんは「郊外」や「公団住宅(団地)」と聞いて、どんな言葉を思い浮かべますか? 「無縁団地」や「独居老人」、「孤独死」など、ここ数年のニュースでは郊外に建つ団地に負の視点が向けられてきました。
また、日本創成会議・人口減少問題検討分科会の推計による「消滅可能性都市」にも注目が集まり、郊外は「消えゆくまち」だと感じている人も多い様子。
そんな中、アートを通して郊外ならではの暮らし方を再発見している活動が茨城県取手市にあります。それが「取手アートプロジェクト(以下、TAP/読み仮名:タップ)」。1999年から続く、市民参加型アートプロジェクトの草分け的存在です。
greenz.jpではこれから、「TAP」の活動を掘り下げ、郊外の魅力と可能性を探る連載「あしたの郊外」をスタートします。今回はそのキックオフとして、事務局長の羽原康恵さん、スタッフの小林えつさん、中嶋希実さんにインタビューを行いました。
アートが描く郊外には、一体どんな未来が待つのでしょうか?
取手アートプロジェクト(TAP)とは
「TAP」は、取手市内外の市民、取手市の行政、東京芸術大学による三者共同事業です。
近年は、美術家の深澤孝史さんが発案した、自分の得意なことを預けると誰かの預けた得意なことを引き出せる銀行「とくいの銀行」や現代美術家の北澤潤さん発案「SUN SELF HOTEL」など、まちに根ざしたさまざまな営みを生む試みをしてきました。
「サンセルフホテル」はgreenz.jpでも紹介し、大きな反響を呼びました。
現在の活動の中心は、アーティストが団地住民らと関わり合いながら新たな表現の可能性を拓く「アートのある団地」と、農と芸術の接触・融合による共創型の価値づくりを目指す「半農半芸」をコアプログラムに活動しています。
そして、2015年からはじまったのが、新連載と同名の、アーティストから寄せられた郊外の家や暮らしに対する提案を紹介し、時に実践しながらこれからの郊外を考えるプログラム「あしたの郊外」です。
まちに期待を寄せる市民の活動
そんな「TAP」の誕生は、郊外の歩みと重なります。
そもそも日本中の郊外には、1955年に大阪府堺市の金岡団地が建設されたことを皮切りに、最先端のライフスタイル空間として団地が浸透していきました。1960年代には団地への入居希望率が100倍を超える人気を得ます。
当時はまだ「町」だった取手にも、1969年に井野団地が建ち、憧れのライフスタイルを求める人々の転居が増大。翌年10月には取手が「町」から「市」に変わるほどの転居数で、1975年に戸頭団地も建設されました。
現在の井野団地。「SUN SELF HOTEL」の宿泊者がソーラーパネルを押して、まちを周遊している
郊外の団地に住み、都心で働く。そんな最先端のライフスタイルを趣向したものの、転居者の中にはただのベッドタウンとしての取手市には満足できない人々がいました。小林さんも、その一人。当時をこう振り返ります。
小林さん 住民の7割は転居者という感じでした。取手市には江戸・明治時代から住む「取手の人」もいて、江戸の人からすれば明治の人は「よそ者」、明治の人からすれば私たちは「よそ者」なんですね。
「取手の人」は満足していたと思うけど、私たちからすれば「競輪場と利根川しかない」というまちで「ここで何か新しいことをできないか」という気持ちが大きかったんです。
スタッフの小林えつさん
いつしか小林さんのような気持ちの転居者たちが一致団結。市外の同志も加わり、話題のアートギャラリーがオープンするとみんなで視察に出向くような行動力を持った文化志向の強い市民が集まることになっていきました。
現在の戸頭団地。壁面を彩るアーティストの作品は可愛い。毎日の帰り道を楽しくする
そんな折、1991年に東京芸術大学が取手校地を開設。小林さんたちの気持ちは「やっと取手市で何かできる!」と高ぶりました。しかし、と小林さんは続けます。
小林さん 東京芸術大学ができても、はじめはあるのかないのか、といった感じがしていたんですよ。
募るのは期待ばかり。この肩透かしの連続が、まちへの熱量を蓄えて、のちに「TAP」を継続する原動力になるとは。この時はまだ誰も想像さえしていなかったのです。
右も左もわからない混沌のスタート
「TAP」の誕生は、1999年。東京芸術大学の先端芸術表現科が取手校地に新設された年でした。そしてJR常磐線「取手駅」東口エリアの再開発が完了する年でもありました。
取手市の行政は、この再開発の締めくくりにあたり、新しくできた先端芸術表現科に作品設置を希望します。そのために準備されたのが、「ストリートアートステージ」という作品展示台でした。
小林さん 展示台といっても、何の変哲もないただの板。「はい、どう使いますか?」と投げかけられているような感じがしました。
そんな中、作品展示台に向けて先端芸術表現科が提案したのは、作品(モノ)の恒久的な設置ではなく、プロジェクトの実施でした。
ストリートアートステージ
1999年7月には、市民により実行委員会が設立され、東京芸大と取手市の三者による事業がはじまります。同年12月、あるテーマの下に全国から作品プランを募集する「公募展」と、取手市在住作家の活動を紹介する「オープンスタジオ」を同時開催しました。
小林さん 同時開催は無謀でしたよ。もうメッシー(とっちらかった)というか、混沌というか、何がなんだかわからない私たちがやっているわけですから。今振り返るとぐちゃぐちゃでした。
こうして右も左もわからない中はじまったのが、その後、隔年で「公募展」と「オープンスタジオ」を11年間も実施し続けることになる「TAP」なのです。
活動を継続させた市民の声
「公募展」と「オープンスタジオ」を開催した11年間で「TAP」は主に3つの成果を残しました。
「若手作家のキャリアアップ」
「取手市在住作家の増加」
「アートマネジメント人材の育成」です。
ご自身も2005年から「TAP」に参加した羽原さんがその軌跡を教えてくれました。
羽原さん 「公募展」での作品発表を経て、いま現代アートの中堅アーティストとして活躍している作家たちが数多くいます。一方の「オープンスタジオ」では、直近の2009年開催時、52件125組の作家が取手市内近隣で参加しました。
そして、当時は日本に少なかったアートプロジェクトの運営を経験できる現場として、実践型トレーニングプログラム「TAP塾」を開始し、多くのアートマネジメント志望者を育てていきました。
事務局長の羽原康恵さん
とはいえ、成果ばかりではないと続けます。
羽原さん フェスティバルでは、まちのいろんなところを使っても、終わったらまた何もなくなります。単年度形式の連続では、体制は疲弊するし、事業はマンネリ化するし、固定化する。当時の実施形態のマイナス面を意識しはじめていたところに、「TAP」自体がなくなるかもしれない危機的事態が起きました。
公募展の様子
そして活動11年目の2009年11月、「TAP」のキーパーソンだった東京芸術大学の渡辺好明教授が亡くなり、大学も行政ももう潮時なのではないか、という空気になりました。そこに待ったをかけたのが市民だったのです。
羽原さん ここまで続けてきたものをなくしたくない、という市民の総意が取れたんです。どうせなら、ドラマティックに変えて、フェスティバルではなく、取手市という土地の日常に寄り添うプロジェクトにしようと話し合いました。
まちに根ざすアートプロジェクトへ
2010年「TAP」を支えていた市民有志が中心となってNPO法人格を取得します。実行委員会形式で、単年度の事業決算、計画を執行して翌年また振り出しに戻る状態から、中長期的視野で取り組むプロジェクトに変わるためです。
オープンスタジオの様子
羽原さん フェスティバルではオンとオフができてしまいます。そうではなく、ずっとオンの事業をやってみよう、とトライアルがはじまりました。
法人化を機に「TAP」では2つの事業を核にすえました。「アートのある団地」と「半農半芸」です。
羽原さん 「アートのある団地」では、何を仕掛けていくのかをアーティストと一緒に計画します。それを住民に投げかけると返事があって、アートプロジェクトがローリング(展開)していきます。そういう仕組みの下、複数のプロジェクトが並走しているんです。
「半農半芸」では、泥臭いことをしていますね。土に関わることと自身の表現活動とが切り離せないアーティストにパートナーになってもらい、綿花やブルーベリーなど植物を育てつつ、活動してもらっています。
「アートのある団地」の様子
「半農半芸」の様子
また、コアプログラムの始動と重なるように「TAP」に関わる顔ぶれにも変化が現れてきました。生まれも育ちも団地ルーツを持つ世代の台頭です。スタッフの中嶋希実さんもその世代でした。
スタッフの中嶋希実さん
中嶋さん ちょうど暇をしていたので、「地元で何かしようかな」と検索したら、以前から知っていた「TAP」が出てきました。名前は聞いたことがあるけど、よくわからない存在だったし、アートも全然詳しくなかったんですが、事務局に行ったら、この二人が迎えてくれたんです。
その時、見せられたのが「SUN SELF HOTEL」でした。これがアートなんだって言われた時に「絵、描いてないぞ」って思いました(笑)
そんな折、満を持してはじまったのが、アーティストが生み出す“ありえない”暮らしを提供・販売する「取手アート不動産」と「あしたの郊外」でした。
郊外なら不思議なクリエイティビティに溢れる暮らしをはじめられる。そんなアートのある暮らしを発信している「取手アート不動産」
中嶋さん 「アーティストと住宅や暮らしを結びつけよう」と最初に「取手アート不動産」がはじまりました。
「取手アート不動産」では、実際に空き物件にアーティストのアイデアを導入していくのですが、どうすればアーティストからのアイデアを募集できるのか思い浮かばなかったんですね。
そこでアーティストに「アイデアを一緒に考えませんか?」と投げかけたくて「あしたの郊外」がスタートしたんです。
これからの郊外の暮らし方をアーティストと考えていく「あしたの郊外」
羽原さん だから2つは表裏一体のプログラムなんです。どちらも国土交通省の事業としてはじまったのですが「アートのある団地」を知ってくれていた国交省の方から「取手市には既にソフト事業がある。次はハードに取り組みませんか?」と誘われました。
建築の専門性もなく、私たちだけではとても手に負えなかったので、リノベーションの第一人者・馬場正尊さんが代表を務める「Open A」と一緒に取り組んでいます。
アートにゴールは必要なのか
1999年に誕生し、2016年で17年目に入った「TAP」。ここまで変遷をたどってきましたが、その過程は決して用意周到なものではなかったと3人は言います。
ここからは対談形式で、改めて3人に、この16年間の手探り感を聞いていきましょう。
新井 地域おこしやまちづくりは、明確な成果を求められがちです。一方で、アートは作品をつくる過程で予期せぬ魅力をまとっていくことが重要な魅力のひとつですよね。
だから「まち×アート」という取り組みをすると、アートがツールになってしまうような難しさを感じます。実際に取り組まれてきたみなさんはいかがでしたか?
小林さん なんでしょうね。その都度、何かをやりながら探し出しているんですよ。
羽原さん そもそも「アートのある団地」「半農半芸」だって、2010年の最初からキーワードがあったわけじゃないですから。
小林さん こうやって文章にして論理立てて紹介されると計画性があるようにも見えそうですが、団地と関わるきっかけだって、2008年の「公募展」を開催する時、取手市の地図を広げて今まで開催されてきた場所をチェックした結果「団地に入ってみない?」って話になっただけなんです。
それまでは、川とか、シャッターの降りた商店街とか、人のいないところ、使われていないところばかりで開催していました。だから、生き生きしたところに入ろうじゃないかって。
【対談こぼれ話1】「タレントって言うのかしら。郊外には、日本の中心をつくり上げてきた人たちが住んでいる。だからものすごい人が実は多いんですよ」(小林さん)
羽原さん その団地での「公募展」がいまの「アートのある団地」につながりました。
この「アートのある団地」のプログラムも、団地で「公募展」を開く時に会場になる団地で子育てをしたら楽しそうだという夫のすすめで、私の家族が団地に引っ越していたから実現しいてる部分は大きいですもんね。
小林さん だから「あしたの郊外」ができた時も、今まで取り組んできたことは、これからの郊外の暮らし方をつくる活動だったのか! と思いました。ずっと続けてきたことは「あしたの郊外」だったのかって気づかされたんです。
新井 おもしろい。ゴールを決めていたのではなく、アクションが先にあって、その結果、見えてきたキーワードがプログラムになり、今の活動にたどり着いたんですね。
実績はゴールよりプロセス
新井 ゴール設定をせず、動きながら探し出していけた要因はなんでしょう?
小林さん やっぱり「自分がやっている!」と誰も言わなかったことですね。間違いなく、芸大のアートに関わる先生方は羅針盤になってくださった。なのに、私たちのような素人の市民集団が前に出て、市民がつくり上げるプロジェクトだというスタンスを貫き通せるようにしてくれたんです。
羽原さん あとは行政の力も大きいです。最初の10年が寛容性をつくってくれて、取手市が本当に現場に任せて、動いていく活動をいい意味で野放しにしてくれました。だから、いろんな立ち位置で関わってきた方々が手を合わせて一緒につくってきたという自負を持てているんです。
そのおかげもあって、きっとこの先もっと面白くなるはずだ、という予感を強く感じてこられました。
【対談こぼれ話2】「アートって定まらないじゃないですか。何かわからないからこそ、いろんなモチベーションを持った人が関わりやすいんです」(羽原さん)
小林さん その予感の強さは本当にすごい。
羽原さん 「ただ作品を見せるだけ」のアートプロジェクトには限界があって、「次の形のアートプロジェクトってなんだろう?」と考えてきたんです。だから「アートのある団地」のように、そこに受け取り手が必ずいて、アーティストもいて、マネジメント側が環境をつくっておける、そんな今までにない形に挑んでいます。
小林さん 合言葉みたいに「本当のアートプロジェクトをつくろう」って話し合ったもんね。
羽原さん そうして、住まいや生活にアートで切り込んでいくことができるようになったんです。
新井 「取手アート不動産」や「あしたの郊外」から、今までどんな成果が生まれましたか?
中嶋さん 実際に物件として流通したのは6、7戸です。
でもアーティスト的なアイデアでリノベーションが行われたとか、アーティストによる暮らしの提案を受け入れるオーナーが現れたとか、そういう起こったこと自体が実績になっています。
【対談こぼれ話3】「取手市には住みながら家をへんてこに改装したり、展覧会を開いたりしている人がいます。でも『そういう人もいるなぁ』くらいに思えるんですよ。他所だとクレームになるようなことですよね」(中嶋さん)
羽原さん 国交省の方からも、物件実績よりメニューをどんどん増やしてくださいという要望をいただいています。今後メニューをどう生んでいくのか、補助事業の期間が終わるこれからが正念場です。
自分の感性を大事に生きたい人々へ
新井 今回、greenz.jpと組んで連載を行う理由は?
羽原さん 郊外ってそのままにしておくと、ずっとシュリンク(縮小)していってしまうでしょう。これからの郊外は、人が減っていって、全部が見慣れたロードサイド型の町並みで、文化も特色もない。そんなレッテルが貼られてしまっています。
一方でアートプロジェクトは、歴史的な文脈が深い場所、例えば、里山地域や海岸沿いといったような、ある程度年月を重ねている旧来の集落に入ってアーティストが歴史を読み解いた作品を見せていき、その土地やそこに住んでいる人の魅力を伝えるという形で開催されているケースが多いです。
【対談こぼれ話4】「団地の特性は、ほぼみんながルーツの異なる“よそ者”。だから、よそ者に対して寛容なんです」(羽原さん)
羽原さん でも、実は郊外だからこそ生まれつつある経緯や蓄積があって、それを私たちは扱ってきました。郊外のアートプロジェクトだったから、リアルタイムで住んでいる人と共有しながら、暮らしの文脈を今生きている人たちとつくってこられたんです。
そのように自分たちが住んでいるところに関与できる、ということをgreenz.jpで発信できたら、自分の感性を大事にして生きていきたい人々に知ってもらえて広まっていくんじゃないか、と期待しています。
【対談こぼれ話5】「アートに対する欲求って、あまねくすべての人が持っていると思うんです。そのフックに引っかかった時、人が水を得た魚のように生き生きするのをみると、こっちも『やられた!』ってうれしくなります。アートプロジェクトの面白さですね」(羽原さん)
中嶋さん 何も「郊外に住んでください」ということじゃないんです。
私自身も最初「あしたの郊外」って聞いた時に、なぜか夕焼けをイメージしていました。でも、どうしてそんな寂しい風景を思い浮かべたんだろう。取手市には、都内のワンルームで生活するのと同じ金額でもっと広い住まいで楽しく暮らしている人たちがいるのに。
家で畑をしながら、東京で働く暮らしもできるんですよ。
小林さん その豊かさを郊外に住んでいる人自身が忘れてしまっているのかもしれないね。
中嶋さん だから、この連載を通じて「そういえば、あったね」って選択肢のひとつとして郊外のことを思い出してくれたらそれで十分!
ぼく自身「TAP」の活動に心惹かれたのは、アートだからこそ生み出せる想定外の未来に希望の光を照らしたいからなのかもしれません。
その希望は、伝統文化という言葉があり、伝統芸能と呼ばれることはあっても、伝統芸術と言われることがないこの国で、まだまだトップアーティストや昔の画家にしか注目が集まらないアートというジャンルだからこそ、新しい歴史を拓くための余白を残しているはずだ、という妙な確信でもあります。
取手市では一体、どんなアートが生まれ、アーティスト活動が行われているのでしょうか。これからはじまる連載「あしたの郊外」をどうぞお楽しみに!