原産地は中南米。さまざまな神話にも登場し、「スパイスの女王」と呼ばれている植物をご存じでしょうか。
正解は、バニラです。そう、アイスクリームなどでおなじみのバニラは、味を整える調味料ではなく、香りを楽しむためのスパイスの一種。あの甘く芳醇な香りには、人の心を落ち着かせるはたらきがあり、実際バニラの香りを嗅ぐと、セロトニンなどの幸福ホルモンが分泌されるそうです。
もともと中南米の熱帯林で自生していたバニラは、貿易によって海を渡り、欧州の貴族たちに珍重され、いつしか高価なものとなりました。現在も日本国内で流通するバニラは、ほぼ100%輸入品です。しかし、実はもう間もなく、変化の時がやってこようとしています。
3年前から鹿児島県の奄美大島で栽培されてきたバニラが、今年2025年、はじめて花を咲かせ、実りを付けたのです。静かに、しかし確実に始まった国産バニラの黎明を見届けたく、奄美大島を訪ねました。お話をうかがったのは、「AMAMIバニラファームカフェPole Pole(ポレポレ)」の代表・林 晋太郎さんです。
農園のはじまりは3年前
バニラという植物の特徴
約2反(20アール)の農地に、5棟のハウス。ハウスの屋根に掛けられているのはビニールではなく、遮光シートでした。南国の直射日光を和らげた空間には、大人の顔あたりの高さに揃えられたツル性植物のバニラがずらりと並んでいます。
林さん 5棟のハウスで合計1,700本のバニラを栽培しています。この場所をお借りして苗木を植えたのは3年前ですが、バニラは栽培から開花までに早くても2〜3年を要する植物なので、今年はじめて第一号の開花が確認できました。今は開花時期を終え、バニラビーンズと呼ばれるサヤができたところです。
学術的には、胡蝶蘭の仲間。4〜6月頃に開花し、人工授粉を行うことで、1箇所に10〜20本のサヤが実ります。取材時にもたわわに実っていましたが、香りは全く感じられませんでした。
林さん バニラは葉っぱもお花もまったく匂いがないんです。このままサヤが黄色くなるまで数ヶ月間熟成させてから収穫します。年末頃ですね。収穫したらキュアリングと呼ばれる特殊な加工をし、そこで初めてあの香りの成分が出てきます。ですので、この第一号がバニラビーンズとして世間に出るのはまだ少し先、おそらく2026年の春頃です。
キュアリングとは、キュア(cure、治癒)のこと。加温して、表面が少し火傷した状態になると、バニラは自ら治癒するためにバニリンという香りの成分を生成するんです。キュアリングにはいろいろな手法があるのですが、いずれにしても酵素誘導と呼ばれる作用を起こし、その後、紫外線の熱を利用してバニリンを生成させていきます。最後はサヤが黒くシワシワになって、バニラの香りがしてきます。香りの成分は、中のシードではなく、サヤの方で生成されるんです。
バニラの茎や葉っぱは張りのある表面と、やや重さを感じるものがありました。林さんに聞くと、「表面が固いため、虫に食べられることもない」とのこと。また、割るようにして見せてくれた葉っぱからは、内部に蓄えられていた水分がポトポトと溢れ出てきました。
林さん お水を吸う力が強いわけではないんですが、ラン科特有の気根(きこん)が節目から伸びています。気根は樹木に着生したり、空気中からも水分を獲得して、体内で蓄えています。もともと亜熱帯の植物なので、日照りが続く時でも生き抜けるのはそのおかげですね。むしろたくさんお水をあげると腐ってしまうので、私たちも3年前に苗を植えた時以外は水をあげたことがありません。
また根元が元気に生きていれば、上の方の葉が、例えば台風などでポキンと折れてしまっても、脇芽を出して再生します。そうやって20〜30年は生きることができる、ものすごい強さです。
おそらくこの強さ故だと思うんですが、こんなに苗があってもお花が咲くのは1日に少しずつ、それも全て一日花(いちにちばな)です。普通の植物は一気に咲いて、たくさん虫を呼んで、できるだけ受粉させようとしますが、バニラは逆。朝の7時に咲いて午前中には寿命を迎えてしまう。私たちはその間に受粉作業を行います。それも雄しべと雌しべの間にふたつを隔てるように弁があって、一つひとつ取り除くことが必要なので、自然受粉はほぼありえません。これはきっと、生命力が強すぎるが故の、彼らなりの進化の形なんじゃないかと思っています。
「でも草刈りは大変ですよ。奄美は本当にもう、刈った次の日には草が伸びてるようですからね」と言う林さんが、「現地のやり方を参考にしている」と見せてくれたのが、サトウキビのマルチング(畝の表面をカバーすること)でした。
林さん サトウキビを使用している地元の食品事業者さんから、搾った後のサトウキビを融通してもらっています。役割は3つあって、まずひとつは、多少ですが草の発生を抑えられること。それから土の温度と水分を一定に保つこと。そして3つ目が、先ほどの気根を守ることです。バニラの気根はそれぞれの場所で張り付き、ツタを安定させる役割もしているんですが、着生したら水や空気をできるだけ吸えるように、細毛根 (さいもうこん)を出すんです。吸収面積を増やすために、分岐するんですね。ただ、むき出しの土に着いてしまうと、乾燥によるストレスで根が死んでしまうことがあるため、それを防ぐ役割としてマルチをしています。
林さん この時、農業資材としてよく使われている黒いビニールマルチをかけてしまうと、そこに触れた気根は熱で焼けてしまうので、天然資材であるサトウキビを使っています。これは、タンザニアのプロジェクトで学んだノウハウですね。
「タンザニア」。林さんが「現地」と呼んだ場所です。それは、林さんとバニラをつないだ、とても重要なキーワードでした。
運命的な巡り合わせ
故郷にバニラをつないだ祖父の存在
そもそもなぜ、バニラだったのでしょうか。「タンザニア」につながる、林さんのバックグラウンドについてうかがいました。
林さん 生まれは奄美大島の中部の方で、高校卒業まで島にいました。九州の大学に行くために島を出た時は、地元から早く出たいという気持ちもあったんです。大学生の時、稲が実る田んぼを見て、すごく感動したことがありました。実はその時、生まれて初めて田んぼを見たんですよ。サトウキビとは違う風景にものすごく感動して、こういう風景をいろんな地域で見てみたいと思って、卒業後は農林水産省に入省しました。専門は、農業土木です。ダムやパイプラインをつくる分野でしたが、全国各地でいろんなご縁をいただき、農業土木以外のお仕事もたくさん担当させてもらいました。

林さんの圃場は、有機農業を営む「くすだファーム」の楠田哲さんにお借りしている場所。「挑戦する私たちを応援してくださって、大切な農地を貸していただいたおかげで今の活動ができています。本当にありがたくて、もう頭が上がりません」
官僚の仕事が9年目になった頃、思いがけない流れが起きました。外務省への出向として、タンザニア赴任の辞令が伝えられ、同じく農水省に勤めていた妻のあすかさんと共に、タンザニアの都市、ダル・エス・サラームで3年間の生活が始まりました。
日本政府は長年、タンザニアでODA(政府開発援助)としてインフラ整備などを行っていましたが、林さんが赴任した年は、ODAとしてバニラ農家の支援がプロジェクトに含まれていました。バニラ農園に出向いた林さんは、あることに気づきます。
林さん 奄美と似てるんですよ。いたるところにパパイヤがなっていて、島バナナがあって、島野菜っぽいものが植わっていて。もともとタンザニアに到着してすぐ、妻が「奄美みたいなところだね」と言ったくらい、蒸し暑さや空気感も似ているんです。獲れる魚まで似ていて、奄美で「シビ」と呼ばれるキハダマグロや、「エラブチ」という大きなブダイが普通に獲れる。私にとってマグロの刺身といえばむしろシビなので、全く違和感なく食べれるんですよ。なんかここ知ってるぞ、と思うようなご縁を感じることがたくさんありました。
しかしその後、世界は新型コロナウイルスによるパンデミックへと突入します。
林さん コロナ禍で家族が先に帰国せざるを得なくなり、ひとりになったことで、これからの人生を考えるようになりました。島を出た時は早く出たいと思っていましたが、周りの人のおかげもあって、その頃には奄美の良さを再認識していたんです。いつかは奄美に戻りたいと思っていたものの、きっかけもない状態でした。
リスクを取って新しいことに挑戦して、その姿を島の人たちに見てもらうことが大事なんじゃないか、と考えるようになった時、祖父母の顔が浮かんだんです。いろんなことを教えてくれた大好きなじいちゃんの最期に帰国できなかったことも、奄美に戻ることを考える上でとても大きなきっかけになりました。
「官僚の仕事が大変で辞めたんでしょう」と言われることがあるんですが、官僚の仕事は大好きだったんですよ。もちろん大変な職業ですが、難しい状況をどう打破するのか考えたり、どういう調整をしたらいいかと考える仕事は、やりがいがありました。その先にある、国民への貢献など、そういった仕事にこれからの自分の人生を掛けるのか、もしくは、奄美に戻ってゼロから挑戦するか。天秤に掛けてみたら、後者が勝った。迷いはなかったです。
もともと栽培に関心があったため、現場での経験を積みながら、バニラに関する情報もたくさん吸収した林さん。まだ日本語になっていないものも多く、英語の文献も参考にしながら、キュアリングに関しても複数の手法を習得していきます。
また、タネや苗を日本へ送ることは植物検疫上できないため、日本にいる胡蝶蘭の専門家に、バニラの茎頂(けいちょう)培養というかたちで育苗を依頼。実家の家族に協力してもらい、実際に奄美の環境下で育つかどうかを試すなど、遠隔ながらも具体的に進め、2022年の本帰国をもって農園をスタートさせました。
実績をいかして先手を行く
二つの事業戦略
栽培に関する知識や経験は積んだものの、開花までに掛かる年月などを考慮し、農園運営では「二つの戦略を考えました」という林さん。生活も事業も、不安定にならないよう考えられていました。
林さん まずひとつは、うちのバニラが完成する前に、バニラを買っていただけるお客様を見つけること。そのためにインドネシア産のバニラを輸入して販売する、商社のような事業をはじめました。「エターナル」という屋号で、プロの料理家たちにも選ばれる高品質のバニラを小ロットでも買えるように販売しています。
これは、タンザニアで輸出入の支援もしていたノウハウのおかげです。通常、生産者さんが自分で輸出なんてできませんから、中間業者に任せてしまうと思うんです。しかしそれではどうしても手数料が発生してしまう。そこで、私が必要な書類などを全てフォーマットにして、インドネシアの生産者組合に教えてあげています。本当の意味でのフェアトレードですね。私たちにとっても、販路開拓を先行できるだけでなく、これから奄美産バニラができた時、世界の最高品質と比べて自分たちのバニラはどうか、適切に判断することができると思います。
二つめの戦略は、カフェ事業です。商品に関するノウハウを蓄積するのが目的で、使いやすさや提供における課題、あるいはお客様の感想を直接お聞きできることも重要です。実際、毎日バニラを扱っているため、スタッフの知見もすごく高まってきました。現状ではインドネシア産のバニラを使っていますが、いずれは自分たちの奄美産に切り替えていけたらと考えています。

林さんたち自ら壁を塗るなどしてつくられた明るい店内。スワヒリ語で「ゆっくり、ゆっくり」を意味する店名の通り、心地よい空間でのんびり過ごせる。この日も開店早々、飛行機の離発着前や地域に住む方などで、賑わいを見せていた

焼き菓子など販売品の他、「ティンガティンガ」と呼ばれるタンザニアの伝統絵画や布製品など、大切に持ち帰ってきたものも多数飾られている。「支援していたバニラ農家さんがお別れにバニラビーンズをくれたんです。食べたらなくなっちゃうのでそれは漆喰に混ぜて壁や天井に塗りました」
故郷のなりたちを忘れない
奄美産バニラ誕生に向けて
取材時、農園からカフェに移動する途中で、林さんがあるところを案内してくれました。地元の方が「アマンディ」と呼ぶ山です。奄美空港をはじめ、島のエッヂまで見渡せる雄大な景観。ここは、はじめて奄美大島を開闢(かいびゃく)したと言われる神様、阿麻弥姑(あまみこ)さまが降り立った場所として言い伝えられています。
林さん その昔、奄美がまだ島の形をなしておらず、人が住めない状態であることを嘆いた天照大神(あまてらすおおみかみ)さまが、「南の方も人びとが住めるような場所にしてほしい」と阿麻弥姑さまに頼んだそうです。阿麻弥姑さまは志仁礼久(しにれく)という神さまと共にこの山に降り立ち、岩だらけだったところから島をつくり、波で流されてしまわないよう岩を置いて止めた、とされています。実際、奄美や加計呂麻島の周りには立神(たちがみ)と呼ばれる大きな岩が15箇所ほどあるんですよ。
さらに阿麻弥姑さまは、人びとが暮らしやすいよう二つのものを授けた、と言われています。それが、麻と稲です。実際、三大織物のひとつである大島紬は、初めは絹ではなく麻だったそうですし、ここら一帯もかつては稲作の栄えた地域でした。こういう話は長年、島の人々が大切に言い伝えてきたことで、奄美を伝える上ではすごく大切なことだと思います。
私たちのバニラ農園は、この山の裾野にあり、カフェもまた山の橋梁沿いに位置しているんです。島の大切な場所で仕事をさせてもらえることにも感謝して、阿麻弥姑さまの名前をバニラのブランド名にさせてもらおうと考えています。
神話をどこまで史実として捉えるかは価値観が分かれるかもしれませんが、立神をいくつか巡った後だっただけに、林さんの言葉が強く響きました。郷土愛という言葉では足りない、もっともっと深く大きな、ルーツに対する畏敬の念。官僚のキャリアに終止符を打つことや、誰も果たしたことがない挑戦など、大きな決断を軽やかに語る林さんの芯には、計り知れない命題のようなものがあるのかもしれません。
では、未来の奄美産バニラについてはどう考えているのでしょうか。奄美産バニラビーンズ誕生後のことを尋ねました。
林さん 現状、国内のバニラはほぼ輸入品で財務省の統計だと、2024年の輸入量は約60トン程でした。しかし10年以上前までは120トンほどあったんです。これはひとえに価格高騰の影響が一番大きいと考えています。つまり、バニラを使いたくても買えない、という人たちのニーズが60トン前後ある、ということ。このギャップを取り返していく必要がありますし、この数字こそ、私たちが国産バニラに挑戦しようと思ったひとつのきっかけでもあります。
でもここで大事なのは、国産だからといって高くせず、輸入品と価格競争することです。シェフやパティシエの方々にとって、バニラ以外の資材も高騰していくわけですから、産業として成立させるためには、質の良い国産を、輸入品と同等か少し安くするくらいにしたい。そのために、この亜熱帯の奄美で、栽培コストを下げた生産が重要になってくるはずです。
その栽培方法が確立できたら、バニラ栽培に挑戦したい農家さんたちにお伝えして、島内でのバニラ生産量を増やしていきたいと思っています。私たちだけでは限界もありますからね。ただキュアリングだけは特別で機械も必要になるので、うちに持ってきてもらうかたちで、奄美産バニラの生産量を増やしていきたいです。まぁそこまでいくには最低でも10年は掛かると思いますが。
林さん 奄美に移住した方々が一生懸命いろんな事業に取り組んでくれているのは本当にありがたいことですが、島に縁がある人たちも一緒にがんばらないといけないと思うんです。私のようなUターンこそ、覚悟と決意を持ってプレイヤーになるというか。
奄美って、歴史的にも大変だった時代が長いんです。琉球王国に接収されて、薩摩藩にも抑えられて、第二次世界大戦後はアメリカの支配下にもなって、経済的にも物理的にも離島であることのビハインドを負ってきた。今もどこか物悲しさみたいなものがあると思うんですよね。それはどこかで、諦めみたいな気持ちにつながってしまうかもしれない。でも僕らの子どもたちはまたここで育つんです。
だからこそ、島から外に打って出られるような産業をつくって、島の人たちが自信をもって活躍できるようにしていかないといけないと思いますし、私自身もそうしたきっかけの一部になりたい。奄美は「結(ゆい)の島」だと言ってもらえるところですから、支え合って変わっていくことが大事だと思っています。
決して容易ではないことにチャレンジしている林さんの思いは、想像以上に深いものがありました。島からはじまる未来の産業に向けて、次なる誰かの勇気を呼び起こす香りが生まれようとしています。
(撮影:CHARFILM)
(編集:村崎恭子)









