『生きる、を耕す本』が完成!greenz peopleになるとプレゼント→

greenz people ロゴ

家族は、ちいさな私たちの平和活動。中村暁野さんが、8年間欠かさず「家族の日記」を書きつづける理由

人と人のあいだには、性と性のあいだには、人と人以外の生きもののあいだには、どれほど声を、身ぶりを尽くしても、伝わらないことがある。思いとは違うことが伝わってしまうこともある。(鷲田清一「対話の可能性」)

家族ならわかりあえるはず。そう信じて、あるとき、誰にも打ち明けていないつらさを吐き出したことがある。すると返ってきたのは、おもいがけない、つきはなすような言葉だった。

そのときの、「ああ、この人とはわかりあえないんだ」と、すーっと心が冷めていくような感覚。それまで親しさを持って眺めていた目の前の人の顔が、とつぜん「他人」になって、「あれ、この人こんな顔だったっけ?」と思った感覚を、よく覚えている。

家族とわかりあえないーー。その事実に直面することは、断崖の絶壁に立たされたような絶望感をもたらすことがある。相手への期待が大きければ大きいほど、「なんでわかってくれないんだ」という絶望は大きくなる。

中村暁野(なかむら・あきの)さんも、家族のわかりあえなさに直面したひとりだ。暁野さんは、家族で一つの家族を一年間に渡って取材し、一冊丸ごと一家族を取り上げる『家族と一年誌 家族』というユニークな雑誌をつくった。その後、8年にわたって1日も欠かさず、家族とすごす日々のことを日記に書いている。その日記は、『家族カレンダー』という本になった。

「家族」をひとつのテーマとして活動をしているから、さぞかし順風満帆な関係性なのだろう、と思うかもしれない。けれど、そうではなかった。暁野さんはかつて、「わかりあえるはず」と思っていた夫と、「わかりあえない」と悟ったときがあった。しかし、それからおよそ10年経った今、「今が夫といちばん仲がいい。『あの時の私が見たら夢だと思うだろうな』っていうところまで、変化したと思う」と話す。

「わかりあえないこと」は、関係性の行き止まりではないのだとしたら。「わかりあえなさ」と、僕たちはどう向き合っていったらいいのだろうか。

もう、家族を続けるのは無理だと思う

暁野さんは、夫の俵太さん、長女の花種さん、長男の樹根さんと共に、2017年より東京から少し離れた里山に暮らしている。

暁野さんと俵太さんが知り合ったのは、映画館のバイトでのこと。当時暁野さんは20歳、俵太さんは22歳。妊娠したことをきっかけに結婚したのは暁野さんが25歳のときだった。その後、長女である花種さんが生まれた。

「あんまり考えずに家族をつくった」という暁野さんだったが、長く一緒に暮らしていたから、結婚・出産を経て家族で新生活をはじめることに特別な不安はなかった。しかしじっさいには、その後の生活は想像とは大違いだった。暁野さんが思い描いていた「家族」のイメージと、目の前に広がる光景には、大きなギャップがあったのだ。

暁野さんはそれまで、「家族は共同体」だと思っていた。

暁野さん 私にとって家族って、一致団結しているものだったんですよ。でも、夫は「いやいや、別に家族になったって、僕は僕だし、あなたあなたでしょ」みたいなタイプ。そのちがいに戸惑いました。

結婚して3年ほどたったころ、暁野さんのなかで違和感が積み重なっていっていた。悩みながら初めての子育てに追われ生活する一方、俵太さんはギャラリーのディレクターとして都心で忙しく働き、華やかな世界にいるように思えた。そんな暮らしに、違和感が積み重なっていた。「時間もないし、いろんなことを犠牲にしてもなお、これがやりたい、と選んだことをやっているのか?」と考えることもできないまま進んでいくような日々。

くわえて、花種さんが5ヶ月のときに東日本大震災があったのも大きかった。原発事故を起こした責任の一端は、自分たちにもある。だから、私たちが変わらないといけない、と思ったけれど、そうした危機感は、夫婦で共有できなかった。

暁野さん 一緒に考えて、一緒に決断をして、変わっていかなきゃって思ったけれど、彼が当時とらえてた感覚と、私の感覚は、ぜんぜんちがったんです。

「家族は共同体」だと思っていた暁野さんにとって、違和感を共有できないこと、すりあわせていけないことは大きなストレスになり、夫婦関係は煮詰まっていった。

花種さんが3歳になったある日。青空の下の公園で、暁野さんは俵太さんに「もう、このまま関係を続けることは無理だと思う」と打ち明けた。

わかりあうために、家族で家族の雑誌をつくる

「もう無理だと思う」。そう俵太さんに打ち明けると、帰ってきた答えは意外なものだった。

「じゃあ、仕事辞めて独立するわ! そしたら、家族をテーマにした雑誌をつくろう。」

思わぬ提案に、暁野さんは驚いた。貯金があったわけではなかったけど、思い切りのいい俵太さんらしい考えではある。たしかに俵太さんが独立すれば、生活は大きく変わるだろう。そして、家族をテーマにした雑誌の提案も、理由があってのことだった。

暁野さん 私はそれまで音楽活動をしていたんですけど、そこにも葛藤が生まれていて、文章が書きたいと思うようになっていたんです。

でも、何を書いていいのか、自分のテーマがわからなかった。
夫は、私が文章を書きたがっていることを感じていて。だから、文章を書く場をつくるためにも「『家族』という自分たちの課題をテーマにつくってみよう」って言ってくれたんだと思います。

その後、ほんとうに俵太さんは独立し、空間デザインの事務所を立ち上げた。そして、雑誌の制作もはじまった。「家族」をテーマに、あるひとつの「家族」を対象にした雑誌を、「家族」とつくるーー。それは単に「雑誌をつくる」というだけの取り組みではなかった。暁野さんにとって、わかりあえていない家族と、それでもわかりあうためのチャレンジだった。

第一号で取材することにしたのは、俵太さんが仕事で出会ったある家族。尊重しあい、協力しあうその姿は、当時家族の関係で悩んでいた暁野さんにとって眩しく見えた。だからこそ、その家族と向き合うことが、自身の家族に対するコンプレックスにも向き合うことになるんじゃないか、と考えたのだ。

暁野さんと俵太さん、当時4歳だった娘の花種さんと一緒に、家族のもとに1週間滞在した。けれど、取材は思ったようにいかなかった。「 聞きたいことは考えていったけど、うまくいかなくて。ただ一緒に、1週間ぐらい生活しただけで帰ってきた」と、暁野さんは苦笑いする。

彼女が書きたかったのは、いいことばかりでは決してない家族のすがた。それは、人にはあまり知られたくない部分でもある。家族の光だけじゃない部分に触れるには、時間と関係が必要だった。結局、何度か家族のもとを訪れることになり、1年かけて「家族と一年誌 家族」第一号が完成した。

家族と一年誌『家族』(1)

「やっぱりわかりあえないんだ」とわかった

雑誌「家族」をつくる作業は、暁野さんいわく「ぜんぜんうまくいかなかった」。でも、うまくいかないからこそ、見えてきたものがあった。

暁野さん つくりながらずっと喧嘩してて、疲労困憊になったんですけど(笑)。でも、きっとどんな家族も、実は痛みや傷を抱えてるんだなって気づいたんですよね。

一致団結して、ぴったりとわかりあう。そんな家族のかたちが光に満ちたものだとすれば、じっさいの家族は、そうではない。光もあれば、影もある。わかりあえないことだって、当然ある。

暁野さん 「家族とわかりあいたい」と思って雑誌をつくったけど、「やっぱりわかりあえないんだ」ってことがわかった。でも、「わからなくてもわかりたいと思って一緒にいつづけようとすることが、自分にとっての家族」って思えたのが、本当に大きかったです。

大切な存在と、わかりあえない。どれだけ時間を重ねても、どれだけ手を尽くしても。その事実に直面したとき、絶望してしまいそうになる。けれど、暁野さんはそうではなかった。わかりあえないと気づき、認めることが、関係性の再出発点になったのだ。

暁野さん 相手は相手、自分は自分って認めたら、関係がまたスタートしていった。うまくいかないことは日々のなかでいっぱいあるんですけど、わからないもの同士が向き合うことは諦めなかった。

相手のちがいを認めることによって、相手にも私の存在を認めてもらう。そこから、試行錯誤していくと、やっぱりお互い成長していきますよね。関係が成長していくっていうか。

家族と向き合うことは、自分と向き合うこと

暁野さんが認めることができるようになったのは、夫とのちがいだけではなかった。家族の関係と向き合うことは、自分が抱えてきた影の部分と向き合うことでもあった。

暁野さん 夫婦とか家族って、一人ひとりが抱えてきているいろいろな思いとか傷とかコンプレックスとかが、関係の中に投影されてしまうんですよね。

私、子育てする前から、コンプレックスをすごくこじらせてたんですよ。自分を認められなかった。家族も自分の望むかたちにできないし、自分が思い描いていた理想の母親にもなれないし、社会のおかしなことを変えたいと思っても、大きななにかができるわけじゃない。
「私は何も変えられないし、自分自身も変われない」みたいな。

しかし、雑誌「家族」をつくる過程で、「家族って当たり前に痛みも伴うものなんだ」と思うことができるようになると、自分自身のことも否定する必要がないと思えるようになっていった。

暁野さん どんな世界にも光と影があるように、どの家族にも当たり前に光と影はあるし、どんな人にも強いところも弱いところもあるんだなって思えるようになりました。

「家族」第一号の表紙となった写真は、黒い闇のなかに浮かぶ数本の光の筋。それは傷のようにも見えるし、夜空をゆく星の軌道のようにも見える。この表紙を見た書店員からは、「たくさん売るためには、もっと家族というテーマらしい写真にしたほうがいいですよ」と諭されたという。

しかしそれでも、この写真を選んだ。「家族」をつくるなかで得た気づきを、この写真があらわしていると思ったのだ。

他者のちがいを認め、自らの痛みも受け入れられるようになったことで、家族の関係はだんだんと変わっていった。

暁野さん 今が一番仲がいいですよ、夫と。去年より今の方が仲がいいし、本当に信頼してる。かつては「この人にはここは求めない」と諦めたことも、変化の中で求めることができるようになったこともある。

雑誌「家族」をつくろうと決めてから、もう10年近いですけど、「あの時の私が見たら夢だと思うだろうな」っていうくらい、関係が変わったと思う。

冒頭で引用した鷲田清一の「対話の可能性」は、こんなふうにつづく。

<対話>は、そのように共通の足場をもたない者のあいだで、たがいに分かりあおうとして試みられる。そのとき、理解しあえるはずだという前提に立てば、理解しえずに終わったとき、「ともにいられる」場所は閉じられる。けれども、理解しえなくてあたりまえだという前提に立てば、「ともにいられる」場所はもうすこし開かれる。

対話は、他人と同じ考え、同じ気持ちになるために試みられるのではない。語りあえば語りあうほど他人と自分との違いがより微細に分かるようになること。それが対話だ。「分かりあえない」「伝わらない」という戸惑いや痛みから出発すること、それは、不可解なものに身を開くことなのだ。

暁野さんは、かつて「家族なら理解しあえるはずだ」と思っていた。しかし日々の生活や雑誌づくりをとおして、「家族と理解し合えない」という現実に直面した。

けれど、理解し合えていないのは、自分たちだけではなかった。うまくいっていそうに見えるあの家族にも、この家族にも、わかりあえていない部分がある。「家族だって、わかりあえなくてあたりまえ」。そんな前提に立つことができたときから、家族というわかりあえない他者と「ともにいられる」場所を開いていく営み、つまり「対話」がはじまったのかもしれない。

家族という平和活動

「家族」を出版した1年後、暁野さんは日記を書き始めた。

暁野さん わからない人と日々向き合うって、日々のストレスが生まれる。ポジティブにその日々に向かっていくためのアイデアでした。日記を書くことで、「本当にわかりあえない人同士が、どうやって生きていけるかを、今記録してるんだ、私は!」みたいな気持ちで、起こったことを書くようになりました。

家族についての日記は、暁野さんにとってわかりあえない家族という他者と、そのわかりあえなさを知っていく「対話」の記録なのだろう。そしてそうした家族について日記を書くことは、社会に向けた活動でもあるのだという。なぜなら、家族も社会も、「わかりあえなさ」であふれているから。

暁野さん 「家族を平和に築いていくことが、自分にできるひとつの平和活動だ」と考えるようになったんです。「家族」と「社会」は一見遠いように思えるけど、 「わかりあえない他者と、それでもどう生きていくか」っていう意味では、すごくつながってる。

「世界を変えたい」とか、「戦争はいけない」とかって思うけど、 自分は実際、夫と争いが絶えなくて。「家族の平和も築けないのに、そりゃ戦争も起こるわ」と思ったんですよ。 だから、世界が平和であってほしいと思っているなら、自分が接している小さな世界の平和に向き合っていくべきなんじゃないかなって。「自分は社会に対して無力で何もできない」って思っていたけど、「家族との関係は、私次第で変えられるんじゃないのかな」って思った。

それで、自分の中の社会 に対する思いみたいなものも、回収された。そんなにすぐ世の中は好転しないけど、諦めたくない。この家族っていう小さい社会を通して、「諦めずにいる方法はある」って実証していく。それが、自分にとっての平和活動だと思えた。

ちいさな「私たち」のために

暁野さんは8年間、1日も休まず日記を書き続けている。彼女の日記は、『家族カレンダー』という書籍にもなった。ページをひらくと、俵太さんとの喧嘩のこと、長男・樹根さんの保育園のこと、選挙の後喫茶店でオムライスを食べたことなど、なにげない出来事がつづられている。

1日も書き飛ばさず、何気ない日々を綴っていくことは、暁野さんにとって大きな意味がある。

暁野さん 家族の変化の兆しとか、なにかを乗り越えられた、みたいなことって、そんなに劇的じゃないんですよ。相手への不満とか不信が、小さなことの積み重ねで生まれるように、希望的な変化だって劇的なものじゃない。本当にちいさな、ちいさなことの積み重ねで。でも、それが積み重なったときに、きっとひとつの「重み」になってくんだろうなって。

それは、ちいさな存在を踏みつけてるような、今の世界のあり方に対抗したいっていう気持ちと、自分の中では重なっています。

家族のなかで起こるちいさなことや、一見弱さや愚かさのように見える出来事に目を向け、綴ることも、暁野さんにとっては平和活動だ。

暁野さん 変化のなかでここ数年は「エシカルな暮らし」を軸に暮らし、発信もしているけれど、そういう「いいこと風なこと」を言うのって、人を気持ちよくさせるじゃないですか。

「エシカルな暮らし」を心がけているけれど、実際には私にも、愚かなところがいっぱいある。そういう自分の弱さとか、ダメさとかも含めて語っていかないと、 危険なような気がするんですよ。正論のようなことだけを言って、気持ちよくなっちゃうのって、他者を批判したり、人を分断したりすることにつながる。

暁野さんは、「弱いままでいい」という。弱いからこそ、家族という身近な関係性のなかだからこそ、社会をよくするためにできることがあるのだと。

暁野さん 私は本当、「自分が弱い」というコンプレックスがずっとあって。でも、弱いからこそ見れた世界もある。別に弱い人が弱いままでいてもいいじゃないですか。

強い人は、自分でどんどん進んで幸せを掴みとっていくかもしれない。でも、そうはできない人もいますよね。それでも、弱くても愚かでも「幸せになりたい」ってみんな思っていいし、言っていいと思うんです。

私は、自分が抱えていたようなそんな思いをもったたくさんの「私たち」みたいな人に向けて、文章を書きたいって思ってるんです。「私たち」に向けて、「私たち、できるよね」って伝えたい。

そんなおっきな、すごいことしなくてもいいんじゃないかな。この、自分の目の前にある、ちいさなことに向き合っていくことが、私たちが世界をつくっていくことなんじゃないかな。 家族と1日を過ごすってことが、私たちの平和活動なんじゃないかな。みたいなことを、すごく、書きたかった。 実証したかったんだと思います。

インタビューを終えて

わかりあえない他者と生きることが、ますますむずかしい世の中になっている気がする。SNSのタイムラインは自分と近しい価値観の投稿であふれ、日常生活でも同じような価値観の人とすごす。だから、自分とは異なる価値観の人と接する耐性や対話する力が育まれず、つい自分と遠ざけたり、怒りや暴力を向けてしまう。その延長線上に、ガザやウクライナがあるのでは、とも思う。

けれど、実は身近に「わかりあえない他者」はいるのだ。むしろ家族という他者は、「わかりあえるはずだ」という期待が大きいぶん、わかりあえなさを抱えながらともに生きていくことがむずかしい。

だからこそ、身近な他者である家族との日々は、「わかりあえない他者」とともに生きていくことの学びで満ちているのかもしれない。

家族のわかりあえなさは、関係性の終着地点になるとは限らない。むしろ家族のあらたな関係性の、そしてひょっとしたら差別や排除のない社会への可能性をひらく出発点になるのだと、暁野さんのエピソードは気づかせてくれる。