人の命を無残に奪う戦争は、穏やかに暮らしていた人に思いもよらない数奇な人生をもたらすことがあります。たとえどれだけ過酷な人生になろうとも、人はそれに抗い切れません。受け入れるしかないのです。
第二次世界大戦中のドイツが舞台の映画『フィリップ』では、ポーランド系ユダヤ人の主人公がフランス人と偽って生きていきます。著者の自伝的小説を映画化したこの作品から、トラウマや憎悪を抱えながら、孤独のうちに人が生きていくことについて思いを巡らせました。
愛する人を喪った男は孤独と向き合い、復讐にかられる
『フィリップ』は、ポーランドの作家、レオポルド・ティルマンドの自伝的小説として1961年にポーランドで出版されたものの、内容の過激さから発禁処分となった小説を原作としています。どこまでが現実かさだかではありませんが、繊細な心理描写の数々からは、あの時代にこんな生き方をした人もいたのでは、と思わせるだけのリアリティがあります。
物語は、主人公のユダヤ人・フィリップが、婚約したばかりの恋人と家族をナチスによって無残に殺され、幸せの絶頂から突き落とされるところから始まります。ユダヤ人であるだけで命を奪われるナチスの支配下、彼に穏やかな人生は許されませんでした。
フィリップはドイツの大都市・フランクフルトで、フランス人になりすまして生きることを選びます。ナチス将校らも多く利用する高級ホテルで、命を賭けた秘密を隠して落ち着き払って接客する様子は堂々とさえしています。
さらにフィリップは、ナチスへの復讐のために、ドイツ女性を誘惑し、肉体関係を持っては捨てる行為を繰り返します。これが復讐の意味を持つのは、単に女性を傷つけているからだけではありません。当時、ユダヤ人と肉体関係を持つことは法律で禁じられていたため、フィリップをフランス人だと信じ込んでいたドイツ人女性は、気づかないうちに罪を犯す羽目になるうえ、差別していたユダヤ人に騙され、関係を持つという屈辱を与えられるのです。
常に自信たっぷりで、ゲームでもするかのように女性に近づくフィリップの姿は、傲慢で醜悪に映るかもしれません。けれどもその一方で、愛する人を喪った悲しみと孤独の淵でギリギリの状態で生きていることも、彼の行動から伝わってきます。
彼が一人のドイツ人女性と出会ったところから、物語はさらなる展開を見せていきます。フィリップは過酷な人生において、どんな選択をしていくのか。映画が進むに連れて、その人生の行く末にどんどん引き込まれていきました。
戦争映画でも恋愛映画でもなく、生きることを問う映画
自伝的小説が原作とはいえ、あくまでフィクションのこの作品。ただ、歴史的背景を知っていれば、よりスムーズに映画を楽しむことができるでしょう。
第二次世界大戦中、ナチスがユダヤ人を大量虐殺したことは広く知られています。そこには、ユダヤ人に対する苛烈な人種差別がありました。同時に、ドイツ民族の純潔を守るため、ドイツ人の生活や人生にもさまざまな規制が強いられました。そのひとつが、金髪に青い目のアーリア人以外の、非アーリア人との婚姻はもちろん、肉体関係を禁じる法律。
この法律を犯したドイツ人女性は公衆の面前で頭を丸刈りにされ、激しい非難の対象とされました。また、相手の男性は絞首刑に処せられるなど、徹底してドイツ民族の血は守られるべきものとされていたのです。だからこそ、フィリップは命を賭けた復讐の手段として選んだのでした。
また、フランス人と偽っているフィリップの周囲に、オランダやベルギー、さらに同盟国のイタリアといった各国にルーツを持つ人たちがいるのは、それだけドイツが当時のヨーロッパで覇権を握っていた証でもあります。ナチス・ドイツによるポーランドへの侵攻で第二次世界大戦は始まりましたが、その後も西へ支配を拡大し、フランスまで占領下に置いたうえ、東においては独ソ戦(ナチス・ドイツを中心とする枢軸国とソ連との戦争)を繰り広げたのです。
そんな時代背景を踏まえると、この作品は戦争映画なのかと思われるかもしれません。けれども、ミハウ・クフィチェンスキ監督は、これは戦争映画でも、恋愛映画でもないと話しています。戦争に翻弄された男がどのように生きていくのかを描くことは、生きていくうえで誰もが考える普遍的な問題を扱っていると言えるでしょう。
生きるうえで向かい合わなければならない困難は、いつの時代でも、どこの国においても、誰もが抱える問題です。戦時下という特殊な環境であればなおさらですが、幸運なことに平和のうちに生きることができる私たちも、どのように生きるのか、何のために生きるのか、明快な答えは簡単には見つかりません。日々の生活に追われて、そんなことまで考えるのは難しい、そんな時代です。だからこそ劇場に足を運んだほんのひとときを、自分の生き方を振り返ってみる機会にしてみてはいかがでしょうか。
(編集:丸原孝紀)
– INFORMATION –
2024年6月21日(金)より全国公開
監督:ミハウ・クフィェチンスキ
出演:エリック・クルム・ジュニア、カロリーネ・ハルティヒ他
撮影:ミハウ・ソボチンスキ
原題:ANIMAL
配給:彩プロ
124分/ポーランド/2022年
https://filip.ayapro.ne.jp/