人口わずか760人。
瀬戸内海の、直島のお隣。
瀬戸内国際芸術祭。そして豊島美術館。
豊かな島と書いて「豊島(てしま)」と読む、その小さな島で生まれ育った女の子は海をずっと遠くまで渡り、約20年の時を経てあたらしい家族とともに島に帰ってきて、宿をはじめました。
その宿にあるのは、ホテルみたいにゆきとどいたサービスではなく、彼女が小さい頃から大好きな瀬戸内の風景や、人々のあったかさに触れられるさりげないおもてなし。
近所には彼女がサポートする “おっちゃん・おばちゃん” たちの民泊もあって、そこに泊まれば島の暮らしが見えてきて、食卓にはすぐそこの畑の野菜や、獲れたての海の幸。
この島の暮らしを営む「ひと」に、出逢ってほしい。
その出逢いから、旅を紡いでほしい。
そんな願いを胸に彼女は、豊島で大きな家族をつくっています。
島の “おっちゃん・おばちゃん” たちを豪快に巻き込みながら、島暮らしをまるごと伝える一棟貸し古民家宿「とくと」や、民泊事業と島民体験アクティビティを取りまとめる「てしま農泊推進協議会」を運営する濱中玲子(はまなか・れいこ)さん。
瀬戸内海の “アートの島” として、全国的に知られるようになった豊島。3年に一度開かれる「瀬戸内国際芸術祭」の期間中は十数万人もの観光客が訪れますが、年間を通して海外からも多くの人がやってきます。玲子さんが子どもの頃にはまったくなかった信じられないようなこの状況は、もちろん島にたくさんの恵みをもたらしていると言えます。
しかし現状は、ほとんどの人が慌ただしくアート作品を観賞し、最終の高速船やフェリーに飛び乗って日帰りで帰ってしまう。フェリー乗り場には長蛇の列ができ、最終便の出航に滑り込むようにダッシュする人々の姿もまた日常の風景。島に暮らす人と出逢う間もなく、瀬戸内海に沈む美しい夕焼けや、夜や朝の静かな島を味わうことなく去って行ってしまうことに、玲子さんは寂しさを感じていました。
玲子さん 豊島の一番の魅力は、ひとと暮らし。島の風景の中にあるアート作品はもちろん素晴らしくて、そこに島の営みもある。正直、豊島よりきれいな海や山は他にもたくさんあると思うけど、この人との距離感やあたたかさが豊島の強みだと信じてるから、それを紹介したいなって。
小さな島の小さな世界がイヤで、海のずーっと向こう、オーストラリアまで飛び出して行った彼女だからこそ、今、ここに見つけられるたくさんの宝物。オーストラリア人の夫・アランさんと、二人のあいだに生まれた6歳の海(かい)くん。そして玲子さんのお父さん、お母さん、ご近所のみなさんも総動員。そんな彼女の存在が、豊島を次のステージへと進ませる、そして世界へと発信する “懐かしくて新しい田舎” となる、原動力のひとつになっています。
合同会社とくと代表。1984年、香川県土庄町豊島生まれ。17歳まで豊島で育ち、オーストラリアに留学。大学でホスピタリティ、ホテルマネジメントを学び、現地のインバウンド旅行会社に勤務。2018年からオーストラリアとの二拠点生活ののち、帰島。農林漁家民宿「とくと」の運営のほか、島の漁師や料理自慢の女性たち、民宿、飲食店経営者たちとともに「てしま農泊推進協議会」を運営。
島時間を「とくと」楽しんで
宿に込めた心地よいおもてなし
築約80年の古民家を改修し、2021年の夏から営業をはじめた農林漁家民宿「とくと」。大きな母屋の「本館」と、離れの「別館」。それぞれ一棟貸しの1日1組限定の宿は、豊島の玄関口・家浦港から徒歩約10分の高台にあります。
集落の町並みの向こうに見えるのは、瀬戸内海。天気がいい日の夕方にはしんと静まりかえった空気のなか、美しい夕暮れを見ることができます。
お風呂や洗面所、トイレなどの水回りは最新の設備になっているものの、欄間(らんま)や波打ったガラスの窓など、古民家ならではの美しいしつらえはなるべくそのまま活かし、本館も別館も台所部分は土間。調理器具やレトロな食器類もたくさん揃っているので、みんなでわいわい料理をして長期で滞在するのも楽しそう。
旅のあいだはどうしても慌ただしくなりがちだけど、とくとには、誰もが思わずゆっくりくつろいでしまうような仕掛けがいっぱい。オーストラリアでホスピタリティの学位を取り、インバウンド旅行会社で世界中からのゲストを旅へとご案内してきた玲子さんならではの視点で、きめ細やかに、ここで過ごす人の動線やタイムラインがデザインされています。
“おっちゃん・おばちゃん” とのいい循環が生み出す
島の営みを伝える 多様な仕掛け
リアルな島の暮らしを体験したい! という人におすすめなのは民泊滞在。玲子さんが小さい頃から “おっちゃん・おばちゃん” と慕うご近所さんのいくつかのお宅は民泊を営んでいるので、そこに泊まればまるで田舎の親戚の家に帰ってきたような心あたたまる交流が待っています。
料理自慢のお母さんによる、島の恵みたっぷりの食事がついていたり、リーズナブルな素泊まりでいい感じに放っておいてくれたり。一度訪れたらまさに “田舎の実家” のように心地よくなり、毎年のようにリピートするゲストが多いのも民泊の特徴です。
玲子さんの働き方はとても独特。自分の宿である「とくと」への集客はもちろんのこと、それに加えて、とにかく “おっちゃん・おばちゃん” を絡めてどんなおもしろいことをするか? ということが第一にあるように感じます。
そして、巻き込まれている“おっちゃん・おばちゃん”たちも、とにかく楽しそう。88歳の大先輩でも、朝から晩までフル回転で動き回っているのにピンピンしている。その姿にはいつも驚かされます。
「必要とされること」
それがみんなをますます輝かせ、元気にさせ、人生を豊かにしているのかもしれません。
玲子さん おっちゃん・おばちゃんにとってもちろん「必要とされること」も大切なんだけど…それ以前に、まず、わたしにとって絶対必要で(笑)。みんなが無理なく、自分がやりたいことを自分のペースでやりながらうまく循環していけたらなーって、いつもたくさん頼って、たくさん助けてもらってます。
新しいことに取り組んで、それを孫や子どもにも報告して、「すごいね!」って言われたらまた嬉しい。みんなで豊島を盛り上げていくことが、豊島の良さを伸ばすことだと思うから。
美術館やアート以外に、人をどう絡めていけるかなあって、いつも考えてる。
島の料理自慢のおばちゃんたちと新しく開発した「豊島の蛸飯むすび」と「てしまの幸弁当」。何も特別じゃない、いつものおかずだよ〜と、当人たちは笑うけれど、その素材のほとんどが、すぐそこに見える畑や海から台所にやってきたもの。この豊かさを、玲子さんはかたちにして、丁寧に伝えています。
おっちゃん・おばちゃんとのいい循環を一番に大切にする気持ち。
ほかのどこにもないこの島だけの魅力を引き出せる独特な視点。
それはきっと、島を遠く離れたからこそ育まれたものなのでしょう。
島を出たティーンネイジャーが見た
広くてでっかい世界
玲子さん とにかく島の狭さが窮屈で。周りはずーっと同じ人で、幼稚園から高校まで友達もずーっと一緒。近所のおばちゃんたちは何でもかんでも全部知ってて、噂ばっかり言ってー!(笑)
わたしがどんな子で、何して、どうなってって…周りから決めつけられていくように感じて、すっごく嫌だった。それで、突然、アメリカに行きたーい! ってなっちゃった。
瀬戸内海の島からいきなりアメリカ! というのが、いかにも玲子さんらしい思い切りの良さ。中学生の時には島の外、岡山市内にある私立中学校に通ってはみたものの「こりゃ国内ならどこも変わらん」と思い至り、高校3年生で留学することに。両親との相談の末、留学先はアメリカではなくオーストラリアに決定。17歳で島を出た玲子さんは、現地の公立高校に通います。
玲子さん オーストラリアに行ったら、みんな、他人がどう思ってるかなんてまったく気にしない。干渉してる暇なんてないし、意味もない。自分にしか興味がない! それが本当に心地よくて。
授業も初めて聞くような教科がいっぱいで、そこで「ホスピタリティ」っていう教科に出会って。料理をしたり、ホテルの掃除の仕方を学んだり…、進学のためではなくホテル業や飲食業でやっていくための実践の授業。これが楽しくて、もっと学びたい! って夢中になったんです。
高校3年生の1年間だけを予定していた留学の期間はどんどん延び、専門学校、大学へと進学。ホスピタリティの学位を取り、現地のインバウンド旅行会社に就職して10年以上、ある時は世界遺産の森の案内人、ある時はホエールウォッチングのガイド、通訳やツアー丸ごとの手配まで、さまざまな経験を積みました。
2016年にアランさんと結婚、2017年に海くんを出産。このままオーストラリアで子育てをして暮らしていくのかな。そう思い描いていた矢先、豊島のお父さんが体調を崩します。
玲子さん 今から緊急手術、死ぬかもしれないって言われた時、ただただ右往左往することしかできなくて。無事に手術は成功したから、じゃあ、お父さんが元気じゃなくなってから介護のために帰るよりも、今だ! って思った。
息子も、わたしのお父さんお母さんと思い出をつくれるのは今だけ。17の時に島を出てから、今までさんざん、わたしがやりたいって言うことをダメとも言わず、好き勝手させてもらったから。できる時に、今度はわたしが! って。
“ごみの島”から“アートの島”へ
20年の変化が島の暮らしをつなぐ希望に
2018年からはオーストラリアと豊島とを行ったり来たりしながら、少しずつ帰島の準備を進めていった玲子さん。窮屈でたまらなかった島に「帰る」と決断できたのには、大きな理由があります。
玲子さん わたしがいない20年の間に、豊島は “アートの島” になってたんだよね。正直、アートがあったから帰って来れたし、なかったら帰って来れなかった。観光客がこんなに来てくれているなら生計が立てられるかもって思えたから、一歩が踏み出せたんです。
わたしが子どもの頃、豊島は “ごみの島” って呼ばれてて。観光客なんて一人もいない、特産品も豊島って言うと売れない。そんな感じの場所だったから。
1970年代後半から1990年にかけて、業者によって日本最大規模の有害産業廃棄物が不法投棄された「豊島事件」。島民は悪臭や健康被害に苦しめられ、県を相手取っての裁判は長期に渡り、土庄町役場の職員だった玲子さんの父・幸三さんもその渦中にいたといいます。
2000年にようやく公害調停が成立し、島に残された廃棄物が完全撤去されたのは、今からわずか数年前の2019年でした。
かつて “ごみの島” と呼ばれた豊島は “アートの島” に変貌し、だからこそ玲子さんは帰ってくることができた。その歴史を知る人も徐々に少なくなるなか、それでも忘れずに、今に伝えていこうと心に決めています。
玲子さん 豊島がもっと豊かになってほしい。もちろんそう思っているけど、離島にとっては “現状維持” だけでもすごいことで、過疎化のスピードは半端ないんです。船の便が減らないとか、お医者さんが来てくれるくらいの人口が保てていれば、移住して来てくれる人もいる。
全国の民泊経営者の集まりに行って話を聞くと、そもそもどうやってお客さんを呼ぶのか? から考えなくてはいけない地域がほとんどだから、アートがある豊島は本当にラッキー。
だから、わたしたちがするのは「豊島美術館の次の日をつくる」こと。
泊まってくれて、食事をしたりお土産を買ってくれたり。そうやって島が少しでも豊かになれば雇用が増えて、移住者も増えてっていう、いい循環ができていくから。
生まれる子どもの数が毎年2、3人だった豊島に、2023年はなんと8人もの子どもが生まれたそう。保育士不足、場所も手狭となり、利用者も町も困っていいるものの、玲子さんはとても嬉しそう。
島がアートによって息を吹き返し、未来への希望がつながっているのです。
七福神が手招きする荒れ放題の空き家に
いっぱいの夢を描いて
今は立派にリノベーションされ、国内外からたくさんのゲストを迎え入れている「とくと」。玲子さんが生まれ育った場所の近くに人知れず放置されていた空き家が、玲子さんが帰ってくるタイミングで売り出され、ご縁がつながりました。
敷地内には、背丈ほどの草が伸び放題。中はぐちゃぐちゃ、屋根には穴も。それでも、瓦はとても立派で美しく、七福神の鬼瓦が目を引いたと言います。
玲子さん ここを宿にしたらやっていけるんじゃないかな? って直感があって。わたしが島に帰ってできること、オーストラリアで経験したことを活かせることってなんだろう? って考えたら、海外からのお客さん向けの宿をつくることだと。だから、外国人目線で改築を進めて、DIYが得意なアランも家具をつくったり、漆喰の壁を塗ったり、時間をかけて丁寧につくり上げていきました。
途中で…コロナが来てしまったし。
宿のオープン時期はどんどん先延ばしになり、アランさんがオーストラリアを出国できなくなるなどの事態も勃発。二拠点生活を続け、アランさんはオーストラリアでの会社の経営も続ける予定だったけれど、コロナパンデミックがきっかけとなり、「家族3人が一緒にいること」を最優先して、揃って豊島で暮らすことに腹が決まりました。
玲子さん 周りには「外国人向けの宿なんてやったってしょうがない」って言われても、わたしにはこれしかなかったから。コロナが長期化したおかげでまったく計算通りにはいかなかったけど(笑)、オーストラリアに住むのか日本に住むのか選ばざるを得なくなって、そのおかげで踏ん切りがついたんです。
ふっと落ち着いたときに、そういえば、アランは楽しんでるのかな?! って心配になって聞いてみたの。そうしたらね、
「朝、今日は何しよう? って目覚められるって素晴らしいんだよ! オーストラリアでは40分かけて会社へ行って、今日は誰々とミーティングして、1ヶ月後は、3ヶ月後はって、先のことばかり考えてた。でも、豊島ではこんな生活ができて、素晴らしいー!」
この人、もう放っておいても大丈夫だな! って思った(笑)
小さな島の大きな家族とともに
豊島をアップデートしてゆく!
かつては、島のおばちゃんたちに噂されたり、何でも知られていることが嫌で仕方なかった玲子さん。月日は流れ、自分にも子どもができた今、考えは変わったのでしょうか。
玲子さん 今はそれがむしろ楽しくて(笑)。自分も年を重ねて、この小ささが心地よくなって。困った時に助けてくれるおっちゃんおばちゃんがいて、わたし一人じゃできないことも誰かが教えてくれるし一緒にやっていけるのが、本当に頼もしい。
今日もね、忙しいな〜って思ったら、隣のおばちゃんが晩ごはんを持って来てくれて。みかんや漬物まで! 昔は「なんでわたしが家にいるの知ってるのー!?」って、鬱陶しく感じることもあったけど、今はそういう距離が心地いいと思えるようになった。わたしも成長したね(笑)
玲子さんを取り巻く大きな家族とともに描く、豊島のこれからの姿。
訪れた人に、まるで島民になったような経験を通じて素敵な思い出をたくさんつくってほしいから、玲子さんが小さい頃から親しんだ家浦の集落のお散歩ツアーや、もう少し足を伸ばせるサイクリングツアーなども企画しています。
そして、漁師さんたちとともに開発した新しいアクティビティが、地引網体験。「てしま農泊推進協議会」の代表をつとめる漁師の生田さん自らが船を出し、地引網をその場で張って、みんなで引っ張るのです。
玲子さん もう、本当に楽しそうでしょ、本人たちが(笑)。それもすごく大切だなと思ってて。家から引っ張り出してきて、みんなで一緒に楽しみながら、つくっていく。それが生きがいにも繋がって、もっとがんばろう、またしたいねって。
玲子さんの母・廣子さんに話を聞くと「もう歳だし、腰が曲がりかけてたんだけどね〜。忙しくなって、シャンと伸びたわ!」と、大笑い。地引網体験でも、揚った海の幸をその場で焼いたり、羽釜でお米を炊くのはおばちゃんたちの担当です。
玲子さん この循環を、少しずつ少しずつ大きくしていけたらいいなあって。自分たちのできる範囲で、宿を増やして、食事できるところも足りてないからできたらいいし。やりたいことは、いーっぱいあるから、常に人材募集中です(笑)
わたしがこうやって、子育てしながら生活できるよって見せられたら、豊島に住みたいな、働きたいなって思ってくれる人も、島に帰ってくる若者も、増えていくと思うから。こんなに楽しい島暮らしを、もっともっと、みんなで分かち合っていきたいな。
玲子さんのことだから、想いは果てしない。
大きな家族の循環はきっとこれからも拡大しつづけ、豊島の中にも、そして外にも、気持ちのいいさざ波を届けてゆくことでしょう。
そんな愉快な島の暮らしに触れに、ぜひ豊島へ!
(編集:廣畑七絵)