朝ごはんは何を食べましたか? 炊き立てのごはんに焼き鮭、だし巻き卵が付いた和食もいいですし、レタスやトマト、ベーコンを挟んだサンドイッチ、そこにフルーツを添えた洋食もいいですよね。
当たり前のように口にしている日々の食事。しかし、今挙げたメニューだけでも、米農家や漁師、養鶏農家、野菜農家、養豚農家、果樹農家など、背景には一次産業の現場が山ほどあります。
暮らしに欠かせない存在にもかかわらず、少子高齢化から担い手が減り、都市化により日常と生産現場の接点が希薄化。そんな今だからこそ、農家ではない人が農作業を手伝う「援農(えんのう)」が注目されはじめています。
なかでも、農家と援農者の好循環が生まれている事例が、和歌山県海南市下津町(かいなんし・しもつちょう)を舞台に毎年秋〜冬に繰り広げられているプロジェクト「みかん援農」です。
そこでは、農業への新たな関わり方や、地域に仲間入りするきっかけが生まれ、さらには多彩なカルチャーを持つ若者と農業の歴史をつむぎ続ける農家や地域の人々との出会いから、これまでになかった地域の未来が育まれています。
この記事を読み、援農者として興味が湧いた方は「みかん援農」にぜひ応募してみてください。
詳しくは公式ページから!
「みかん援農」の紹介動画
みかんの一大産地・和歌山県海南市下津町
400年以上続く歴史の地が、今抱える課題
和歌山県北西部にある下津町は、みかん生産量全国一の和歌山県のなかでも屈指のみかん産地です。400年以上前に農家が海沿いの急峻な山々を開拓し、石積みの段々畑を築きました。以来、収穫期となる毎年10〜12月には町一面が鈴生りのみかんで橙色に染まります。
トップブランドである有田や湯浅といった産地と棲み分けをするため、古くから貯蔵技術「蔵出しみかん」を確立。酸味のある下津みかんを土蔵で保管し、2〜3ヶ月かけて甘みを凝縮させたまろやかな味わいに熟させるため、本来なら市場にみかんが出回らない3月までの長期出荷を実現しています。
日本農業遺産にも認定されたこの先人の知恵により、下津町は全国有数のみかん生産量を誇る評判の産地として生き残ってきました。現在も下津町の面積の半数は農地、主要生産物はみかんです。専業や兼業など割合は違えど、ほぼ全ての農家がみかんの生産に携わっていると言われています。
しかし近年、過疎化・少子高齢化が進み、みかん農家は2005年〜2015年の10年間で約13%減少。65歳以上の農家が多く、後継者不足から農家の廃業が目立ち、耕作放棄地が急増しています。
最も深刻なのは、収穫最盛期となる11〜12月。一年かけて畑を守り、愛情をかけて育てていても、この短期間に収穫・運搬・選別作業を終わらせ出荷・貯蔵しない限り、全て無駄になってしまうのです。
労働力不足の解決に向けて
地域や人との関係性を育む「みかん援農」とは
この課題を何とかしようと、2017年に大谷幸司(おおたに・こうじ)さんがはじめたプロジェクトが「みかん援農」です。下津町のみかん農家の繁忙期に全国から援農者を募り、勤務先となる農家と宿泊先の手配を一手に引き受けています。
大谷さん 現代の食文化では、スーパーに行けば食材が買えることや、誰かが調理したものを食べることが普通になっていますよね。でも、生産の現場に関わる人がどんどん減って、現場を守ってきた数少ない人たちもどんどん年をとっています。
江戸時代は日本の総人口の85%が農家だったと言われていますが、今では農家は総人口の3%程度で、その多くが高齢者。このままだと、今のような食文化は当たり前じゃなくなる。みかんだって収穫できなければ、今みたいに食べられなくなるんです。
2022年は、約40戸の農家と約70名の援農者をマッチング。援農者を募集する告知はしますが、農家に対する宣伝は一切なし。しかし、人づてに評判が広まり、援農を希望する農家は年々増えています。
援農者も増加傾向。毎年半数以上が、リピーターや過去の参加者からの口コミや紹介により集まった人だと言います。
援農を希望する農家や農園で働く人々の多くは、下津町で長年就農する70〜80代の高齢者。一方、援農者は日本各地から集まったバックグラウンドの異なる20〜30代。そのため、援農を介して普段出会わない人や文化に出会えることが双方の刺激になっています。
援農をきっかけに地域や人が好きになり、下津町周辺に暮らしの拠点を移した人は、すでに10名ほどいるそうです。
大谷さん 「みかん援農」を続けるうちに、一次産業の置かれている現状に向き合おうとする若い人たちが増えてきたと実感するようになりました。
旅をするように季節労働で世界や全国をめぐる人もいれば、普段は都市部で働きながら、関心のある地方や農業との接点づくりに援農をする人もいる。彼らの生き方から、多様な価値観で新しいライフスタイルが選べる時代なんだって気付かされます。
援農者は農家から時給をもらい農作業を手伝います。交通費・宿泊費・食費は実費なので、少しでも負担が減るようにと、大谷さんが近隣の空き家や農家の民家別棟を借り、賃貸物件を年間契約で借り上げるなどして、2〜8人が共同生活できるシェアハウスとして宿泊先を安価で提供しています。
シェアハウスで撮った写真を見せていただくと、まるでゲストハウスの共用リビングのような和気あいあいさ。毎年、援農者が一番多くなるタイミングで大谷さんが交流会を開いているそうですが、それ以外にも宿泊先を越えた自発的な交流が頻繁にあるのだとか。産地や農家との出会いだけでなく、援農者同士の出会いまで存分に楽しんでいる様子が伝わってきますね。
学生時代に“かっこ悪い”と思っていた農業だから
テーマは「いかに地元の農業を面白くできるか」
農家と援農者を合わせて100名超えの規模感だと知り、てっきり「みかん援農」は複数名で運営しているのかと思いきや、なんとこれまで大谷さんの属人的ワンオペ体制でやってきたそうです…!
膨大な作業量の中でもひとりひとりと向き合うことを大切にし、約7年間「みかん援農」を一人で運営してきた大谷さん。そのモチベーションはどこから来ているのでしょうか。原点に遡ってお話を伺いました。
大谷さんは、下津町のみかん農家の長男として生まれました。学生時代、日本では都市部で働く傾向が強まり農業離れが進んでいたため、家業を“かっこ悪い”と感じ、就職を機に県外の異業種へ。しかし、2007年に父親が病に倒れたことから継業を決意し、妻子を連れてUターンしたそうです。
大谷さん 28歳で農家になって、それから数年後にリーマン・ショックや東日本大震災が起こって。世の中の価値観が大きく変わろうとしていました。だから、家業のみかん農家もこれまでのやり方だけではいけない気がして。地域に必要なことは何か、自分にできることは何か、と考えはじめたんです。
そうして、農業にコンプレックスを感じて地元を離れたことのある自分だからこそ、「いかに地元の農業を面白くできるか」ということに取り組むべきだと思うようになりました。
そのテーマのもと6次産業化を検討し、2014年に和歌山の農産物を活用した加工品ブランド「FROM FARM(フロムファーム)」を立ち上げ、商品販売をスタート。卸し先が全国に増えるにつれ、味わってくれる人たちの顔が直接見える場所があればと考えるようになり、平日は農業をするかたわら、加工所の一部を使って週末は夫婦でカフェを営むことになりました。
乖離を経たからこそ気付く地元農家の需要
「みかん援農」をはじめた経緯
客観的には順風満帆に見えますが、当時の大谷さんはジレンマを抱えていました。その理由は、地元の農家との需要の乖離。「いかに地元の農業を面白くできるか」というテーマのもと加工所や飲食店を営んでみたものの、周囲の農家が最も必要とすることは別にあると感じていました。
一方その頃、季節労働で全国の農家のもとを回っていた旅人たちが、宿の手配にかかる農家の負担を減らしたいと、神戸でシェアハウス業を営むオーナーに相談。「車で仲間と全国の産地をめぐり援農しよう!」というコンセプトで「援農キャラバン」という企画を実施したところ、農家から大好評だったのです。
しかし、神戸から各産地と遠隔でやりとりをするには限界があり、短期賃貸の収益的な課題もあって、残念ながら企画は頓挫に。企画の思いを引き継いでくれる人を探していると聞き、農家さんにとって一番必要なものは繁忙期の人手の斡旋だと気付かされた大谷さんは、すぐに名乗り出ました。
大谷さん 地元の人間が引き継いだことで、声をかけやすくなったのもあって、農家さんたちの需要が一気に溢れ出てきて。「そうか、必要なのはこれだったんだ!」と実感しました。
背景を知り、共感から導かれる、“いい循環”
下津町農家のランドマークを拠点に次なる展開へ
大谷さん どんな仕事もきっとそうですが、時給や条件だけじゃなく、地域や担い手の背景にある思いを知って、そこに共感した方が、思いが思いを呼ぶ“いい循環”が生まれる。だから「みかん援農」では、そういう気持ちの部分をなるべく前に出して発信したいなと思っています。
援農者を募集する際は、地域の課題や農家の思いを伝え、産地・農家・仲間との出会いの価値に重きを置いた告知を実施。さらに「みかん援農」のWEBサイトには、出会いの日々に溢れた援農者の体験談が本人の言葉で綴られています。
その結果、能動的に考え動こうとする若き援農者が多く集まり、彼らの働きが評判を呼び、農家から援農の相談が後を絶たなくなりました。
大谷さん そんな時、援農者の住まいのひとつとして下津町の加茂郷駅近くにあるJA支店の旧物件を活用したらどうかといった話をいただいたんです。
結局、構造的に宿泊施設にするのは難しくて。だけど、それをきっかけに、2018年に援農の農家メンバーと一緒に加茂川協議会を立ち上げて、その翌年に「KAMOGO(カモゴ)」というカフェをはじめることができました。
「KAMOGO」は、言わば下津町農家のランドマーク(目印となる場所)です。下津町産の柑橘を使用した生絞りジュースや地元の豆腐屋の豆乳を使った揚げたてドーナツなどを提供し、地場産食材のPRに励んでいます。
地元の人たちはもちろん、県外からの来店も多く、現在では年間約2万人の来客者を迎える人気店に。ここが援農者の集合場所や交流会の会場の役割も果たしているそうです。
増加する需要と供給に一人では斡旋しきれなくなったことから、2023年9月、加茂川協議会のもとで試験的に事務・広報のメンバーを迎え、援農専門の小さなチームを発足。近隣の空き家を活用して宿泊先を増やし、他産地や他産業と連携して、農家と援農者のマッチングをさらに増やしていくことを目指しはじめました。
「みかん援農」で出会った農家と援農者
世代や価値観を超えた交流が互いの刺激に
では実際に「みかん援農」を経験した農家と援農者はどういった感想を持っているのでしょうか。2019年から関わっている農家の戎映樹(えびす・ てるき)さんと、2020年・2021年に参加したことをきっかけに下津町へ移住・就農した川尻優太(かわじり・ゆうた)さんにお話を伺いました。
生まれも育ちも下津町の戎さんは、13年前、戎家が代々守ってきたみかん農園を継ぎました。規模は2.5ヘクタール、みかん約100トン分の収穫量にあたる広大さ。「みかん援農」を希望する農家は、力仕事に限界が出てきた老農家と、戎さんのように事業活性化に努める若手に二分されます。
戎さん 昔から10〜12月の繁忙期には、地元のおばちゃんやおいやんらがアルバイトに来てくれていて。だけど今ではみんな年をとって、うちも若手不足がずっと課題でした。
季節労働者を探すのはとても大変なんですよ。繁忙期が偏っているから年間を通じて雇えない。でもきちんと仕事に励んでくれる人を探す必要がある。それで「みかん援農」にお願いしたんです。最初はどんな人が来るかと不安だったけど、実際迎えてみたら一生懸命ないい子たちばかりで驚きました。
一方、富山県生まれの川尻さんは、京都の大学に在学中に休学して世界各地を旅し、卒業後は大阪の人材派遣会社に勤務。海外で働こうと退職した矢先、コロナ禍に見舞われました。
ちょうどその時、「みかん援農」を経験した友人たちから「面白いからぜひ」と勧められたと言います。
川尻さん いつも戎さんは、援農者の話を聞いて「楽しそうに生きてるな。そんな人生もいいね」と言ってくれますよね。僕らからすれば、戎さんや地元のおばちゃん、おいやんの話が面白くて。
「みかん援農」を振り返って一番に思い出すのは、やっぱり地元の人たちとの交流。寝るのが惜しいくらいのシェアハウスでの賑やかな時間も大好きですが、収穫中の寒い日に太陽の日差しが降り注いで、みんなで「あったかいね」と共感し合ったひとときが特に思い出深いです。豊かな時間だなって。
「みかん援農」の農作業は1日約8時間。手は忙しいながらも口は空いているため、和やかな雰囲気のなか、誰もが終始雑談を楽しんでいるそう。
約2〜3ヶ月にわたる「みかん援農」を介して、年齢だけでなく暮らしぶりや価値観まで大きく異なる存在同士が太くつながり、双方が毎年の出会いや再会を楽しみにする環境が築かれています。
共に過ごした時間から関係性が深まり
農家の休耕予定地を譲り受け移住・就農
川尻さんの移住・就農にはどういった経緯があったのでしょう。
川尻さんが「みかん援農」に参加して2年目に、戎さんの農園を手伝っていたある日。戎家の農園に、良質な土壌があるもののアクセスが悪い区画があり、現状の人手不足では将来的に管理が難しくなるため、近々休耕を検討中だと会話していた時のことです。
川尻さん 一緒に働いていた地元のおばちゃんが「それなら川尻くんにやってもらったらええやん」と言ったのが最初のきっかけなんです。冗談のようなやりとりでの一言だったので、その場ですぐ面白そうだなとは思ったけど、こうやって実現できるとは想像できていなかったですね。
戎さん 実現したのは、きっと川尻くんにやる気があったからちゃうかな。
「みかん援農」を通して川尻くんの人柄や働きぶりは知っていたし、その場で僕も「ええよ」とは言ったけど、内心どうするんかなって様子をうかがってた。そしたら翌年の春過ぎに川尻くんから連絡があって、大谷くんに引っ越し先の相談までしてたから、本気なんやなって思ったね。
移住や就農に迷いはなかったのかと川尻さんに尋ねたところ「なかったです」と即答。旅が好きで、今までさまざまな土地を訪れたそうですが、山があり海があり、みかんをはじめとする美味しい果物もあり、なにより人が魅力的。世話焼き上手な人が多いところに一番惹かれたと言います。
こうして川尻さんは2022年に下津町に移住し、戎さんの農園の一部を譲り受けて栽培を開始。2023年から「まどかみかん」の屋号で販売をはじめました。
下津町のみかんの美味しさや、農業の楽しさ、心豊かな日常生活など、自身が感じている感動さえも届けようと、手書きの手紙やオリジナルの月刊誌を同梱して商品を発送しているそうです。その工夫に地域への愛情が滲み出ていますね。
地方移住を考える際、どのように地域を知るのか、どのようにコミュニティに加わるのか、といった複数のハードルが立ちはだかります。しかし「みかん援農」が育む関係性が、そのハードルをスムーズに飛び越える追い風となっているようです。
必ずしも移住や就農に結びつく必要はないかもしれませんが、故郷のように身近に感じる地域が増え、家族のように大切に思える人たちが増えることは、とても貴重なことではないでしょうか。
また、川尻さんのように「みかん援農」を通じて農業や地域に愛着を持って移住する若者があらわれはじめていることに、戎さんたち農家も大きな手応えを感じています。
戎さん 普通なら人手を探すとなったら、まずハローワークに行く。だけど、給与とか条件とかを字面で伝えるだけだと、産地の求めるものやモチベーションとは異なる人が来て、ミスマッチが起こりやすい。それは他の農家でも陥りがちなことです。
だから「みかん援農」という選択肢をもらえて、川尻くんのような一生懸命ないい若者たちに毎年手伝いに来てもらえて、本当にありがたいですね。
農業に励む姿は、とてもかっこいい。
食に向き合い、新しい何かが起こるきっかけを
意義のある活動ですが、大谷さんが「みかん援農」を運営していくうえで、きっと苦労も多いはず。活動の大変さを尋ねてみると、膨大な努力の一端が見えてきました。
大谷さん 地域のためにと思ってはじめた活動なので、正直言って収益性は課題ですね。農家さんの状況もよく理解しているので、手数料は必要最低限にしたい。だけど需要は年々増えていく。そうなると、援農者さんをもっと探す必要があるし、宿泊先ももっと準備する必要があります。
また、回を重ねるごとに、この農家がいいとか友だちと一緒がいいとか、援農者さんたちの要望が多様になってくる。要望にはできるだけ応えたいし、滞在期間や、農家さんへの配置の平等性とかも考慮しなくちゃいけない。そのうえで、農家さんとの相性をふまえて、相乗効果が最大限に引き出せるようにと、毎年すごく頭を悩ませながら組み合わせを考えていますね。
そして「意外と負担は大きい。なかなか伝わりにくい立ち位置だけどね」と付け加えます。私も今回の取材で詳細を知るまで、斡旋役のポジションがこれほど複雑だとは想像できていませんでした。「みかん援農」の満足度の高さは、こういった細やかな影の努力があってこそだったのです。
そうした大変さもありながら、大谷さんが「みかん援農」の取り組みを続ける理由は、そこに大きな可能性を感じているからです。
大谷さん 農家さんはここで育って自然相手に何十年と実直に農業をしてきた人たち。その姿は、とてもかっこいい。だから、若者に響くものがあるし、若者との出会いは農家さんにとっても刺激になります。
「みかん援農」という時間を共有しながら、農家を助ける形で関係性ができるから、援農者は快く地域に受け入れられていく。そこから移住や就農につながるのは自然なことだって思います。
「みかん援農」を入り口に一次産業の現場に深く入ることで、時給や条件だけをものさしにした一過性の労働で終わらず、食のあり方に向き合い、農家と若者の“いい循環”が育まれ、今までの下津町になかった新しい何かが起こるきっかけになったら嬉しいです。
学生時代に農業を“かっこ悪い”と思っていた大谷さんの口から出る「とてもかっこいい」の言葉には、実感と重みがあります。
援農者だけでなく、「いかに地元の農業を面白くできるか」というテーマで大谷さんと活動する仲間も募集中とのこと。一次産業の現場や、食のあり方、地域との関わり方、そして大谷さんに関心を持った方は「みかん援農」からはじめてみませんか?
援農のリピーターいわく、「国内に複数ある援農の中で、みかんの収穫は特に初心者におすすめ」だそうですよ。
(写真/動画:黒岩正和)
(編集:山中散歩)
– INFORMATION –
また、「みかん援農」についてのオンライン説明会も開催予定だそうです。興味を持った方は、ぜひ参加してみてください。