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からだは星々につながる道である― “わたし” をめぐる冒険 第3回・柳元美香さん

連載『”わたし”をめぐる冒険』は、意識の探検家・三好大助が、様々な研究者・実践家のもとを訪ね、「わたしの全体性を祝福する生き方」を探求していく対談シリーズです。

第1回では、『世界は贈与でできている:資本主義の「すきま」を埋める倫理学』著者の近内悠太さんをゲストにお招きし、”贈与” というメガネを通じて世界を捉え直す方法について、お話を伺いました。

第2回は「スタンフォード・ソーシャルイノベーション・レビュー 日本版」共同発起人でもある井上さんをゲストにお招きし、マインドフルネスとソーシャルイノベーションの関係について、お話を伺いました

2回の対談を通して浮かび上がってきたのが、”わたし”自身がいま・ここの身体性とつながっていないと、社会的によいとされている活動も、それに関わる”わたし”も周りの人たちも苦しくなっていくし、結局サステナブルではない、ということ。

そこで、3回目となる今回。三好さんが過去に舞のお稽古をうけたこともある、「観音舞」の家元・柳元美香さんをお招きし、身体性と自分のあり方の関係についてお話を伺いました。

柳元 美香(やなぎもと みか:みかちゃん)
舞道家。高校生時代、短期でニュージーランド、長期で中米コスタリカにて過ごす。帰国後『日本人の血で踊る舞』に目覚め、高校卒業後2002年に舞踊家浅野瑞穂氏に師事。時同じくして古式巫女舞の家元に師事し、舞道が始まる。母国文化の源流を追求し、神社の巫女に8年間奉職。その後ほつほつと内から溢れる波を舞紡ぎ、現在に至る。「舞の道 観音舞」の家元。
三好大助(みよし だいすけ:だいちゃん)
意識の探検家。1988年島根県生まれ。バングラデシュのNGO、Google などで、テクノロジーを通じた社会課題の解決に情熱を注ぐ。その経験から「この世界の在りようは、わたしたち一人ひとりの意識の在りようとつながっている」と気づき、内的世界の探究を開始。
現在はファシリテーターとして独立し、企業の組織開発や個人の内的変容の伴走を行っている。とにもかくにも、スパイスカレーが大好き。

「自分の体を置いてけぼりにして、何するの?」

だいちゃん 僕は今、北海道洞爺湖の湖畔から入ってまして。友だちがここで村づくりをしていて、今そこに来て、ゆったりとした空気のなか、この時間を迎えています。

みかちゃんとは5日くらい前に東京でも会っているんですけど、そのときの場がすごく豊かだったので、そこから続いている流れもあるように感じているし。僕にとって、大好きなみかちゃんのエネルギーをより多くの人に、必要な人に触れてもらいたいなっていう気持ちもすごくあるので。

うん。なんかそういう意味でもすごく嬉しい。

みかちゃん うれしい。だいちゃんにインタビューをお願いされてから、すごく楽しみにしていました。私も、今この時期にこういう場があることにすごい意味があることだなと思っています。

だいちゃん ここまで過去お二人のゲストとお話をさせてもらってきたんです。共通していたのは「頭の中からひねり出した答えは、正しいようにみえるし、短期的には合理的」。なんだけど「長期的には自分を、周りのひとを、社会を潤すってことは難しい。何かが犠牲になってしまう。それはその答えが自分の身体性に根ざしたものじゃないから」だと。

結局、ひとりひとりが、自分の「今ここの体感」をしっかりと味わって、「わたしのいのちが今ほんとうに満たしたいこと」につながった状態で選択していかないと、結局その答えはサステナブルじゃないし、選択した本人も苦しくなるよねっていう。

みかちゃん そうだよね。というか、それは当たり前というか、そういうこと自体がテーマになること自体、わたしにとっては新鮮な感じがします。実際、自分の体を置いてきぼりにして、何するの? みたいな。

だいちゃん 今日、対談するにあたって、いろいろあらかじめ考えてたこともあったんだけど、なるべくこの流れを大事にしたいなとも思ってて。みかちゃんにとって、今のこの世の中がどんなふうに見えていたりするのか、聞いてみたくなったんですけど。

みかちゃん そうだね。何か、いい方向にいっているなって感じ。来てる、来てる、みたいな。心と体が分離していては、もう先には進めないよっていう過渡期にきている。

外側の情報だけでは、自分では何も決められないじゃない? この現実も、この世界も、自分が見たいものを見ているわけだから。

だいちゃん 一人一人がどういう世界を見ているのか。

保守的な肉体と積極的な霊性を統合する

みかちゃん 「観音舞」って「音を観る」って書くでしょ。この世界は、3次元の物質をベロっとはがしたら、波の連動だけ。全てが波の粒々で、無機物も有機物も全部本質はそこにあって。でも、同じものを見ても、それぞれ視点が違う。それは何かって言ったら、その音のどの側面をどう捉えるかという、周波数の違いなんです。

そして、その捉えたものの反響を、“わたし”としてまた世界に返して。またその反響が返ってきて。そのつらなりでしかないんですよね。

だいちゃん 「音を観る」という感覚、もうちょっと聞いてもいいですか?

みかちゃん 波動ってつまり、その人の回転軸から放たれる音の動きなんだよね。それが滞ってるのか、発露されているのか。他の影響によって動かされているのか。磁力を失っているのか。全ては波動に表れるの。

だいちゃん 磁力?

みかちゃん そう、磁力。人って、プラスでもマイナスでもない、ただニュートラルに自分の場所に立てたときに、磁場が生まれるんですね。わかりやすく言うと、相手に対して積極的でもなく、引いてもいない状態。

だいちゃん 自分がニュートラルなところに立つと、磁場が生まれる?

みかちゃん そう。「この人、引きが強いよね~」とか、「あの人、オーラある! 」みたいなことってあるじゃん? そういう人は、霊性が肉体をうまく乗りこなしている人だと思う。肉体に霊性が侵されているんじゃなくて。

肉体と霊性って全く違う性質なんです。肉体は有限で、保守的。霊性は無限で、積極性。舞っているとすごくよくわかるんだけど、肉体を超えようとすると守りが入るの。これ以上いかないでくださいって。

だいちゃん 肉体の方が、「ちょっと待ってくださいよ」ってブレーキを踏む感じなのかな。

みかちゃん そう。なぜかっていったら、肉体は変化を恐れるの。とにかく保持を望むから。

だいちゃん 体にとっては、体を生存させることが大事ですもんね。

みかちゃん そう。だから、そこを越えようとする霊性の部分があると、ちょっと脅威なんだよね、肉体にとっては。だけど、体の一つ一つのパーツの性格を知ると、霊性は肉体を乗りこなすことができるようになる。

だいちゃん パーツっていうのは、腕とか、頭とか、指先とか?

みかちゃん 骨盤とか、背骨とか、胸とか、頚椎とか、首の骨とか。背骨でも、「背骨」って言っても、骨ひとつひとつ、担っているものが全く違うわけで。だから、パーツの性格とは違うことを体にやらせちゃったりすると、エラーが起きるのね。

例えば、荷物を運ぶとき。引っ越し屋さんとかはわかると思うけど、腕の力とかで無理やり重いものを持つと、どっかがエラーを起こす。肩が凝るとか。やっぱり、下半身から持って、骨盤でささえた方が良くて。そういう、体の性格にあった自然の摂理、自然のことわりに乗せることができれば、全てが循環していくわけ。滞りがなく。

だいちゃん 霊性は無限だけど、肉体はこの体を生存させるってことが目的だから、当然そこには矛盾が生じる。この矛盾を統合するには、自分の体のパーツの役割を正しく理解して使ってあげると、それは流れる。そんな感じかな?

みかちゃん そう、そう。でも、現代の人は、脳で把握しようとするでしょ。そういう人にこそ仲良くなってほしいのは「脳みそ」なんですね。やっぱり。

呼吸を整えて、なりたい周波数帯になる

だいちゃん 脳みそと仲良くなるって、どういうことなんだろう?

みかちゃん 脳は快楽を求めるから、快の方向に認識づけすればいいの。

例えば、やらなきゃと思っているんだけど、面倒くさいんですっていうことって、たくさん生じるじゃない? 筋トレとか、お稽古とか、もっと言うと、日常の家事とか。これはもう、わかりやすく心と体が別の方向を向いているんだよね。拮抗しているの。体は楽になりたいわけ。だけど、精神的には整ったほうが気持ちいいよね。

だから、三日坊主って、精神が肉体を動かす力を失ってしまった状態なの。たとえ続いたとしても、その状態だと我慢、我慢、我慢で、結局どこかでリバウンドしちゃうんだよね。爆発する。このやり方は賢くないんです。

じゃあどうしたらいいか? っていったら、脳みそをだませばいいの。動くことが面倒くさいというところに視点がフォーカスされると絶対体は動いてくれないから。だから、いかに脳と仲良くなるか、が大事。

だいちゃん 「快に騙す」 って、例えば、皿洗いしたくないな、でも、しないと台所が汚いよね。この葛藤に対して、「皿洗いをしたあと、こういう気持ちよさがやってくるから、やってみなよ」っていう風に脳みそに言い聞かせる、みたいなこと?

みかちゃん それはね、ある意味あってるんだけど、間違ってる。そのやり方だと、肉体を動かすまでの力を得ないんだよね、頭の中で。でも、それは最初の一歩ではある。

だいちゃん うん。僕もそのやり方だと挫折すると思う。この皿洗いの例えはたぶん、何にでも通ずるからすごく大事な話だと思うから、もっと詳しく聞きたいな。

みかちゃん ひとことでいうと、呼吸法なんです。頭を騙すとき、頭を頭で制しても頭は動かないんですね。じゃあ、なぜ呼吸かって言ったら、呼吸は波動領域だから。

だいちゃん ふむふむ。

みかちゃん 霊性の波を、肉体レベルにつなげる必要があって。すごく自分が良い状態の波動をイメージする。想像できた時点で、もう、本来わたしは源とつながっているから、そのエネルギーを引き込むことができるの。引き込んだうえで、それが「現れ」になるから。

「自分のなりたい周波数帯になる」っていう呼吸ができれば、脳は落ち着いてくれる。そういう呼吸をしたら、勝手に体が動き出す。

だいちゃん 勝手に。

みかちゃん うん。霊性ってこういう性格、肉体ってこういう性格ってのをまず知って。それをつなげるのが呼吸だから、その呼吸のヘルツを思い出すだけでいい。そのヘルツを思い出しさえすれば、勝手に体が動くんだよっていうことを、まずは1回なじませる。

肉体は長きにわたって焦らされてるから、「行動できるか、できないか」は置いておいて、「安心」っていう自分のゼロ磁場に戻るまで待とう。待つことも大事だから。

今の人って、「できるか、できないか」とか、「行動に移せるか、移せないか」みたいな、結果思考なんだよね。でも、これを自分の真ん中にこうやって噛み合わせたときに、必ず力って取り戻せるから。一旦、できるできないは置いておいて、源に戻ろう。大丈夫。安心して帰ろうよ、みたいな感じ。

だいちゃん つまり、問いがそもそも、「皿洗いをうまくするか、しないか」っていうことじゃなく、「呼吸の源」って言っている、ゼロ磁場のニュートラルなポイントに自分が行ったときに、ものは動く。

答えは、体が返してくれる

みかちゃん そういえばこの前、御嶽で拝みをしたときに、その土地のエネルギーが、わたしにすごく綺麗な、そしてずっしりした球をくれた感じがしたんです。くれたっていうのは、エネルギーがわたしに向かってくる感じで、それをここに今集ってる仲間たちにこれを分かち合わなきゃって思ったの。

だいちゃん うん。

みかちゃん そしたら、その球が「スコン」ってわたしにはいってきて。波動だから、音でも言葉でもないから、あくまで感覚による解釈なのだけれど、それが「先ず、自分にフォーカス」って伝えてきた。で、わたしは「そうだ。今、ここに全集中しよう。今を生きよう」と、その球を受け取ったの。

そしたら、その球がわたしの体からみんなの下腹部らへんにも入って、お線香のけむりみたいに、たまゆらが生まれたような感じがあって。煙みたいな光は、背骨を通って、みんなの頭長から、その光が抜け出ようとしている光景が見えたとき、わたしが“軸”って呼ぶものは、もっとしなやかなものなんだ、という深い気付きがあって。

だいちゃん うん、うん。

みかちゃん 結局、わたしが何かをしようとしなくても、わたし自身が今この瞬間しっかり受け取ったら、あとはいいようになるなって。委ねさえすれば、エネルギーはいいように発露するでしょう、っていう体験だったんだよね。

だいちゃん 「身体的に源に立ち戻る」ということを、いろんな人が言葉で言ってきたけど、なかなか伝わりにくかったりしますよね。今の話はすごくヒントになりそう。

みかちゃん 難しいことにしすぎちゃってるんじゃないかな? と思う。実は、すごくシンプル。

足首を回すとき、今の体の感覚が生まれるじゃない? 体の自然な作用。わたしは、それを傾聴し続けてきただけ。筋肉ってぐっと力がはいると、床に拮抗するんだよね。で、ばねができちゃう。だから「軸を取ろう」とか「重力に体をこうおこう」とか、考えるより、いかに筋肉の力を「ふー」って呼吸でゆだねて、大地に溶かしていくか。

自然と調和していく自分の生命の現れを体に問い続けてきた結果を、わたしはずっと聞いて、拾い続けてきた。今もその真っ只中。舞うことが、好きとかを超えて自分そのものだっていう感覚に至ったのは、体が全部教えてくれた。答えを体が返してくれたの。

だいちゃん 答えは、体が返してくれる。

みかちゃん だいたいのことって、視野を広げて全体性を思い出せば、必ずミクロとマクロで噛み合わせになってることに気づく。でも、ヘルツが変わるとそこが見えなくなったりもする。わたしは舞の中で、この当たり前の全体性を感じてるんだと思う。

星々とのつながりとか地球と宇宙と対自分っていう。全部はこの体の中に全てあると思ってるんですよね。それは、体が教えてくれたことなんです。体って道なの。

だいちゃん またパワーワードが、来ましたね。

みかちゃん 魂への道だし、宇宙への道だし、地球への道。全部の道。それは踊っていればわかる。つながるってこと。

だいちゃん 踊るってことは、体を道にして、地球に宇宙に星々につながるってことでもあると。

みかちゃん そう。それは、わたしの始まり。わたしの来た道、そのもの。

だいちゃん そうか、みかちゃんにとって、踊ることは、つまり自分の始まり、自分の源に触れるってことなんだね。

「みかちゃんは、舞う人だから」のひとことから

だいちゃん 一言では語りきれないことは重々承知なんだけど、改めて、みかちゃんがこの観音舞という形で分かち合うところに辿り着いたのには、どんなストーリーがあったのか聞いてもいい?

みかちゃん 家族ぐるみで仲良くさせてもらっている、お父さんみたいな人がいて。ちっちゃい頃からわたしのことを見てくれているのだけど。物事は全てシンプルだよとか、宇宙とか自然の理りを教えてくれた人。

で、高校生のとき、留学から帰ってきたタイミングで、その人が「みかちゃんは舞う人だから」って、一言。たった一言だったのだけど、わたしは「あ、自分は舞うのか」って素直に頷いて。

だいちゃん そのひとことで!

みかちゃん うん。それで、舞うとなったときに、「自分の血で舞えるものがいい」って思ったの。海外から帰ってきた後だったということもあって。やっぱりフラメンコは本場の人には負けるし、ストリートダンスも素敵なんだけど、何か合ってないという感覚があって。一方で、日本舞踊や能、歌舞伎みたいな日本の伝統芸能といわれるものは、自分の感覚では新しい感じがして、ちょっと違うな、というのもあって。

もっともっと根源的な古いものを探していたときに、浅野瑞穂さんという舞踊家さんの舞台を紹介されて。これを見たときに「これだ!」と思ったの。

その方は創作の舞を踊っていらっしゃったのだけど、実は、その方の先生が古式の神楽舞の家元で、源に日本の古式の舞があったんですね。舞台を観たときはそのことは知らなかったのだけれど、直観的に「これだ!」という感覚があり、それで、「この方に弟子入りしたい!」と思って瑞穂先生に弟子入りしたと同時に、その先生の師匠である家元にも師事する機会をいただいて。二人の師匠に出会うことが叶い、わたしの舞の道が始まりました。

だいちゃん うん。

みかちゃん もうそこからは本当に・・・舞しかしてないって感じ(笑)稽古してバイトして、稽古してバイトして。たまの休みの日は自然の中に入る、みたいなことをずっとやってきました。携帯には家族と先生と姉弟子の番号しか登録してなくて、誰にも連絡しない生活。

日本の古式の舞から学んだのは、「間合い」にこそ全部のリズムがあるということなんです。それは単調ではなく、とてつもなく壮大で劇的。日が登っては沈んで、登っては沈んでっていう、森羅万象のひとくくりの中にある全てのリズム、全てのハーモニーが間合いの中にある。

でも、それがわかったからって、すぐできるわけじゃなくって。そこにチューニングするのがものすごい大変。それこそさっきの、お皿を洗いたいけれど、洗いたくないっていうのと同じ。自分の今の肉体が持つ周波数と自分の根っこが持っている周波数が、かけ離れていれば離れているほど、すごい腰が重いわけ。

でも、やっぱり「どっちに行きたいか? 」って自分に聞いたら、魂にいきたいに決まっているんだよね。自分とはかけ離れてるが故に説得力があるわけ。なんかあるんだなって。

「好き」とか「ワクワク」を超えたもの

みかちゃん おもしろいことに、呼吸にフォーカスすると、自分の「好き」とは真逆の動きが出てくるんだよね。表の自分とは全く違うもの。一つの所作を通すのにものすごい時間がかかって、ゆっくりとした動きが自分の中から出てくる。

だから、よく「好き」とか「ワクワク」にしたがって生きよう! って聞くけど、それだけじゃないなって。

だいちゃん 「好き」だけでは進めない。

みかちゃん いや、もう、ワクワクとか好きだったらどんなに楽だったでしょうね、と思うよ(笑)何もキラキラしていない。何もワクワクしない。躍動感とかゼロ。だけど、わたしから出てくるものがこれ、みたいな。

だから、道半ばのときは自分が進んでるのか退行してるか、わかんない。「ただただ」って感じ。ただただ、ただただ。

だいちゃん ただただ、淡々と「今はわからない」って感じ?

みかちゃん いや、うずくまってたし、這いつくばってたし、モヤモヤしてた。じゃあ、どうしてそこまで?というと、「初心」なんですよね。鮮やかに自分の中を駆け抜けた初心。「これだ!」ってひらめいた初心。

でも、ひらめくことなんて簡単なんです。だってそういう生き物だもの、人間って。だから、ひらめいてからどれだけそれを信じて持続できるか。「継続」って自分を信じた証だし、自分を信じてるっていう行いそのものだと思う。

だいちゃん いやー。(長い沈黙。)もうね、腹の底が熱いです。ずっとふるふるしてる。今。僕のこのお腹のふるふるは、みかちゃんが今言った「初心」につながっている気がする。流れたがっている何かを教えてくれてるっていう感覚。

みかちゃん 嬉しい。うん。超えられてよかったな、って思う。あの進んでいるのか退化しているのかもわからない、洞窟にいた暗闇の期間を。

師匠についている時代だったら、進んでいる感じがするじゃん。先を行く人がいて、そこを習えばいいだけだから。でも、自分の道をいかなきゃいけないとき、真剣であればあるほど、それがあってるのかあっていないのかっていうとこにすごい執着があった。今なら「できている、できていないなんて関係ないよ」って言えるけど。

師匠を離れたときに言われたのは、「自然の全てを師匠としなさい」ということ。今も、本当にひたすらそこに向き合っている。

だいちゃん 僕もだし、読者の人も、そういう暗闇を歩いている人がたくさんいると思う。時代も時代で、地図なんてないし、洞窟の中にわかりやすいランプみたいなのがあるるわけでもない。だから、この自然の一部としての自分の体が、一人一人の松明になるんだろうな。

みかちゃん うん。ほんとそうなんだよ。導いてくれるのは自分自身。外には何もないんだよね。それを思い知らされた10年だったな。

でも、いつからか、気がつけば抜けていて。それはたぶん、自分の中が統合されたタイミングなんだけど。スーパーピュアな、本当に交じりっけがない自分の内側が表に発露したタイミング。そのとき、いろんなことが現実的に動き出していったんだよね。

「観音舞」という名前もいただきもの

みかちゃん ちなみに、「観音舞」って名前は、そのあたりからなの。最初は「舞の道」って呼んでいたのだけど。もっと最初は「名前なんてなくていいじゃない、『舞』ですよ」って言っていたのだけど、ほら、呼ばれるために名前をつけなきゃいけないから。それで活動していく中で、「舞っている姿が観音様みたいだね」って、誰かが「観音の舞」って言いだしたんだよね。

だいちゃん えー!そうだったんだ!

みかちゃん そう。そういうふうにどなたかがご紹介してくださって、「観音舞」の方が広がって、わたしはそれを受け入れた。別に「観音の舞じゃないんです」って言う必要もないし、だったらいただきものとしてこれを「観音舞」って名づけようかって。

そしたら・・・すごいね、この世界は。名前をつけるということのパワフルさをすごい感じたよ。「観音舞」って名前をつけたときの飛躍度たるや。「観音舞」っていうものが待っていた感じ。そうやって名を得た舞がわたしの肉体に噛み合った瞬間に、さらに躍進してことが大きくなっていったの。

もちろん、どうしても「観音舞」っていう名前と自分の不一致さに長く悩んだ時期もあった。でも、それも「あ、わたしは名前を受け入れられてなかったんだ」っていうことを自分が受け入れたときに、全部がパーンと反転して、すごい大事なものになって噛み合ったっていう感じかな。

たから。体にも心にも正直であることが、まずは必要ってことかもしれないね。

(対談ここまで)

 
 
グリーンズ史上でもまれに見るディープな記事になってしまった気がします(笑)。この対談の原稿自体が「あたま」で読むものでなく、「からだ」で感じることを試されるというか。僕自身も今読み直して、正直「あたま」がくらくらしちゃいます。

それほどまでに、みかちゃんの言葉は彼女の「いのち」からあふれたもので、たとえ文字越しだろうと、僕らの「あたま」をすり抜けて、「からだ」の深いところを震わせてくれるんだなと感じています。

「ほんとうの答えは、すべて知っている」
「からだは、その真実にいたる道である」

対談からいただいたこの知恵を手がかりにして、さらなる「わたしをめぐる冒険」に出かけます。次回もお楽しみに! (三好)

[編集: あいだきみこ]
[画像提供: 観音舞instagram]

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