近年、日本では毎年のように自然災害による大きな被害が伝えられています。
2020年にも全国で豪雨の被害が相次ぎ、7月には熊本県を中心とした地域で、多くの方がコロナ禍での被災生活を余儀なくされました。また、昨年以前に台風や地震の被害に遭った地域でもいまだ復旧作業が続いているのが現状です。
今回ご紹介する「特定非営利活動法人災害救助レスキューアシスト(以下、レスキューアシスト)」は、こういった現場に災害発生後72時間以内に駆けつけ、要配慮者(障がい者、高齢者、外国人、妊産婦、難病患者、子ども)の救助活動や被災住民の支援活動などを行っています。
代表の中島武志さんに、団体の設立背景や活動内容、被災地の課題などを聞きました。
1977年生まれ。ニックネームは武ちゃんマン。特定非営利活動法人「災害救援レスキューアシスト」代表理事。新聞配達、居酒屋店員、板場職人、大工見習い、サイディング見習い、塗装業職人、介護職員、パチンコ屋店員などさまざまな職歴がある。
転がりこんだ1800万円の使い道は、
東北でのボランティア
中島さんのボランティア活動は東日本大震災からはじまりました。
転がりこんできた1800万円を東北でばらまいて、ちょっとカッコつけて帰ったろと思ったんですよ。
東日本大震災が発生する少し前、大阪で鯛焼き屋を経営していた中島さんの手元に、叔父さんの遺産が入ってきました。レスキューアシストがつくられる少し前のことですが、まずは中島さん自身のぶっ飛んだ人生のストーリーとともに、災害現場の知られざる真実をお伝えしましょう。
「やったー!」と思って鯛焼き屋を閉じ、以前は介護職をやっていたので介護タクシーの事業をはじめようと準備をしていたんです。
普通自動車二種免許を取得し、開業準備中だった2011年3月11日に東日本大震災が発生し、中島さんは被災状況をテレビで見て大泣き。事業のために納車されたばかりの8人乗りの新車に支援物資を積み込み、知人からボランティアを募集していると聞いた宮城県石巻市の石巻専修大学へと向かいました。
地震発生から8日後に到着しました。日中なのに外が暗くて、戦場のようでした。初日は、寄付で集まった支援物資の仕分け作業をしました。ダウンジャケット2枚しか持参せず、ガソリンを節約するためにエンジンをかけず車中泊したら凍傷になりかけ、一睡もできませんでした。いま考えてみれば、被災された方も同じ状況でしたね。
翌日以降は、海外から駆けつけた多国籍の医療班のドライバーとして活動することに。
医者が同乗していると通行止めエリアへも立ち入りできたため、各地の被災状況を把握できた中島さんのもとには、さまざまな支援団体の代表者たちが情報を入手するため集まってきたそう。ところが、支援者同士でニーズの取り合いが起きていることや、何もかも支援することで住人たちをダメにしていることに気づき、中島さんは次第に疲れてしまいました。
漁港で漁師網をほどく作業をしていたら、「お前らやっとけよ、パチンコ行ってくるから」と漁師さんに言われたときはすごいショックでしたね。最初はありがたがられるんですけど、途中で「手伝うのが当たり前」みたいになってしまって。
被災地に85日間いましたが、途中で心が折れたんですよ。燃え尽き症候群です。もう2度とボランティアなんかせんとこうと思い、石巻を出ました。
傷心の中島さんは車でさらに北上し、北海道一周を企てました。途中で立ち寄った富良野のキャンプ場でアルバイトをはじめ、ジンギスカンを焼いていた時、石巻で支援活動をともにしていていた友人から、「和歌山の那智勝浦で被災した」と連絡を受けたのです。
次々と災害現場へ。
熊本地震でレスキューアシストを設立
2011年9月、台風12号の影響で紀伊半島を豪雨が襲いました。中島さんの友人がいた和歌山県那智勝浦町では多くの家屋が浸水、全壊するなど、甚大な被害が発生しました。
北海道から現地に駆けつけた中島さんは、SNSを使って那智勝浦町のボランティア募集を呼びかけ、集まった人たちを大阪駅近くまで車で迎えに行き、和歌山まで送迎する生活を約1ヶ月半続けたといいます。
那智勝浦町で出会った仲間たちは今、いろんな団体の代表をしているんですね。被災地では寝食を共にし、日本の災害支援について意見を言い合っていました。睡眠時間が毎日1〜2時間で常にアドレナリンが出ていましたが、終わったらやりきった感がすごくて、グッと落ちて心が病んでしまって。
しばらくはパチンコ通いの生活を続けた中島さんでしたが、若い頃に世話になった棟梁からの依頼で兵庫県丹波市で古民家のリフォームの仕事を始めました。
これが転機となり心身共に落ち着いた中島さんは、Facebookで「地震の勉強会がしたい」と仲間を集め、実際に被害のあった地域を訪れて話を聞くなどして、多くの知識を身に付けたそうです。その防災知識をもとに、災害が起きる度に日本中の現場にボランティアとして足を運び続けました。
そして、レスキューアシスト設立のきっかけとなったのが2016年4月の熊本地震でした。
いち早く熊本に行きました。72時間以内に要配慮者を探し出すために、現場ではどうしても重機が必要だったんですよ。それまで一度も「お金をください」とか「寄附金ください」とか言ったことがなかったんですが、SNSで募集したところ、一気に70万円の寄付が集まり、重機を借りることができました。
寄付金を募るにあたり、中島さんは「レスキューアシスト」を設立。熊本市東区に複数の団体と共同で民間のボランティアセンターを立ち上げました。
一番多かった依頼は「倒れたブロック塀を撤去してほしい」というもの。次いで「ブルーシートを屋根にかけてほしい」というものでした。
ブルーシートを張るのは危ないので最初は断っていたんですが、毎日のように泣きながら「助けてほしい、行政に連絡しても聞いてもらえない」という電話がありました。それで屋根の上での作業経験のあるボランティアを募って取り組むことにしました。
熊本での2年にわたる支援活動は助成金を使っていたものの、資金はどんどん減っていったと振り返ります。
地震の影響で家も職も失った男性を雇っていました。茶髪の今どきの青年です。お金がないなか、なんとか工面して給料を払って手伝ってもらいました。僕がいなくても現地での活動ができるようになってきたので「レスキューアシスト熊本」という団体をつくって後を託し、奈良の自宅に戻りました。
BRIDGE KUMAMOTOが伝える、レスキューアシスト熊本の災害支援の様子。茶髪の青年だった吉住健一さんが現在、活動を引き継いでいます。
自治体、社協、自衛隊、支援団体、民間企業…
それぞれの良さをいかして連携
熊本から奈良に戻り間もない2018年6月18日、大阪北部地震が発生しました。
まず震源地の高槻市の災害対策本部に行くと「ボランティアセンターを立ち上げるかどうかまだわからない」ということだったので、隣の茨木市に行くと最初の一言目が「助けてください!」だったんですよ。茨木市の社会福祉協議会(以下、社協)の職員さんが勉強会で顔見知りだったというのもあります。
中島さんは茨木市に防災拠点をつくることを決め、Facebookに投稿。すると次の日には全国から災害支援団体が30団体ほど集まり、茨木市役所前の茨木市中央公園にテントを建て「茨木ベース」が立ち上がり、中島さんはすべての団体を束ねる代表となりました。
怪我人を出してはいけないので、被災地に入る団体の条件を厳しくしました。
その条件とは、レスキューアシストを含む幹事となる4団体が認めた団体以外は茨木市で活動できないというもの。各団体と連携しながら、中島さんたちはブルーシート張りなどを続けていきました。
大阪北部地震で一番変わったのは「自衛隊が屋根に上りブルーシートを張ってくれたこと」と中島さん。
自衛隊の張ったブルーシートのクオリティでは1週間しか持たなかったので、僕たちが全部修理したんですけどね(笑) でも、自衛隊が屋根に上ったのは大きな進歩です。ボランティアは屋根から落ちても自己責任で、大した保障がないですから。
中島さんたちは毎日夕方に茨木ベースに戻り、テントの中で社協や市の職員も一緒に、各団体の状況報告や会議を重ねました。
ボランティアセンターを社協が立ち上げ、市が災害ゴミの受け入れを担当するなど、これまで訪れたどの被災地よりも連携がうまくいったのは、中島さんたちのような災害現場での支援経験者の声を聞き入れる土壌が地域にあったからだといいます。
僕らは地域の「受援力」が大切だと思っています。“助けを受け入れる力”ですね。被災地の自治体や社協が経験もなく自分たちで何とかしようとしても、どうにもならないことが多いんです。
よく連携が大事って言いますけど、超むずかしいんですよ。まず自治体は前例がないと動きにくいし、社協もできればリスクを負いたくない。でも僕たちは被災者にとって本当に必要な支援ができるように、住民さんに耳を傾けて、さまざまな分野の方と連携しながら活動するようにしています。
中島さんは茨木市に入ってすぐに、社協の職員と被災状況を見て回りました。職員に対し住民への声のかけ方をレクチャーしながら、被害状況によっては住民の家屋に入り、ニーズ調査を行っていきました。
また、屋根の点検では高所作業に入る前に、民間企業の力を借りたといいます。中島さんがおおさか災害支援ネットワークを通じて出会った、ドローンを操縦できる人に屋根を空撮してもらい、瓦職人さんにチェックしてもらったことで、結果的には、300軒ほどあった修繕依頼のうち200軒ほどの依頼がなくなったそうです。
雨漏りするようなズレ方かどうかは瓦職人さんが見ればすぐにわかるし、ちょっとのズレであればその場でサッと修繕してくれました。瓦屋さんの技術と上空から確認できるドローン技術の力が大きかったですね。
2019年は台風15号、19号の被害にあった千葉県鴨川市へ。
鴨川市入りすると、多くの家屋の屋根が飛ばされていて、とてもじゃないけれど災害ボランティアだけで対処できる数じゃなかったんです。いちはやく自衛隊に動いてほしかったのでメディアの力を頼りました。
中島さんは某通信社の友人に声をかけ現地で自分を取材してもらい、「現場には自衛隊が必要だ」とメディア上で呼びかけたところ、2日後には鴨川市への自衛隊派遣が決まったそう。
千葉県庁にあった自衛隊本部で講習会を開かせてもらいました。茨木市の事例をもとにブルーシートの張り方をレクチャーし、屋根に登る時には瓦を割ってしまわないように足袋を履いてもらうよう伝えました。
2020年3月には、鴨川市で行政や企業、NPOなどが集う災害支援のシンポジウムを開催する予定でしたがコロナ禍のためやむなく中止に。その間、中島さんはボランティア活動のガイドライン作成に専念したといいます。8月には鴨川市と災害協定を結び、他の自治体からも注目を集めました。今後ますます、レスキューアシストと各自治体との連携に期待が高まります。
目指すのは人材の育成と、
被災者をダメにしない支援の仕組み
中島さんは、これから目指していきたいことのひとつに人材育成があると言います。
被災地で僕と同じ仕事ができる人をもっと増やしたいと考えています。
その対象は、全国から駆けつけるボランティアだけでなく、被災した現地の人も。「レスキューアシスト熊本」のように、被災地の支援と同時進行で地元の災害支援チームをつくり、地元のチームだけで活動できるようになってから完全に手を引くのがレスキューアシストのやり方です。
災害支援って終わらないんですよ。災害初期は支援団体やボランティアさんがたくさん集まり、困っている人を手助けしようと頑張るんですけど、しばらくするとどんどん減っていきます。長期間被災地にいると「次はこうなる」「次はこれが必要になる」ということがわかりました。だから地元で自分たちで災害支援ができる人を育てることをすげえ大事にしているんですよ。
最終的に中島さんが目指すのは、被災地の住民や支援団体がより安全に活動するために、怪我を減らすことができる仕組みづくりだそう。2020年7月には、災害ボランティアを継続的に研修・育成するプログラム「Re:YELLーリエールプロジェクト」を立ち上げました。
現在、リエールプロジェクトには約20のボランティア団体が加盟しており、参加者は半年にわたり6つの団体に1ヶ月ずつ研修に行き、それぞれの良い部分を見て学べるシステムになっています。現場で団体同士がうまく連携できるよう、顔つなぎしていくのも狙いのひとつです。
自己流は難しく、なかなか成長が遅い。何が正しいのかもわからないですから。
もうひとつ、現在着手しているのが、「被災地支援物資.com(仮)」というウェブサイト。被災地に必要なものがリアルタイムでウェブサイト上にラインナップされ、現地で支援活動をしている団体にきちんと物資が届く仕組みを考えているのだとか。
支援物資を送ってくださる人はその人なりに考えた物資を送ってくれます。テレビなどで「衣服が足りない」「おむつが足りない」と伝えられると、被災地にそればっかりが集まります。でも実は被災地にはお金さえあれば買えるものも多いんです。僕は、“被災者をダメにしない支援”“もう一度希望を持てる支援”を目指したいんです。
ちゃんと現場でデータを取って、初期段階に必要なもの、1週間後に必要なものがわかるようにしたい。また、初めてボランティアに参加する際に必要なセットを販売するなど、いろんな企業の協力もいただいてwin-winな関係をつくっていきたいんです。
コロナの影響で多くの人の収入が減っている今、「寄附金だけで被災地を支援するのはなかなかしんどいので、自分たちで資金を稼ぐしかない」とも語ってくれました。
中島さんの活動を紐解くと、日本の被災地における課題が凝縮されていました。次はあなたのまちが被災地になるかもしれません。
中島さんの場合、ご自身のキャラクターや行動力で上手に行政や社協などと連携してきましたが、これからは中島さんのつくる「被災地支援物資.com(仮)」 などを活用することで、読者のみなさんもたやすく支援に参加できる状況になることを期待します。もしものとき、自分はどんな行動ができるのか、中島さんたちのウェブサイトを確認しながら考えてみてください。