大人たちの真剣な遊び、
幸せな生き方を見つめ直していたら、
それは地球と向き合うことだった。
地球温暖化や気候変動がもはや未来予測などではなく、さまざまな国で異常気象による災害が、顕著に起こりはじめていると感じる今日この頃。神奈川県は横浜市で、無農薬無化学肥料の都市型農業を志した「横浜健康ファームともだち」の阪田守昭さんと、おなじく横浜市は金沢漁港で、杉の5倍のCO2を吸収する昆布の養殖を志した「一般社団法人里海イニシアティブ」の富本龍徳さんによる「コンブ堆肥化プロジェクト」がはじまった。
横浜市だけで完結する〝地域循環型社会〟を新たに構築。年の差が親子ほど離れた2人が出会い、なぜ彼らは環境問題に関心を抱き、具体的解決策へと行動したのか、その〝人間味〟に迫った。
森と川と海は繋がっているから
畑には海のミネラルが必要
通勤ラッシュで、足早に行き交う人々があふれる横浜駅。畑どころか土さえも見つけることが困難な、高層ビルが建ち並ぶ。そこからバスに揺られて15分ほどの三ツ沢池で下車。細い草むらの坂道を登りきると、視界に飛び込んできたのは見渡すかぎりの野菜畑の丘。
「横浜健康ファームともだち」の阪田守昭さんが笑顔で迎えてくれて、たったいま掘ったばかりの、まだ土だらけの里芋をひとつひとつ丁寧に水洗いしながら、話を聞かせてくれた。
森と川と海は繋がっているから、畑には海のミネラルが必要だという考えはあった。
阪田さん 確かに畑はミネラルが不足している。ミネラルはどこからくるかっていうと、土の中で岩石が壊れたものがミネラルとして溶け出したり、それと雨。
阪田さん ミネラルをふくんだ雨が地上に降り注いで、畑の土にミネラルが補給されていく。それプラス、海のミネラルを撒けば効率的で、それが昆布だっていう思いはあった。
以前にも、嵐のあとには海岸に海藻が打ち上げられるから、有効利用してほしいという話はあったという。けれども嵐のあとは自分の農場も大変なことになっているし、海岸に打ち上げられた海藻は果たして廃棄物なのか、それとも漁業権があるのかで頓挫したという。
「土が、好きだからさ」
死生観に見舞われて
未曾有の大災害、東日本大震災。阪田さんはその時、大手水産加工品会社で冷凍食品販売の責任者だった。三陸の同社加工品工場や冷蔵会社が津波の甚大な被害を受け、従業員やその家族が亡くなられた。震災後すぐに訪れた気仙沼や石巻の壊滅的な惨状。まだ多くの人々が見つからない現実に、この世の地獄のような光景を見たという。
それから1年間、部下の面倒を見て、人から物から工場と最後まで責任を果たして道筋がついたころ、近く定年を迎え、さらに雇用延長でこのまま働いたあとに、自分には一体なにが残るのかと自問した。
阪田さん ここまでやったら、もういいかなと。もしかしたら私だって、明日災害や事故で、本当に将来やりたいことができないまま、死んじゃうかもしれないという死生観に見舞われて。
このままでは終われないと思い立ち、家庭菜園ではなく、ほとんど未知の世界だった農業の勉強を始めた。震災の影響下での責任者としての仕事と、農業大学校の実習生として二足の草鞋を履き、部下や仕事の後始末を済ませて、定年を待たずして早期退職し、しばらく無収入となる駆け出し農民の道を歩んだ。
どうして農業だったのですかと、野暮な質問をしてみた。
阪田さん ・・・・・・・・・・・(長い沈黙)好きだったから。好きだからさ。あまりにも違う世界にいたからかな。土じゃないところにいたからかな。その反動だね。
心の豊かさも大切
でも稼がないでどうやって生活するの?
阪田さん 僕は商売人だよ。
と阪田さんは断言する。地方で農業をやろうとは思わなかったという。
阪田さん あのさっ、誰でもさ勉強すれば野菜は作れるのよ。作れるけど、どうやって売るの?
野菜が好きで、田舎が好きで、お金の豊かさよりも心の豊かさを求めて、地方へ移住する家族はたくさんいる。ところが野菜の売り方がわからずに、結局お金が行き詰まり5年目で辞めていく移住者をたくさん見てきた。だから阪田さんは、故郷でもある横浜で都市型農業を思考した。
阪田さん 僕の頭の中は〝直売〟ですよ。問屋を使わないの。作ったものはぜんぶ自分で値段をつけて、ぜんぶ自分で売ると。
大手水産加工品会社の責任者だった経験で、商売のなんたるかというビジネス感覚は養われ、どうやって売ればよいか、だいたいわかっていたという。
阪田さん もちろん農業をするからには健康に良いものを作ろうという、その想いからはじめたよ。最初は太陽をさんさんと浴びて、露地野菜で、じっくりと育てた野菜を、健康野菜と呼んでいた。そこから農薬を使わない、化学肥料を使わないとなって、どんどん進化させていったわけ。健康の概念や定義を変えながらさ、身体に悪いもの、不要なものを使わないと。
そして手間暇がかかる無農薬無化学肥料の野菜を、普通の市場に出荷してしまうと裕福層しか食べられなくなってしまう。直売にこだわることで、一般の顧客や子ども達が安心して食べられるようにしたかった。毎日、食べられるものにしたかったという想いを聞かせてくれた。
虫と喧嘩しちゃダメ
虫と仲良くなること
阪田さんも最初から無農薬無化学肥料の農業をしていたわけではない。法律で認められた基準値の農薬や化学肥料を使用する、いわゆる慣行農業を学んできた。
阪田さん 農業の学校で習った通り、農家の先生が教えてくれる通りに真似をしてやってみたよ。だけど売上の金額と、農薬や化学肥料の金額を計算してみたら、農薬代や化学肥料代を稼ぐために野菜を作っているようなものだった。
これはバカバカしいって、まずは減農薬に挑戦した。化学肥料もなるべく使わないように堆肥づくりを自分で始めたの。3年目でまったく農薬は使わなくなって、4年目で化学肥料もまったく使わなくなった。堆肥づくりも、ここの落ち葉とか草とか植物性のものにして、牛糞など動物性のものを撒くのもやめた。そこに昆布の話がきた。昆布は植物性だから良いなと思ってさ。
そして何百万円もする農業用トラクターも〝耕さない〟という農業方法に変えることで、トラクターを購入せずに出費を抑えた。健康のこと、地球環境のことを考えることでビジネスチャンスを見出していったという。
しかしながら無農薬無化学肥料の農業への道のりは血の滲むような努力があった。
阪田さん 最初の1年目はできちゃうの。農薬を使ってたじゃない、だから虫にも喰われないし、化学肥料を使ってるから育つしさ。使わなくなってから、野菜ができなくなってくるんだよ。虫は来るわ、土ができてないから育たないしね。だから2年、3年目は苦しかったよ。我慢だよ、我慢。もう虫に食われるのは当たり前と思わなきゃと。さすがに食い尽くしはしないだろうと。
虫と喧嘩しちゃダメ。虫と仲良くなること。虫さん、どうせ食べるならこっちを食べて、こっちは食べないでっていうような考え方。そういう農法で、いま5年目だよ。苦労も楽しみとすりゃ、笑い話にしちゃえば、あぁ、命まで獲られなかったってさ。
昆布との出会い
それは世界がひっくり返るほどの衝撃
横浜開港にともない西洋の文化が一気に開花して、ここ横浜は日本のビール文化発祥の地でもある。桜木町駅の近くにあるクラフトビール〝横浜ビール〟の醸造所を要するレストラン〝驛の食卓〟で「一般社団法人里海イニシアティブ」の富本龍徳さんと待ち合わせた。港町とはいえ昆布の養殖の方と、こんな繁華街で話をするのもなんとも不思議な気分だ。
富本さんは東京生まれで、もともとITを駆使して食品や医療品など多岐にわたる商品開発や、町おこしなどのコンサルタント業をしていたという。ご縁があって秋田県は三種町の特産品を、東京のマーケットに売り込むために、都心のデパートで開催された秋田県物産展に出展していた。
その中の出展ブースのひとつに、能代市の名産品アワビがあり、フグやチョウザメと同様、海がない県でも水槽で育てることができる陸上養殖であった。そのアワビの餌が海藻や昆布で、関係者に話を聞くと昆布は人間の食用としてだけではなく、わずか4ヶ月で4mも成長する大型海藻と呼ばれ、杉の5倍のCO2を吸収して地球温暖化に歯止めをかける可能性があるということをはじめて知った。
富本さん カナヅチで頭を殴られたような衝撃でした。昆布のイメージっておでんの具だったり出汁だったり、食べないで終わっちゃうこともあるし。そんな影ようなの存在が、世界を変えられるかもしれない.
この日が、昆布との出会いでもあり、環境問題との出会いでもあり、未知なる分野に富本さんの中で衝撃が走った。
富本さん 環境問題のことを解決しながら、人間の健康にも取り組むビジネスに感銘を受けました。
それからというもの、昆布の世界にのめり込んだ。
営利目的と非営利目的
経済社会においてどっちも大事
神奈川県は金沢漁港では、ワカメや海苔の養殖業はあったが、そもそも昆布は育てていなかった。富本さんは里海イニシアティブの設立準備委員会から参画して、漁業者に昆布を養殖してもらい、ビジネスモデルの青写真を描き、2016年の11月に一般社団法人として法人化した。
日本全国に流通している昆布の主な生産地は、北海道と東北で95%を占めているという。
富本さん 昆布が育てられる場所は、だいたい適温が16度〜18度くらいなんです。それで見ていくと、昆布が育てられる場所は北海道や東北だけじゃなくて、沖縄をのぞく鹿児島まで育てることができるんです。
横浜という大都市圏を選んだのは、悪条件でも昆布の養殖ができるのであれば、各地方にも希望をあたえられると考えたから。連携していけば本州や四国・九州をぐるっと一周することもできる。地球温暖化対策として開拓する余地があると感じたという。
富本さん 昆布を養殖して水揚げするまでを一般社団法人里海イニシアティブが担って、販売や流通などのビジネスの話は株式会社を設立して、いまは両方に名前を連ねています。営利目的と非営利目的は、この経済社会においてどっちも大事なんです。
駄洒落とユーモアが
道を切り拓く
生食用の昆布は〝ぶんこのこんぶ〟と名付けた。金沢文庫という馴染みの町を文字って、上からも下からも読める回文。富本さんの、どんな時もユーモアを忘れない精神に思わず吹き出してしまう。
富本さん 僕らの昆布は、若いうちに収穫するということもあって、北海道や東北のような立派な昆布には育たなくて、身が薄いんですよね。最初は料理屋さんに持っていっても、こんなの昆布じゃねぇって突き返されることもありました。でも発想を変えて出汁用や昆布締め用ではなく〝食べる昆布〟という位置づけにしました。臭みがなく香りが豊かなんですよ。
すると昆布を練り込んだ〝よろこんぶうどん〟の商品開発や、フランスの伝統料理クネルと昆布を合わせた〝ハマクネル〟。昆布しゃぶしゃぶにサラダ昆布として歯車が動き始めた。
富本さん 〝ぶんこのこんぶ〟をひとつの素材として、その先々の人たちが自分のやりたいような商品開発ができるようにしています。クラフトビールブームだから昆布ビールなんていうのも考えています。
今日、横浜ビールに来たのも、昆布ビールなる商品開発のヒントがないかという、目論見があったのかもしれない。
近年、畜産牛に昆布を飼料としてあたえると、牛のゲップにふくまれる温室効果のあるメタンガスを、減らすことができるという研究報告書もあり、化粧品にもなったりと汎用性があるところにビジネスチャンスの可能性が広がる。しかしさまざまな可能性があっても水揚げされる総昆布量のうち、食用には向かない年間2割の昆布の有効利用は、なかなか具現化できずに電気代をかけて冷凍保存をしているのが現実だった。
情熱に生きる
親子ほど離れた年の差
富本さんは農家の阪田さんと出会うことで、昆布の堆肥化プロジェクトの話は、瞬く間に意気投合した。
富本さん すごい良い人と出会えたから、あのスピード感でできた。阪田さんは昆布の堆肥づくりを必ずフィードバックしてくれて、それが嬉しくて。
阪田さんも
阪田さん ただ地球にいいこと、ただ環境にいいこと、ただ社会にいいことだけではなく、しっかり稼ぐことをしないと継続ができない。昆布を堆肥にすることによって、野菜が美味しくなった、栄養価が上がった、生育がよくなったという学術的な根拠をもとにブランド化することが大切。
それらが証明できたら各地域に昆布の養殖や、昆布を堆肥にすることを、胸を張って薦めることができる。2人の想いに触れていると、親子ほど離れた年の差も、情熱や向上心、好奇心、そして密かな浪漫をともにする、おなじ時代を生きる仲間にしか見えなくなってくる。
ところが、令和元年は台風15号と台風19号が日本列島を襲い、各地に爪痕を残した。横浜健康ファームともだちも例外ではない。
阪田さん なんとかもうすぐ昆布堆肥で育てたレタスの収穫が始まるよ。ただ良い育ちなのかどうかは、この9月の日照不足と台風でごちゃごちゃで、訳がわからない。昆布の効果がどれくらいあったのかはわからない。他の野菜もぜんぶ悪い。わかったのは昆布堆肥を使っても、野菜がちゃんと育つこと。
自然はやはり人間の人智を超えた存在で、例えば農業歴10年のベテランといっても、春夏秋冬は1年に1度しか訪れないので、10回しか試すことができない気が遠くなる世界。
しかし間違いなく農業者と漁業者とが繋がり、昆布で堆肥を作ることができ野菜を育てるまでは成功した。
富本さん 横浜市内だけで完結する地域循環型社会は構築できた。これは大きなことだと思う。ずっと頭に思い描いていた夢で、どこにその話を持っていけば良いかもわからなかったけど、意外とそういう時ってトントン拍子にいく。
と富本さんは誇らしげに話す。
阪田さん 地産地消の概念ですからね私は。横浜で育てた野菜を横浜の人たちに食べてもらう、かつ横浜は海があるのだから昆布のような海のミネラルを畑に入れる。その方が物語があって野菜を育てていて楽しくない?継続的にしたいなと思ってるよ。もうこの1月に畑へ撒く昆布の堆肥づくりをしているからさ。
と、阪田さんの飽くなき挑戦にいどむ姿がまぶしかった。
野菜は作っているのではなく
育てているんだよ
観測史上最強クラスの令和元年台風第15号が、阪田さんの横浜健康ファームともだちを襲った。農場の小屋も資材もなにもかも壊滅的な被害があり、さすがに心が折れたという。
阪田さん あのね、施設だけが壊れるんだったら、毎年のことだからまたかって感じ。だけどわざと作付けを遅らせて、収穫時期を遅らせていた夏野菜のトマト、茄子、トウモロコシ、枝豆、全滅なんですよ。それで心が折れたのよ、がっかりってね。失った子ども達は帰ってこない。だからぜんぶ自分の手で倒したよ。せっかく育てた子ども達を失くしちゃったという気持ち。
施設なんかは金で解決しちゃうからいいよね。建て直せばいいんだからさ。野菜はもう2度と戻ってこないじゃん。せっかく育てた子ども達を失くしちゃったという気持ちで、心が折れたんだよ。そう、そう、そう、そういうことだよ。あの喪失感は。
それでも奮起できたのは、たくさんの仲間が入れ替わり立ち替わりで、復旧作業の手伝いに来てくれたから。
阪田さん もし1人だったら辞めていたよ。いろんな人がパッと来てくれたからさ。泣いてられねぇやってね。
阪田さんは農業のどんなところに喜びを感じるのか聞いてみた。
阪田さん やっぱり自分の育てた野菜を食べてもらって、美味しかったよって言ってもらえたときかな。あとは新しい人との繋がりができたとか、同じような仲間が繋がったことだね。ここにはいろんな人が来てくれるから。
循環していたのは昆布堆肥だけではなく、野菜や昆布が繋いでくれた、人と人との〝おもいやり〟だった。気候変動を止めるなんて人間のおこがましい考えで、もしかしたらこの大自然に適応していかなければならないのかもしれない。ただひとつ言えることは、この見渡すかぎりの野菜畑の丘には心地のよい空気が流れていた。
出会いときっかけで
人はいつでも変わることができる
富本さんのこれまでの人生は、環境問題はどこか他人事だったという。というより解決策を持ち合わせていなかった。
富本さん 今までインターネットやTVを観ていて、例えばアフリカの恵まれない人に寄付しようとか、情報として触れてはいたけど、なぜかピンとこなくて。環境問題も同じように南極の氷が溶けるシーンとか、山火事の映像とかを観ていても、どこか他人事だったんです。でもそれは多分、大変だなって思うと同時に、自分で解決できるツールとか、考え方を持ち合わせていなかったから、どこか他人事になっちゃってたと思うんですよね。
それが昆布と出会って、あの話題になっているようなことに、自分も繋がれるんだっていうところが一番嬉しくて。自分にも世界を変えるような解決方法に、携われるだって思った時に、すごい感動したっていうか。海のものが陸のものと融合して、自分が食べたものを地産地消で見える化して、人はだんだん生産背景の物語に対してお金を払っていくのかなって思っていて。
みんなの意識が変わるような、僕たち人間の生活が、地球にこういうポジティブな影響をあえているっていう一連の流れを、メッセージとして伝えられたらいいなと思っています。
出会いときっかけで、人はいつでも変わることができる。富本さんの飾らない等身大の言葉が、大人の真剣な遊びに夢中になるのは、次はあなた達の番だよと、そっと背中を押してもらった気がした。
伊勢谷千裕
絵本作家/ライター
世界放浪の旅へ飛び出し、その体験を題材に処女作「ほんの小さな物語」・第二作「太陽と月の歌」を出版。ただ美しい言葉の羅列などではなく、歯の浮くような綺麗ごとの物語でもない。社会問題や環境問題・地球の裏側で起こっている先進国と後進国との間の不条理などを徹底的に調べ、過酷な現実を見つめて見つめたその先に広がる、それでも明るくたくましく生きる人間の物語を、ファンタジーの世界で描く。東日本大震災を機に、富山県は南砺市に移住。農業に従事しながら、都会にはあふれるお洒落や綺麗や格好いいではなく、空があり大地があり、そこに人間の暮らしがあってこそ美しい日本の風景を目の当たりにする。現在では故郷の神奈川に帰り2拠点生活をしながら、どこか懐かしくて新しい古き良き日本の暮らしをする人々の魅力や、環境問題に取り組む人々の記事を書くライター業に専念する。