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異常な気候の下でどうやって生きていこう? ”正常性バイアス”にさよならを。#学習するコミュニティに夢を見て

こんにちは、信岡良亮です。連載「学習するコミュニティに夢を見て」、今回のテーマは、「状況が異常なのに、普通にしてて大丈夫?」です。

今回の原稿は、縁あって、令和元年台風19号の被害が大きかった宮城県丸森町というところで書いております。

自分の家の床の上まで、水が押し寄せてきたなんて経験がある人は少ないでしょうが、町中が浸水した様子は、なかなかに衝撃的なものがあります。

町役場の前には自衛隊の車が列をなしていて、「あ、完全に異常事態なんだな」と思わせてくれる風景がそこにはあるのです。





いま、そんな状況下で、丸森町の災害ボランティアセンターの立ち上げなどをちょこちょことお手伝いしておりまして(コピーが出来るように機器設定するとか、ほんと些細なことしかできないのですが)、いろんな人が町を助けに来てくれる現場を目の当たりにしています。

3.11の被災地である石巻市や、北海道胆振東部地震で大きく揺れた厚真町など様々ところからボランティアや応援の方が駆けつけてくださるのですが、改めて考えてみると、日本はもはや、毎年どこかで大規模災害が起きています。(https://www.7mate.jp/saigai/


豪雨、猛暑、地震、台風、水害・・・。2011年3月11日の傷跡も回復しきらないまま、また東北がダメージを受けた今回も含めて、本当にいつどこで何が起こるかわからないときに、僕たちのできる備えを、改めて考えてみたいと思いました。

その中で大きく提案したいことが2つあります。

1つ目は個人でできることとして、今回のタイトルでもある、「正常性バイアス」にさよならしませんか? というもの。2つ目は個人の備えでできることでなく、コミュニティとして備えませんか? というお話です。

まずは1つ目の正常性バイアスについてなのですが、正常性バイアスとは「自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性」というもの(Wikipediaより: https://ja.wikipedia.org/wiki/正常性バイアス)。

普段の生活の中で危機的な状況などそうそうないものなので、自分の経験に照らし合わせて、「去年の台風でも家はなんともなかったので、今回も大丈夫」というように、つい普段の自分の知っている範囲(正常に感じれる状況)へと、自分の認識を誘導してしまい異常な事態がやってくることへ備えられないことを言います。

千葉の台風のときの成田空港がまさにその縮図と言えるような状態で、「まだ大丈夫だろう」「なんとかなるだろう」という人がたくさん集まった結果、多くの人が動けなくなるという陸の孤島が誕生しました。

(https://www.buzzfeed.com/jp/harunayamazaki/narita-jigoku2

この正常性バイアスにハマってしまうのを避けるためには「自分の頭でリスクをちゃんと想像する」という行為が必要です。外国の方からの日本人への評価の中に「こんなに台風がひどいのに満員電車に乗って出社する」風景への批判があります。



今回の台風でも、土曜日・日曜日に関わらず出社していた人がたくさんいることと思いますが、「今世紀最大の台風が直撃」といった状況が異常なときに、いつもと同じ行動しかできないというのは、かなりリスクの高いライフスタイルだなと感じてしまいます。

依存先が一つだと、正常性バイアスが働きやすい

そんなこと言っても会社が出社しろと言うので。。。という声が聞こえてきそうですが、そういう会社の上司やガバナンスがそもそも、正常性バイアスで動いていると予想されるので、その会社の判断に従っていて今後の異常気象が常態化するリスクのある社会で生きていけるのか、かなり怪しいと思ってしまいます。



(もちろんこういうときだからこそお店を開けて営業することによって、社会の公益としての責任を果たすという判断をする企業は別の話です。従業員の生命の安全を確保した上で、地域住民や顧客のために災害時だからこそ開けてくれるお店などは本当にかっこいいです。)



そしてそんな会社の指示があったとして、それに従うしかないというのは「あなたの選択肢の少なさ」を表しています。



組織全体が、正常性バイアスにかかっている状態で、リスクに対応できないジャッジメントしかできないとき、そんな組織がこれからの変化の激しい時代の経営ができるのかまで含めて、なるべく正常性バイアスから遠ざかる方法を探していくことをオススメします。



僕が経営している会社は、社員全員がパラレルキャリアなので、社員それぞれが、一つの仕事がなくなっても生活が成り立たなくなるということのないようにしています。

そうすると、会社の指示に絶対従うという選択から、所属先のA社とB社で対応が違うが、自分はどちらのほうが正しいと感じるか、といったことを考えられるようになるのです。



また、「この会社、判断がおかしいかも」ということを感じたらその判断に従わないという選択もできるようになります。

こういう思考の自立ができるためにも、依存先が一つではできないので、普段から依存先をたくさん増やすことを東京大学先端科学技術研究センター・特任講師の熊谷さんもおっしゃっています。(

https://www.tokyo-jinken.or.jp/publication/tj_56_interview.html


一人でできることの限界をこえて

続きまして、2つ目のテーマである個人の備えでできることでなく、コミュニティとして備えませんか? という話を。

福祉業界のケアの考え方の一つに「自助」「互助」「共助」「公助」というのがあります。

自助はまずは自分で自分を助ける。
互助は困っている者同士とか隣の人とケアしあう。
共助はもう少し大きなコミュニティやグループ・チームで助け合っていく。
公助は行政的な制度や仕組みを活用するという考え方です。

たとえば、今回の台風のような状況下では、

自助:ハザードマップを見て最適な場所に避難。2−3日の食料など持てるものは早めに持って。

となるかもしれません。

互助に関しては、災害直後で、車が浸水して動かなくなったので、買い物に連れて行ってほしいなど、発生から2日−1週間くらいの生活の補助としていろんなコミュニケーションが生まれたことと思います。一方で、広域災害では、隣の人も被災してゆとりがない、同じ状況ということが多々ありますので、互助で解決できることだけでは足りないことがいっぱいです。

次に共助という仕組みですが、近隣で機能しているコミュニティがある場合、非常に心強い状態になります。今回も丸森町という場所では8つの地区ごとにある町づくりセンターという場所に、各地区ごとの状況や困りごとが集まっていて、すべてが個別対応にならず、ある程度そこと連絡が取れれば町の人にいろんな情報が行き渡るということがあったので、共助の仕組みがまだ生きている地域は強いなと思いました。

これが都市災害だったとすると、誰にどう頼っていいかわからない人が大半だと思います。僕もそうです。そして周りにゆとりがない中で、トラブルばかりが想定される状況下で改めてチームやコミュニティをつくるというのはかなり心理的にしんどいです。

できれば、普段から何かを一緒にやったり挑戦している仲間をつくることで、これらの緊急時にも一緒に動けるコミュニティの下地が生まれ、災害時のあなたの選択肢を大きく広げることでしょう。

たとえばあなたがカウンセラーの資格を持っていたとします。でも一人でボランティアとして被災地にくると、1〜2日、そこにいるのが精一杯だと思います。それで誰かの心のケアをするとなると、1000人以上いる被災者の誰とその時間をとればいいか、マッチングさせるのが大変なので、結局は何もできない、そんなことが起こりえます。

でもこれが、10人のカウンセラーのコミュニティをつくっておくと、10人のチームから一人を1ヶ月派遣して、残り9人で、その一人の普段の仕事のカバーに入る、そんな仕組みがつくれると、1ヶ月間、被災地にカウンセリングルームをつくる、ということが可能になります。

いろんな人が善意や関心は持っているけれど、個別マッチングをする手間のほうがかかるという広域災害において、自分自身が、被災者になるときも支援者になるときも、こういったコミュニティ形成の力のほうが、今の日本には必要だと僕は思っています。

最後に公助についてですが、現地でやっぱりありがたいのは自衛隊の動きです。めちゃくちゃありがたいですし、道路もつくれるし、物資も運べるし、お風呂まで準備してくれたりします。そんな活躍がある一方で、公的なシステムである地域の行政も、普段からそもそも人手不足だったりするのです。そんな中で災害が起こると日常業務をちゃんと回すことと災害業務に対応することで、2倍3倍忙しくなります。

そんな中で、「やって当然」で「できてないと怒られる」ことが多い彼らは、こういうときにすごく頑張っても周りから怒られる量が増えやすいので、かなり心理的にダメージを受けます。

そして文化的な問題として、現在の日本の行政システムは「すべてを外部に委託するか」「自前で全部やるか」という選択をしていることが多いので、複数の団体とうまくチーム編成をして、統合的に問題を解決するというマネジメント経験があまり積めません。

その結果、全部おまかせできる外部、が出てこないと全部自分たちでやるしかない、ということがおきます。

この「大きすぎる公」と「小さすぎる個」しか存在しないため、「公と個の橋渡しになる共」がいないと、支援する側にとっても、される側にとっても、「すべてやるか、すべてできないか」となってきます。

僕自身のつくりたい未来は、こんなときに、普段から活動している「共的なネットワーク」がたくさんあり、そこが行政と個人を結ぶことで、支援の手がちゃんと届く可能性が上がりつつ、仕組みとしてその3つがうまく連携していくノウハウ(前述したカウンセリングチームのように)が溜まる状態になっていくこと。

できれば今後の防災とか避難訓練の概念の中に、普段からそういう非常時にコミュニティをつくってそこが行政と組んで動くための方法を提案する・試してみる訓練があるとこれからの広域災害が多発化していく社会で、生きていきやすくなる気がしています。

人をくじけさせるのも人だけど、人を勇気付けるのも人なのだなと、つくづく。

(写真提供: 3.11みらいサポート)