毎日、政治を巡る様々な疑惑が報じられて辟易していませんか?
私はしています。
森友、加計、公文書改ざん、桜を見る会、etc…。辟易しているとはいえ無視するわけにはいかず、でもなかなか情報が出てこず、徐々に報道が少なくなり興味を失ってしまう。そんなことが繰り返されている気がします。それではいけないとわかっているけど、そうなってしまう。そんなことはないでしょうか。
そのような今の日本の政治と報道についてわたしたちに問いかける映画が公開されています。
その作品『i-新聞記者ドキュメント-』は、菅官房長官の記者会見で物議を醸し続ける東京新聞の望月衣塑子(もちづき・いそこ)記者を、『A』『FAKE』などで知られる森達也監督が追ったドキュメンタリー映画。望月記者の著書を原案にし話題となった映画『新聞記者』の兄弟版となる作品です。
この『i-新聞記者ドキュメント-』は今年の「東京国際映画祭」で日本映画スプラッシュ部門作品賞を獲ったのですが、作品上映後のQ&Aでの話によると、最初は『新聞記者』の監督を森さんが務める予定だったらしく、さらに「最初は2つの作品を同時に公開するつもりだった」そうで、ほぼ一体とも言っていい映画のようです。
『新聞記者』の方は、シム・ウンギョンが演じる東都新聞社会部記者の吉岡と松坂桃李が演じるエリート官僚の杉原を主人公に、政治の「闇」に迫っていくという内容です。こちらの映画にも少し言及しながら映画『i-新聞記者ドキュメント-』がわたしたちに問いかけるものとはなにか考えていきたいと思います。
映画『i-新聞記者ドキュメント-』とは
映画は、辺野古問題のために望月記者が沖縄を訪れるところから始まります。ここでは、埋め立てる土砂に赤土が約束より多く混入されているのではないかという疑惑が取り上げられ、望月記者は海から現場を視察した上で、県知事の記者会見や沖縄防衛局のヒアリングに参加。明確な回答が得られなかったため、会見後に沖縄防衛局の責任者を追いかけて食って掛かります。
まさに「戦う新聞記者」というイメージにあったシーンです。
ただ、この映画の眼目は辺野古問題ではありませんし、他の様々な疑惑でもありません。注目すべきは、視察の前日、取材先を何件も訪れるもののどこも不在で空振りになってしまうシーン、その道中のタクシーの中では娘とテレビ電話など。さらに、記者会見では移動中に他の記者とはぐれ右往左往し、ここに「集団行動が苦手らしい」「方向音痴のようだ」という字幕をはさまれる場面です。
これらのシーンが示すのは、この映画が新聞記者(ジャーナリスト)であり個人である「望月衣塑子」についての映画であり、今の日本でジャーナリストであること、そして個人としてあることの意味を表現しようという意志なのです。
ジャーナリストである前に「人」である
望月記者がすごいのは取材対象からの信頼を勝ち得ている点です。準強姦の被害を訴えた女性ジャーナリストの伊藤詩織さんとは親しい友人のようで、伊藤さんが望月記者を誰よりも信頼していることが画面からも見て取れます。
そして、保釈中の籠池夫妻へのインタビューのシーンでも、彼らが、考え方は違っているとしても記者として望月さんを信頼していることが見て取れます。このシーンでもう一つ注目なのは、籠池夫人がやたらと食べ物を勧めること。望月さんはもちろん、撮影している森監督や周りのスタッフにもどら焼きの袋をわざわざあけて勧めてくるのです。これは思わず笑わずにはいられません。
この食べ物と笑いという要素は「人」がテーマの映画だということをさらに浮き彫りにします。望月記者がものを食べ、笑い、疲れた表情を見せることで「戦う記者」という看板の後ろにいる人間の思いがにじみ出てくるのです。
そしてこの人間らしさと取材対象の信頼を勝ち取ることは無関係ではありません。望月記者は「新聞」として話を聞くのではなく、人として話を聞く。個人と個人の関係で話をするからこそ相手の信用を得ることができるのです。
映画『新聞記者』で、主人公の吉岡記者が自殺した遺族に殺到する報道陣に対して「あなたがやられたらどう思うの?」と言って制止する場面があります。この「人」として取材対象と接する態度によって、吉岡はもうひとりの主人公・杉原の信頼を獲得していくのです。
「新聞記者」という集団の一人としての自分ではなく、まず自分=個人であるという態度の重要性がこの2つの映画に通底するテーマだと私は思いました。
話を『i-新聞記者ドキュメント-』に戻すと、望月記者のさまざまな取材活動を描く中で、その中心に据えられているのが、官邸による質問妨害です。
ご存じの方も多いと思いますが、望月記者は東京新聞の社会部の記者で、菅官房長官の記者会見に出席する政治部の記者たちの中では異色の存在です。そんな彼女がずけずけと物を言い、菅官房長官はそれに答えず、司会を務める官邸の担当者は質問の途中でたびたび「質問に移ってください」と妨害することが繰り返されてきました。
映画はこの記者会見の映像をたびたび使い、さらに森監督自身がその場に入って映像に収めようとまでします。それはなぜなのか。
それはおそらく、この記者会見が望月記者の「個」が突出する場面だからです。望月記者と菅官房長官が個と個で対峙する場面、その言葉や表情からは集団の影に隠れていた個人の感情が顔を覗かせるのです。実際、菅官房長官の表情や態度から、望月記者をバカにしている態度が見て取れます。あるいは恐れていることを顔を出さないように冷笑を浮かべているのかもしれませんが。
森監督がこの記者会見の場に入って撮りたかったのは、個で立ち向かう望月記者の表情だったのでしょう。他の新聞記者たちは官房長官側に立つ中、孤立無援で官房長官の個を引き出そうとする彼女の全身の表現を見せることで個であることの重要性と難しさを伝えたかったのだと思うのです。
集団に属することでないがしろにされる真実
「個」についてさらに考えさせられるのが、参議院選挙の応援に安倍総理が立つというシーン。安倍政権を支持する人々と、反対する人々がともにプラカードを掲げ、メッセージを叫び、それをマスコミが取材し、野次馬が囲みます。
そこで森監督は自身のナレーションを重ね、人が集団になることで正義が暴走することを語り、個であることの重要性を語ります。
人は集団に属し、その考えを自分の行動原理に採用するほうが楽に生きることができます。自分で考えなくていいのですから。私たちはみな多かれ少なかれそのような生き方をしています。
今の政権はそれを利用し、敵・味方で社会を分断し、多くの人々が同じ考えに染まるような仕組みをつくってきました。籠池さんがインタビューの中で「私は切られた人間だから」というシーンがありますが、そうやって敵と味方を区別しているのです。
ただそれは反対する側にも言えて、自分で考えずにただ反対すれば良いと考えてしまうのです。「何にでも反対する野党」という言葉はそのような「反安倍」の人たちの代弁者になってしまっている野党をくさす言葉として的を射ているとも言えます。
少し話がずれてしまいましたが、この映画は、集団に属する以前に「個」であることの重要性を伝えようとしているのです。
この映画のタイトルの『i』について、森監督は東京国際映画祭のQ&Aで「衣塑子の”i”というところから始まり、アイアムやアイデンティティの”i”になっていった気がします」と話していましたが、私はこれは一人称の「I」であると受け取りました。自分主体であることの重要性を意味しているのだと。だから個人としての望月衣塑子を描いたのだと。
『新聞記者』でも吉岡記者が「分断し孤立化を図り個を押しつぶそうとしている。それに対抗するためには個と個がつながることが必要」とツイートする場面がありました。「対抗する」というと分断に加担し別の集団をつくってしまう可能性も感じられなくはないですが、大意としては個を確立してから人とつながって行くことの重要性について語っているのだと思います。
今わたしたちに必要なのはまさしくそのことで、個に立ち返って社会とのつながり方を考え直すべきときに来ているのです。ぜひ映画を見て考えてみてください。
– INFORMATION –
監督:森達也
出演:望月衣塑子
企画・製作・エクゼクティブプロデューサー:河村光庸
監督補:小松原茂幸
編集:鈴尾啓太
音楽:MARTIN(OAU/JOHNSONS MOTORCAR)
2019年/日本/113分/カラー/ビスタ/ステレオ
制作・配給:スターサンズ
公式サイト:i-shimbunkisha.jp
11月15日(金)より、新宿ピカデリーほか全国公開