こんにちは、信岡良亮です。連載「学習するコミュニティに夢を見て」、今回のテーマは、「対話、めんどくさくね?」です。
「関係性を楽しむ」というときに、田舎から都会へと人が移動する一番の動機になるのが「人付き合いがめんどくさい」ということがある様子。
僕も実家にたまに帰ると親とのコミュニケーションに心のエネルギーを消耗します。嫌いとかそういう話ではなくて「話し始めるといたるところで価値観や世界観が違いすぎて、どこから折り合いをつけていいか分からない」というのがあるのです。
それが2時間も続くと日常会話がおっくうになってくるので、つい、テレビをつけてしまったり。(テレビってすごいですよね。会話をしなくても、そこに共存することを許してくれる道具というのは、発明だと思います。)
話を戻しますと、人って自分のことを理解されたい、認められたいと強く願う一方で、干渉されることを嫌うので距離を取りたがるというジレンマを抱えています。
恋愛しているとふと、二人の距離が詰まっていくプロセスだけが楽しくて、くっついてしまえばあとは徐々に距離が離れていくので、そうならないように努力する。そう考えたことはありませんか?
それはもしかすると、会話が楽しいだけなのであって、本当は誰かと「対話したことがないから」かもしれません。
日本人にアンケートをとって「他者と深く対話し、その前後で、その人との関係性が完全に別物になった」という経験がある人はいったい何%くらいいるのでしょうか? 体感的には1%もいない気がします。
これには実は理由があって、日本人は「共感」というものを1種類しか知らないことが多いからだと思います。
日本人にとっての共感というのは、「私も同じ経験したことがある」というシンパシー、つまり同質性からくる共感がほとんどです。しかし対話を経た後の共感はエンパシー 、それは異質性からくる共感であり「こんなにも価値観と世界観が違う私とあなたが一つの理解を得られたという協働の喜び」です。
他者と話すときの前提が、シンパシー・ベースの共感がほしい、今の自分を承認してほしい褒めてほしいということしか求めてない人とは、基本的には対話はできない。
私とあなたは独立した、別々の世界観をもっている人間であり、私の世界観にもあなたの世界観にも必ず一理の真理がある。そんなエンパシーを基盤にしたコミュニケーションを楽しもうとする人としか、実際には対話ができないのです。
ランク・パラダイムでいきる人、フェア・パラダイムで生きる人
シンパシー・ベースで話す人と、エンパシー・ベースで話す人との大きな差に、社会や他者に対する世界観の違いがあるのだと思います。
1つ目は他者と自分を比較して、自分が上なのか下なのか、正しいのはどっちの主張なのかという世界観で生きる人。こういう世界観を、僕は「ランク・パラダイム」と呼ぶことにしました。世の中には「正解」があるという感覚で、自分はけっこう普通、またはその文化圏では上位のほうにいるという優越感か、下位の場所にいるという劣等感で生きる世界です。
もう1つは、他者と自分はまるで違う生き物として、まるで違う文化と世界の主人公同士が出会うという感覚で評価軸そのものが一人ずつ違うという感覚をもって人と接することができる人。こちらの世界観を「フェア・パラダイム」と呼んでいます。
この2つは『嫌われる勇気〜アドラーの心理学〜』という本の中で、「縦の人間関係」と「横の人間関係」とよばれていたものにヒントを得て、もうちょっと使いやすい言葉をつくってみた感じです。
対話がめんどくさいというか、ほとんど成功しない理由は、日本で自然に生活していると、「フェア・パラダイム」を生きる経験がほぼ育たないからだと思っています。
僕らはずっと、日常のコミュニケーションの中で、ランク・パラダイムにずっと浸っているのです。勉強したかどうか? いい大学にあの人ははいったかどうか? あの人は役職が高いからすごい、あっちがかわいい、こっちがかわいい・・・ ほぼすべて、誰かとの相対的な比較の中の言葉にばかり触れています。
このランク・パラダイムで生きている人の人生の喜びは
そんなことになりやすい。
権力構造や、そのコミュニティの中では誰の意見が一番正しい(とされる)のか、が分からないと、コミュニケーションができないのです。
逆にフェア・パラダイムで生きている人の人生の喜びは
こんな感じになりやすいと思います。
学校でも、家庭でも、職場でも、ほとんどの仕組みがランク・パラダイムの文化の中にいるので「普通のコミュニケーション=ランク・パラダイム」でなされる結果、「フェア・パラダイム」で話そうとすると相手が怒り始めたりします。
「そもそも私とあなたは対等の人間である」ことから始めようとすると相手の「自分のほうが上だ、正しいから尊重されるべき」という想いを壊してしまうので、意見=口ごたえになって見えてしまいます。
なのでもし、あなたが「フェア・パラダイム」で生きていきたくて、対話による喜びを感じたいと思ったら、まずは「同じようにフェア・パラダイムでいき生きようとしている人」と対話の練習を始めてください。
最終的に対話が必要な相手である「家族」や「上司」「恋人」はラスボスです(笑) 対話が本当に必要な相手はだいたい「対話をしたくない人=自分の思っている正しさを崩されたくない人」だったりするのです。
そこにいきなり「フェア・パラダイム経験値1」のあなたが一人で乗り込んでも、「ランク・パラダイムで生きてきた経験値50」の人には太刀打ちできません。
まずは自身の「フェア・パラダイムでの対話経験値」が近しい人と練習を重ねてみてください。
そうやってちょっとずつ、「こんな考え方の人とも、フェア・パラダイムで接せられる技術」を蓄えて、エンパシー・ベースでつながれる成功体験を積んでみてください。
それでも人の世界観を変えるのはすごく大変なので、ラスボスである隣人が「ランク・パラダイム」で生きている間は、対話の成功確率は大変低いかもしれませんが、少なくともあなたが「フェア・パラダイムで生きていくことの価値を実感すること」と「それで得られる友人」は増えているはず。
そうして人生が充実してしまえば、相手はなかなか「ランク・パラダイム」であなたを支配することが難しくなっているので、フェアに接せれる可能性は上がっていることと思います。
当たり障りのない会話から、自分の考えを相手にぶつける議論やディスカッションをこえて、お互いの見ている別々の世界をただ交換する対話へと移行していく。そんな人が一人でも増えることで、自分自身の中の「固定していた世界観が崩れて、人とフラットに接せれる喜び」が少しでも身の回りに起こりやすくなることを増やしていきたいですね。
人をくじけさせるのも人だけど、人を勇気付けるのも人なのだなと、つくづく。