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僕らが今、コミュニティに惹かれる理由は、大きすぎる社会とか弱い私との中間を担う「共」の不在にある? #学習するコミュニティに夢を見て

こんにちは、信岡良亮です。連載「学習するコミュニティに夢を見て」、前回までの3回で「学習するってなんだろう?」ということを掘り下げていきましたが、ここからはもう一つのテーマになる「コミュニティってなんだろう?」という部分について書ければと思います。

最近いろんなところで「コミュニティのつくり方」といったイベントがあるように、コミュニティへの注目度が上がってきている様子。今回のタイトルにもなっている「学習するコミュニティ」というものに僕がハマったというか惹かれるようになった瞬間、それは「自治」というものへの世界観が自分の中で一つのイメージを持てるようになった時でした。ここから「公・共・私」という3つの概念についてお話しさせてください。

「公・共・私」とは?

きっかけは西村佳哲さんと共に、『都市農村関係学』という本の内容を考えている時でした。その時、西村さんから「公・共・私」という3つのものの違いについて教わりました。英語でいうと「Public—パブリック(公)」「Commons—コモンズ(共)」「Private—プライベート(私)」です。

”パブリックな場”とか、”プライベートを大切に”とか、「公私混同するな」という言葉があるように僕たちは「パブリック」と「プライベート」が別のもので、概念として理解している・馴染んでいる感覚があります。しかし「コモンズ」と言われるとなかなかピンとこない。

そして”公共サービス”という言葉があるように、公と共はまるで「公共」という一つの同じ言葉のような印象でした。

しかし公というものを行政とか役所と捉えて、コモンズを「私たち」という言葉で考えたとき、僕がよく耳にする「市町村が合併するから公共サービスが悪化する」という言葉は不思議な感じがします。公的なサービスが集約化されるから質が変わるのはわかりますが、共=私たちというものはそこに変わらず住んでいるのだし、自分たちで行うサービスが下がるというのも、変な話です。

この不思議を紐解く仮説として、僕は、江戸時代まで日本は実は共(私たち)が中心だったのではないかと考えています。それはたとえば「○○村の権兵衛です」とか「柳生家の長男です」といえばそれがその人を現していたように「どの共同体に属しているどういう役割の人か」を説明するのが昔の日本では「Who are you?(あなたは誰ですか?)」という問いに答えるものでした。

そして、海外において「あなたは誰か?」という問いは「あなた個人がどういう興味関心、思考を持っているのか?」という問いに答えることだと思います。

この日本と海外の違いについて考えている時に出会った本が『翻訳語成立事情』という明治時代にどういう言葉が日本語に翻訳するのが難しかったかというのを教えてくれた本です。

そこでは「Society – ソサエティ」と「individual -インディビジュアル」という言葉の翻訳が大変難しかったとあります。日本語でいうと社会と個人。今では馴染みがありますが、明治になったばかりの日本には馴染みのない概念でした。日本には社会がなくて、あったのは「世間」であり隣3軒との関係性なのだと。そして関係性の中で自分というものを見出すので、「独立した個人」という感覚が伝わらないのだそうです。

欧米ではまず独立した個人があって、それが神様や社会と契約するというところからアイデンティティが始まるのに対して、日本人のアイデンティティはもともと「コモンズ —私たちは何者か?」というところから始まるのだと。

明治になって急激に中央集権化していく中で、藩だったり5人組などを廃止して、個人個人から納税していくというシステムに切り替えて、共が中心だった世界観から公に力を集めるために制度設計を急いでつくり直した結果、私たちで行うようなサービス(それはため池の掃除だったり、水道の整備だったり、昔は近所の公民館などに集まってやり方を考えていたもの)がすべて政府のするサービスへと移管していった。


それによってまだ居場所のない育ちきってない個人というものを近代化に伴って代わりに都会で居場所を与えてくれたものが「会社」という存在なのではないかと。だから日本企業では「終身雇用」や「健康診断」まで会社が担っていて、欧米では個人が担う責任範囲のものを、日本では会社がたくさん担っている、そんな話を西村さんとしていました。

公共私のそれぞれの役割

僕らが今、居場所というものやコミュニティというものに惹かれるのは、大きすぎて自分たちでは関わりようのない「公」というものと、小さくて制度に従うか反抗するかしか選択不能なか弱い「私」との間に、私たちで仕組みや制度を考えて自分たちで実験してみて、またそのルールを変えていくという、社会と私との間の中間的なサイズを担う「共」という存在が、どこにもなくなってきたからなのかもしれません。

これらの考えを一歩進めてみて、ではそもそも「公共私」のそれぞれの本当の役割とはなんだろう? という問いが浮かんできました。そうして出てきた図がこちらです。

例えば経済的二項分布をつくってみて、上は時給1万円。下は時給千円としましょう。真ん中が時給五千円で、一番多くの人がそこにいるとして(現実の数字とは全然別もの)。

今一番上のオレンジのラインが時給8000円で、そこまで稼がないと幸せに子ども二人産んで家計が成立しないとすると、これはほとんどの人が不可能なラインなので、子どもを産まない人が増えて、人口がどんどん減少していき、社会が縮小していくライン。

このオレンジのラインを下げていって時給5000円の人でもちゃんと幸せになれる、時給二千円の人でも幸せになれる、という風に社会全体の幸福になれるためのハードルを下げていくのが公の役割です。

一方でプライベートの役割は、自分がちゃんと努力してより幸せになりやすいように時給を高くしていくこと(実際は時給だけが幸福の評価と思ってませんが、分かりやすさをちょっと優先して話してます)。時給2000円でも幸せに暮らせるなら、個人として成長しなければいけないプレッシャーはだいぶゆったりするようなイメージです。

そして共の役割というのは、例えば今、時給5000円ないと幸福に生きれない社会だとしたときに、時給4000円や3000円の人がそこからこぼれてしまう。しかし「あの人がいないと祭りが盛り上がらない」とか「あの人がいないと島の歴史がわからなくなる」というときに、私たちとしてあの人がいてくれないと困るので、黄色のようなコモンズをつくって、その中で助け合いを行なって、経済的価値だけでない人をコミュニティの中に存在できるようにする。

そうすることで何がよいかというと、震災があったときのように環境が変化して、お金があっても食料が買えないということがありましたね。そうなると、今まで経済的時給で上だった人よりも農業ができる人やサバイバル能力に長けている人のほうが大切になってくるわけです。

そのように環境変化に適用するためには多様な能力・才能を持っている人がいること自体が、助け合いの選択肢をもたらします。この助け合いのための多様性を自分たちで担保するのが「共」の役割なのだと思うのです。

Commonsになるための技術

僕はこの3つの概念を整理してみた先の図が生まれた時に、僕にとっての「学習するコミュニティ」というものが何を目指したいのかが見えてきました。

一つは公的な機能として、社会で多くの人が幸せになるハードルが下がっていくインフラ(道路でもあるし、水道でもあるし、Wi-Fiでもある)的なテクノロジーを進化させていくこと。

もう一つはプライベートとしてできることを増やしていく機会を多くの人が持てること。成長していくためのノウハウ自体を高めていくことで、誰でも自主的に努力して、好きなだけ成長しやすくなっていくという学習の効率化です。

最後にコモンズとして、どうすればその共同体がただ集まるだけでなく、豊かな関係性が生まれるのかというのも、まだまだ開発・探求可能なノウハウだと思うのです。

どんなルールや制度で私たちの中の多様性を活かしながら、それぞれに居場所や出番が創造できるのか。または、相互に承認されたり大切にされたりしている実感と、コモンズに対して貢献しているという自己効力感が得られるかということについての技術です。それらは資源の分配方法(=評価軸)だったり対話の進め方だったりという「つながりの活かし方」をノウハウというか技術として学んでいく必要があるという考えです。

この「公・共・私」の3つのテクノロジーが進化していく時、僕たちは本当に豊かな社会を自治していくためのノウハウが得られるのだ。

そう思うと、AIや科学技術分野のテクノロジーの進化(僕はこれをインフラ的、公的なテクノロジーとして捉えている)だけではだめで、むしろその公的テクノロジーの変化に耐えていけるだけの共と私のテクノロジー(対話や分配方法・制度設計というテクノロジーや、個人の成長を促すためのテクノロジー)も一緒に向上させていく必要があると思うようになったのです。

そして何よりこの「よりよい共を創る技術」は、その過程で多くの人の力を必要とします。一人ひとりの意見や貢献が集まってはじめて進化していく。どうしても科学やプログラミングなどのインフラ的なテクノロジーは一部の人が変えていくことを待つ以外に方法がなさそうに感じてしまうのに対して(*)、共の技術は、いつも多くの人が実際に手を動かしながら試行錯誤しながらでしか進まないという点で、全ての人に貢献可能・探求可能な技術だと僕はそんな風に捉えています。

(*)実際にはそこにも多くの人の協働や連携がないと進まないのですが、実感としてはどうしても遠くのものに感じやすい


そんな「よりよい共を創る技術」を模索しながら、実際にコミュニティを運営していこうとすると本当に難しいことがいっぱいあります。そんなコミュニティ運営の難しさと楽しさについて、次回は書いていきたいと思います。

人をくじけさせるのも人だけど、人を勇気付けるのも人なのだなと、つくづく。