こんにちは、信岡良亮です。連載「学習するコミュニティに夢を見て」第2回からは、そもそも連載名に据えた「学習するコミュニティ」ってなんのことだろう? というのをちゃんと考えてみたいと思います。
この言葉は『学習する組織』という本のタイトルからヒントを得てつくった造語です。二つの違いはもちろん「組織」がテーマか「コミュニティ」がテーマかという違いですが、まずは共通する「学習する」ということについて、連載3回分に分けて考えていきたいと思います。
1回目の今回は、「そもそも学ぶってなんのため?」について
2回目は、「では学習するって、どこに向かって何をすること?」について
3回目は、「楽しく学習していくために必要な要素ってなんだろう?」についてです。
「学習」には2種類ある
僕は学習にはそもそも二つの種類があるのだと思っていて、「学ぶ」と「勉強する」をここではあえて使い分けていきたいと思います。
先に区分けを明確にするために、この2つの言葉の勝手な定義からしてみると、
私たちはつい「学習」という言葉が使われるとき、勉強のイメージがつき過ぎていて、つまらなそう、いっぱい暗記しなきゃ、間違うと恥をかく、といったシーンばかり思い出してしまうのではないでしょうか?
でもちょっと立ち止まってみると、小さい頃に「あれなーに?」「どうして海はしょっぱいの?」といった質問攻めをして親から「そんなことより静かにして」と言われたことが誰でも一度はあると思います。人はそもそもとても好奇心の強い生き物なのだと。
このように、人がここまで発展してきたのはこの知的好奇心を元に「学習」しまくった結果なのだと思うと、何かを知りたい、学びたいという欲は、人の根幹なのだとも僕は思っています。
人間の好奇心は、どうしてなくなるのか?
『モモ』や『ネバー・エンディング・ストーリー』を書いた作家、ミヒャエル・エンデの問いに「なぜ言葉を理解していない赤子が、言葉を覚えれるようになるのか?(そこに意味を見いだせるようになるのか)」というものがあるのですが、犬も赤ちゃんも、言葉が話せないという点では同じなのに、なぜ人間だけが言葉を、その奥にある意味を理解できるのかは本当に不思議です。この違いは人間の「好奇心」が桁外れに強いことにあるのだと思うのです。
(犬もとても賢いと思いますよ!)
ではなぜ僕らは大人になるにつれて、そんな好奇心をなくしてしまうのか?
それは「自分の問い(不思議に思うこと)について学ぶことよりも、他者の期待に応えるために、他人から迫られて勉強ばかりに時間を奪われてしまう」からだと思うのです。
「学習性無力感」という言葉があります。例えば2m飛べるノミを高さ50cmの透明な箱の中にいれて、ずっと天井に頭を打ち続けると、箱から出した時に50cmしか飛べなくなるという実験がありますが、これはノミが「50cm以上飛ぶとよくないことが起こる、または自分は50cmしか飛べない」ということを学習した結果というのです。
僕たちは大学まで含めると20年くらいの時間、ずっと「自分で問いを持つことは時間の無駄」であって「早く暗記して、なぜ勉強するのかの問いを持つよりも単語を一つでも覚えること」ばかり学習していきます。自分で問いを探求するということに対して、僕らは無力感を覚え、無駄だという感覚ばかりを学習してきてしまっているのです。
人生を豊かにするための学習。では豊かな人生って?
知り合いの友人Kさんと話していたときのことですが、最近50代に突入した彼は僕にこんな笑い話を教えてくれました。
「なぜ勉強しないといけないか、それはいい大学に入るため。なぜいい大学に入らないといけないか、それはいい会社に入るため。なぜいい会社に入る必要があるのか、それはいい老人ホームに入るためらしいよ」。
なんとも笑えないアメリカンジョークみたいな話ですが、そもそも僕らはなぜ学習するのでしょうか? さらに一歩進んで、いい墓を入るためなのだとしたら、大学にいくお金でよいお墓を買ったほうが早くて安いです。
だからこそノミの天井を外して、改めて考えてみたい。そもそもなぜ学習するのか?それはお勉強という意味でなく、なぜ僕らは学ぶのか、という問いだとすると僕の仮説は「自分の人生を豊かにするため」ではないかと思います。
ではあなたにとって、「豊かな人生とはどんなものか?」、この問いは大切な問いですが、大切なだけに簡単に応えられません。何よりも僕にとって豊かな人生と、あなたにとって豊かな人生はきっと絵に描いたら全く違うものになると思います。
つまり自分で自分なりにその問いを追求する以外、その問いには応えられないのだとすると、それは他者の期待に応えるための暗記を中心とした勉強の結果では得られない。
自分にとって豊かな人生とはどんなものか? これに応えるためには、たくさんの学びの時間を自分自身で獲得していく必要があります。学ぶこと、それはあなた自身の知性と対話する時間なのだと思うのです。
心を伴う知、知性
現在AIの話などが盛んで「人工知能」という言葉があります。しかし人工知性とは言いません。知性と知能の違いはなんでしょう? それは「知性」は心を伴う知であるのに対して、知能は心を伴わないあくまで機能でしかないということです。エクセルの計算などは知能が進化していけばできるようになっていきます。
しかしながらあなたにとって価値ある人生とはなにか、といった問題については、知性を磨かないといけない。自分の内側、自分の心がどう感じるかを理解するためにこそ、僕らは他者であったり外界と接点を持ち、そこから学習するのです。
僕のおじいちゃんは仏師(仏像を彫る人)だったのですが、仏像を彫るという行為は、木から仏を取り出す行為だそうです。
僕は人も同じように、「自分のしたいこと」や「好きなこと」というのはほっといても内側から湧き出てくるというよりも、たくさんの社会や他者に触れて自身を削ってみて初めて内側に現れてくるものというイメージが強いのです。
学ぶということはまさに、自分の内側にいる自分を、自分で掘り出していく作業のように捉えています。だからぜひ、まだ好きなことやしたいことがない人、おぼろげだという人、自分にとって豊かな人生とはないかを探求してみたい人は、学び続けてほしいと思っていますし、そういう人と話すことで僕自身ももっと学びたいといつも思っています。
最後に学習すること、学ぶことについて、一緒にワクワクしてもらうために、またエンデの言葉を借りることにします。それはエンデが冒険について語っている一節です。
どうするかすでにわかっている冒険は、
本当の冒険じゃないでしょう。それならどこかの旅行会社がアレンジする冒険セット旅行だ。
本当の冒険は、そんな自分のなかにあるとは
それまでまるで知らなかった、
そのような力を投入しなければならない状況へ
人を運んでゆくものです。そしてそんなふうにして自分を知ることになる。
真の冒険者はそれを求めているのだと思います。
学びというものが、自分の知らない自分への冒険の旅だと思うとワクワクしませんか?
問いという言葉が、question(クエスチョン)であり、冒険がquest(クエスト)なのは、語源が同じだからです。「自分の問いを持つこと」が「自分を知るという冒険の始まり」なのだとすると、ぜひあなたの問いを聞かせてほしくなります。
こんなことを書きながら、学習という言葉へのイメージがちょっとでも楽しいものになったら嬉しい限りです。
人をくじけさせるのも人だけど、人を勇気付けるのも人なのだなと、つくづく。
(写真提供: 藤原明日美)