3/28(木)green drinks Tokyo 「創発を生む地域コミュニティのデザイン 」

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ゆっくりと変化していくものは美しい。石見銀山生活文化研究所を創業した松場大吉さん、登美さんに聞く、ブランドとまちをつくるということ

世界遺産登録された石見銀山遺跡のお膝元、人口わずか400人の島根県大田市大森町に根を張りながら、アパレルの企画・製造・販売、飲食店経営、古民家再生などを手掛ける「石見銀山生活文化研究所」。シリーズ第6回に登場するのは、創業者である松場大吉さん、登美さん夫妻です。

石見銀山生活文化研究所は、年商22億円を売り上げ、「群言堂」というブランドで全国に32店舗を展開しています。これほどの規模になれば、本社や本店は東京にあるイメージかも知れませんが、創業当初から、大森町に本社も本店も置き続け、今では、全国から群言堂をめがけて人がやってきます。ブランドとして確立されているのです。

そこには会社への想いはもちろん、大森というまちへの想いがありました。松場大吉さん、登美さんに、これまでとこれからを語っていただきます。

松場大吉(まつば・だいきち)
株式会社石見銀山生活文化研究所会長。1953年、島根県大田市大森町に生まれる。名古屋の大学を卒業し菓子メーカーに就職、営業として全国を飛び回る。28歳の時に故郷に帰ることを決断し、呉服屋だった実家の家業を継ぐ。妻や地元の女性が作った布小物をワゴンで行商するところから始まり、1988年有限会社松田屋を設立、翌年ブラハウスオープンを迎える。1994年に群言堂ブランドをスタートし1998年(株)石見銀山生活文化研究所設立に至る。衣料品・雑貨の企画販売の他、大森町で10軒の古民家を再生、東京・高尾駅のIchigendo、西荻窪Re:gendoなど、多くの古い建物を再生させ息を吹き込んできた。ある人曰く「夢に生きる人」。
松場登美(まつば・とみ)
株式会社石見銀山生活文化研究所社長。1949年、三重県生まれ。1981年、夫のふるさと島根県大田市大森町(石見銀山)に帰郷、内職仕事でためたはぎれを使って、布小物の製造、販売を始める。1989年、雑貨ブランド「ブラハウス」を立ち上げ、当時人口500人だった石見銀山に、築150年の古民家を修復して店舗とする。以来、夫と共に10軒の古民家を修復し、地域の人々が集まり、楽しめる場を提案している。1994年に始まった群言堂ブランドでは国内の素材にこだわった着心地のよい商品が人気を集め、土地に根ざしたものづくりのよさを全国に発信している。現在は大森町の古民家を再生した宿「暮らす宿 他郷阿部家」「暮らす宿 只今加藤家」も運営するなど理想の暮らしの実践・体験の場をつくり、次世代に日本の美しい生活文化を伝えることに力を注いでいる。

地方のブランディングは、自らの暮らし方とWe are here!を主張しない限りありえない!

名古屋で出会い、結婚した二人。カントリー風ブランド「BURAHOUSE」を立ち上げ、登美さんがデザインしてつくり、大吉さんが売る生活をしていましたが、1981年、大吉さんが生まれ育ったまち・大森町にUターンしました。

大吉 実家は呉服屋というか、下着から布団まで何から何まで販売する販売する「よろずやさん」で、当時は「BURAHOUSE」の商品を売りに歩き、じわじわと父親の仕事も受け継ぎながら、ものづくりと販売をする日々でした。

行商に毎日行って、終わって店じまいして、帰る。お金をかけず、無店舗販売というか、住所不定でしたが、東京の展示会に出たときに、お客さんに「この道で商売をやっていける」と言われたんですね。

この言葉が転機になり、本店づくりへとつながっていきます。

大吉 やっていけるという自信があったというか覚悟をしたというか、大はったりだよな(笑)まずは本店づくりをしようと。そのときイメージしたのは、メーカーのショールーム。物販のお店ではなく、理念のショールームにしようと考えたんです。

大田市内のスーパーや駅前ビルからも誘いがありましたが、手に入れたのは、大吉さんの自宅の目の前、酒造りの大番頭が暮らした立派な材を使った空き家でした。

大吉 江戸時代の建物で、中が明治・大正時代の雰囲気というつくり。もともと目の前にあって、便利だなと思ったし、住んでいたおばあちゃんも知っていて、子どものころ、中に入るとびっくりするほど大きな屋敷だった。空き家だったけど、ここが一番いいなと。でも、お金がないんですよ。年間売り上げ3000万円くらいのときに3000万円借りました。

朽ちかけた家を手に入れ、時間をかけて一部屋ずつ直していきました。当時としては画期的でした。

大吉 メッセージだけを店頭に置いて、商品は奥に並べましょうという一般の商売とは真逆のことをしたんです。何が言いたかったかというと、ここでしか、私たちしかできないということ。

ここの場所を主張しない限り、ブランドはできないんですね。本拠地だからこそ理念のあるショップができる。北海道から九州までいたお得意先も本店を一度見たいという空間にしようと。商品よりも空間を意識していました。

登美 本店をつくる前の7年間は、鳴かず飛ばずで、まだ遠くにしか光が見えない、悶々とした感じでした。でも大吉さんは勢いはあったというか、ショールームは面白い考え方で、変わった場所づくりだったと思います。

ちょうど大森の町が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されたころ。会社のスタートと同時に町並みの保存が始まり、古民家再生も始めました。大吉さんは、まちづくりをしていくのは自分の大きな役割だと感じるようになります。

大吉 この地域にいる行政マンや歯医者など一緒になってつくったんですよ。毎晩、飲み会をして、店の中で煮炊きして遊んでました。名付けて「コミュニケーション倶楽部BURAHOUSE」。町並み保存から古民家再生、プライベートまで話題は尽きることはありませんでした。

集まったメンバーで、コンサートやまちづくりの勉強会も開催するようになりました。登美さんは女性だけのひな祭り「鄙のひな祭り」を企画。男性がエプロンを着け、裏方で応援するイベントは好評で、その後、10年間続きました。

登美 もともと大森の町は、田舎の割には品格がある、住んでる方々そのものが醸し出している雰囲気があると感じていました。「鄙のひな祭り」をして、ここで生きるという確信が持てたのがよかった。ここでの財産は人との出会いです。

そして、いつしか古民家の縁側に草花を生けるようにしたんです。ダリアや洋花よりも、山野草が生きてくる。これを町の人がみんな見てくれていて、いろいろ試していると、美しいということがわかってくるんですね。

まちの未来とものづくりが一体化したブランドへ

次の転機がやってきます。一番良いときで年間4億円を売り上げるなど順調だった「BURAHOUSE」を捨てて、「群言堂」へとブランドを大きく転換したのです。なぜだったのでしょうか。

大吉 「BURAHOUSE」は、子育てをしている30歳前後の主婦が主力購買層。カントリー風の、くまさんウサギさんの子ども用お弁当袋などをつくってきましたが、自分たちも40歳を過ぎてきて、似合わなくなってきた。2人で困ったなと言っているときに、小さな古い家を50万円で購入したんですね。その家を、文明を排除した、電気もガスも水道も引かない究極のシンプルな家としてリノベーションしたんです。

「無邪く庵」と名付け「ろうそくの家」とも呼んでいたその家ができあがった瞬間、自分たちのためにものづくりができる空間なのか、話し合ったそうです。

大吉 「BURAHOUSE」はカントリーの世界。このまちと一体化できるかと考えたときに、潔く、捨てようと。このまちの未来と私たちのものづくりとを一体化したブランドにしなくてはいけない、と思いました。自分たちはここにいて、まちに生かされている。一体化しないといけない。

登美 「BURAHOUSE」は人気があって、ファンもいましたが、そっくりな中国製のものが流れ出していました。人が真似できないことをしないといけない。

新しいブランド名「群言堂」は、よく一緒に「無邪く庵」でお酒を酌み交わしていた中国人留学生が「松場さんちは、群言堂だね」と言われたことがヒントになっています。

大吉 彼いわく、群言堂とは「みんなでワイワイ発言しながら、一つの言葉を導き出し、そしてよい流れをつくっていくこと」。言葉をもらいながら空間ができる。次の群言堂のスタイルは、空間を得てこそできあがったブランドです。群言堂を得るのなら、「BURAHOUSE」は捨てると決めていましたね。

とはいえ、「BURAHOUSE」は一つの時代を築き、成功を収めていたブランドです。売り上げも落ち込んだわけではなかっただけに、周囲を驚かせました。

大吉 お得意さまも100件くらいいたのに、勝手だよね(笑)売れていたので、取引先には、当面商品はつくってほしいと言われました。群言堂を育てていく一方で、BURAHOUSEの在庫を少しずつ減らしていき、ゼロにできたのは5年後でした。

この場所を大切にするという根本は変えていませんでしたが、新ブランドで意識したのは、地域の特徴を生かしたものづくりでした。この町並みを大事にしながら、日本の素材で大人の洋服ブランドをつくろう─。登美さんは新しい服をデザインしていきます。

登美 私は突出した作家性がないかわりに、なんでもできる、やっちゃうという感じもあって。それに夫から「できる」って言われるとできそうな気がしたのね。二人とも安穏としたところにいるとだめなところがあって(笑)

デザイン的には、体が楽であることを大切に、心が元気になることを目指しました。できるだけ天然の素材を使って。

大吉 他にない、独自性のあるものを生み出しました。それは、流行を見ないへんぴなところだからこそだったかもしれません。

世界遺産登録で気づいた「くらしが一番」

会社のブランドを育てていきながら、並行してまちづくりにもますます力を入れていきました。きっかけは、2007年に大森の町を含めた石見銀山が世界文化遺産として登録されたこと。大吉さんは、世界遺産登録に反対の立場でした。

大吉 世界遺産そのものの考え方には賛成でしたが、町並み保存を進めてきたのに、大勢の人が一気に訪れてまちを壊したり、古い空き家が店に変わっていったりするのではないか心配でした。白川郷にも視察に行き、住民が喜んでいないことも知り、暮らしがないがしろにされることは違うと思ったのです。

それでも、国と島根県、大田市が中心となって運動は進み、世界遺産登録は現実味を帯びてきました。

大吉 まちづくりを一緒にしていたメンバーも賛成と反対に分かれました。最初は半々でしたが、1人、2人と反対は減っていきました。それならば、自分も反対ばかり言っていないでまちの中に入っていって、活動しようと。このまちが好きで、まちの中で仕事をしているからこそ、議論の場に加わらせてもらいました。議論の中で、いい方向に着地したと思っています。

登美 町がちっちゃいから合意形成しやすいというのはあります。意識して仲良くしているのもありますし、何かというと団結しますよね。

議論の結果、町の中に観光車両が入ってこないよう規制したほか、住民憲章をつくりました。町内三カ所に看板が設置され、観光客も含めて誰でも見ることができるようになっています。

大吉 他の地域の住民憲章も見ながら、住民5人でつくりあげた文章です。もっとも伝えたかったのは「暮らしが一番」ということ。暮らしをないがしろにして観光地化されるべきでもないし、暮らしあってこその豊かさだと。住民憲章制定から10年が過ぎましたが、大森の町には有料駐車場が一つもありません。素晴らしい町民の意識、モラルの高さだと思います。

大吉: 石見銀山の世界遺産登録は、世界の銀の3分の1が産出された鉱山の遺跡という経済的な意義が一番の看板でしたが、近代化に乗り遅れてゆっくりゆっくりしてきたことで、自然と共存していることも価値として評価されました。「まちがどういう発展の仕方をすれば人は幸せになるのか」を発信できる可能性を感じています。

その後、町内にある古民家を買い取っては再生することを繰り返してきました。
宿として再生させた「他郷阿部家」をはじめ、10軒に上ります。「おかげで会社経営者とは思えない通帳になっている」と嘆く登美さんに「宝くじ買ってるがな」と笑って答える大吉さん。なぜそこまでできるのでしょうか。

大吉 好きでやってるわけではないんですよ。意義があるからやっているのです。

登美 たとえば、今、他郷阿部家として多くの人に喜んで来ていただいている宿には、かつて素敵な女性が暮らしておられました。その暮らしぶりを知っていて、この建物であれば、手を入れれば生まれ変わるなと思っていたら、向こうから話が来た。二軒目の宿となる加藤家も、いい家ですが、再生するには大借金しました。でも、喜んでくださる方がたくさんいるから、やらないわけにはいかない。

オリンピック後の新しい価値基準になる

洋服メーカーからスタートした群言堂は、その後、小売りも始め、そして衣食住を含めたライフスタイル産業へと成長していきました。

大吉 製造小売業というスタイルへの挑戦も大きな転換でした。業界としてはタブーでもあり、小さいメーカーが乗り出すことではないと言われましたね。いまは医食同源ならぬ「衣食美同源」というスタイルです。衣類だけではなく化粧品もあり、ライフスタイル全体。このまちのくらしから生まれるスタイルが強くならないといけないと思っています。

登美 くらしをデザインする。そこまで意識していなかったけど、文化を意識はしていたし、やってきたことはソーシャルにつながっていて、ソーシャルデザインということだったんだなと思います。

2人は40年前に出会い、30年前から事業経営を始めました。最初から今の理想の姿が見えていたわけではなかったし、反対も多かったと言います。

登美 二人とも伝えるのが下手だし、五感を使って理解してもらう、そういうステージができはじめてきたのかもしれません。私たちの奇人扱い、やっと変人くらいになってきました(笑)
何が反対かというと、みんなは便利、早く、豊かになるためを目指していたのだけど、それが本当なのか、逆説を持って実験をしてきた30年間であり、そしていまも実験中。人生をかけて壮大に実験してきたのよね。

大吉 壮大だなあ(笑)本当に、世間の反対を受けてきた。自分たちがこう目指してきたというより、歩きながら積み上げなから、時代があとからついてきたという感じがします。

こうした中で、力になってくれたのは、「よそ者」とも言える人たちの存在でした。

登美 アーティストがいたり、外国人の英会話教室の先生がいたり。アメリカ人やタイの留学生もいた。人が集まってきたことで、その人たちがかかわってくれたことで、やってきたことの意味を教えられてきました。

中でも、大きな影響を受けた一人が、鉄を使った作品を手掛けるアーティスト吉田正純さんでした。吉田さんは、完成しかけた「無邪く庵」の壁に灰を振りかけ、囲炉裏の木枠をバーナーで焼き付けるなど、きれいにできあがったものにむしろ手を掛けて、汚していったと振り返ります。

大吉 でもそれは美しかった。彼が教えてくれたのは経年変化の美しさでした。変化しないものをよしとするのではなく、建物もさびても美しいと。変化していくものを美として、手間がかかるがゆえに、また時間がかかるがゆえに面白い、遠回りするのがいいと。

企業経営にもまちづくりにも、変化、そして非効率なことを大切にしようという精神は埋め込まれています。

大吉 数字で言えば、経済49%、文化50%という考え方です。残りの1%が理念です。強くて高い壁の理念です。経済が超えない文化が大事。まちづくりでも、住民憲章あってこそだから、変なことにはならない、難しいのはにぎわいと穏やかさの両立。バランスを保っていくことが、次の世代への大きな宿題ですね。

大吉さんと登美さんは、群言堂と大森の未来をどんな風に考えているのでしょうか。

大吉 これからの地域づくりは、500人くらいが1ロットで、一致団結しながら、こんな地域にしていくんだという長いビジョンをつくって、ひたすらゆっくり、媚びずにぶれずにしていくこと。それが持続可能なまちづくりではないでしょうか。そうすると個性、つまり、人の心や景観価値ができる。いま、コンビニや信号のない大森が、オリンピック後の豊かさの新しい価値基準になるかもしれない。

これからは、地方のまちの全てが生き残れるわけではない。いかに人の心をうつ地域づくりをしていくか。合意形成したら、あとはゆっくりゆっくり伝えていくしかない。

登美 昔は確かに貧しかったが、心豊かなところも持っていたんですよね。それをなぜ私たちの世代が子どもたちに伝えられなかったのか。でも、若い人たちの中には、心豊かに生きようとしてもできなくて苦しんでいる人もいる。「これで間違っていないんだ」という方向性を示し、若い人たちがその環境の中に入れるような場として、他郷阿部家やこのまちが果たせる役割は大きいと思っています。

言葉だけではなく、お二人の佇まいから、大森町で生きることの喜びと豊かさが伝わってきました。そして、変化を恐れず、ブランドとまちを育てていくことが、ひいては文化をつくることにつながっていくのだと。

本記事で連載前半が終了。後半は「石見銀山の暮らしびと(大森町編)」として、大森町のプレーヤーを紹介します!こちらもご覧ください。

石見銀山の暮らしびと(大森町編):https://greenz.jp/project/iwamiginzan2/