千葉県いすみ市にある創業140年の酒蔵「木戸泉酒造株式会社」。今から60年以上前に、天然の乳酸菌を用いた「高温山廃酛(もと)」という独特の酒母づくりを始め、「添加物や農薬、化学肥料を一切使用しない日本酒をつくりたい」という強い思いから、自然栽培米(一部商品)を使った自然醸造酒の製造を行なっている酒蔵です。
オーガニックな食にこだわりたいという価値観は、今ではだいぶメジャーになりましたが、これが当たり前になったのは最近のこと。60年以上も前に、そのような思いで酒づくりをしている酒蔵はけっして多くはありませんでした。
2年前に五代目蔵元(兼、杜氏)に就任した荘司勇人さんは「自分は、この酒づくりのやり方しか知らないし、こうやってつくるのが当たり前なんです」と話します。木戸泉の歴史と、受け継がれてきた良き旨き酒を継承する勇人さんの今を伺いました。
始まりは小商いだった!?
木戸泉の創業は、1879年。きっかけは、ひょんなことだったと言います。
うちは、酒蔵を始める前からいろいろな商売をやっていたらしいんですね。漁業もやっていて、港にもゆかりがありました。あるとき、地元の大原の港に、本当はよそで使うはずだった酒づくり用の桶があって、引き取り手がなくて困っていたそうなんです。じゃあ、うちで引き取って酒づくりもやりますか、ということで始まったようなんです。
創業のきっかけが、だいぶライトで驚きました(笑) 当時は、今でいう小商いに近い感覚で、始めたのかもしれません。
今の木戸泉の資質ができあがったのが、1956年のことです。私の祖父にあたる三代目蔵元の時代でした。それまでは、どこにでもあるごく一般的なつくり酒屋でしたが、祖父は、お酒は人の体に入っていくものなので、なるべく余分なものは使わず、害のない、心身が豊かになるものをつくりたいと考えました。
時代は高度経済成長の真っ只中。劣化防止(=酒税の徴収の健全化)のために、日本酒にも、合成保存料の添加が認められていました。その危険性が指摘され、添加が禁止になったのは、1969年のことです。
祖父は、禁止されるよりも10年以上前に、劣化ではなく、しっかり熟成が進むお酒をつくりたいということで、合成保存料を使うことをやめたんですね。そして木戸泉独自の「高温山廃酛」という仕込みを開発したんです。
高温山廃酛とは、天然の乳酸菌を用いて、高温で酒母(※蒸した米・麹・水を用いて酵母を培養したもの。日本酒のもととなる)を仕込む酒母づくりの手法。昔ながらの山廃酛は7~9度の低温で仕込みますが、高温山廃酛では55度という高温で仕込みます。製造の時短になるうえ、できあがったお酒の味が豊かになるという利点もあります。
簡単に言うと、山廃といわれる昔ながらのつくりを、千葉の気候風土に合った形にアレンジしたものです。祖父は昔ながらのやり方でつくりたかったんですけれども、それだと時間もかかるし、千葉の温暖な気候風土にはあまり適していないだろうということで考え出したそうです。
自然醸造酒と古酒への挑戦
そして、材料にもこだわりたいと始めたのが、自然栽培米を使った酒づくりでした。これも三代目の、害がない、安全なものを提供したいという思いから始まったもの。自然栽培米を使ったお酒は、不思議と酔い醒めがよく、二日酔いになりにくいとお客さんからもよく言われるのだそう。
さらにもうひとつ、大きな特徴として、古酒の製造を続けていることが挙げられます。木戸泉は、ワインやウイスキーのように、日本酒で長期熟成酒をつくることに挑戦したのです。手元に残るいちばん古いお酒は、1969年製造のもの(販売は1974年製造のものから)。毎年、製造したお酒のうち、一定量を古酒づくりへと回しています。
これはもう、うちの宝ですね。つくり手だって、私を含めると4人は携わってきています。一代じゃできないことがある。ものをつなぐことでこうやって表現できるものがあるんですね。すごいものを残してくれたなと思います。なにより、ずっと続けてきたのがすごいと思います。だってお金に変わらないんですよ(笑) すぐには現金化できない。しかも、古酒にしたところで、当時は高く売れる保証すらなかったわけですから。
代々続いてきたからこそ、実現できることがある。時間をかけて生み出された木戸泉の古酒は、今では商品化され、木戸泉の代名詞のひとつにもなっています。そして勇人さんは、こうした伝統の酒づくりを守り、この先も受け継いでいくことに、常に心を置いています。
酒をつくってみたいという思いから後継者に
勇人さんは、5人兄弟の長男。東京農業大学の醸造学科には、後継者枠という推薦制度があり、勇人さんもその制度を利用して大学に入りました。それは建前のようなところもあり、今のように強い決意をもって後を継ごうと考えていたわけではなかったそう。弟ふたりも同じように醸造学科に進んでおり、当時は「誰が後継者になってもよかった」と振り返ります。
その気持ちに変化が現れたのは、大学で本格的に醸造の勉強を始めてから。
勉強していくなかで、うちはすごくいい酒をつくっていたんだなと気づいたんです。そうしたら、自分でも酒をつくってみたくなりました。私は、性分的にも職人のほうが合っていて、家に戻ってきたときも、家業を継ぐというより、お酒をつくりに戻ってきたという感覚のほうが強かったですね。
お酒をつくりたいから家に戻ろう。そう決めたものの、大学卒業後、すぐに実行に移したわけではありませんでした。海外のぶどう農家に研修に行こうとしてみたり、都内の飲食店や酒屋で働いてみたり。30歳をすぎたら帰るという、ざっくりとした思いだけは持っていました。
酒をつくりたいという私の思いは父も知っていたんです。それで、あるとき父から「将来戻ってくる気があるんだったら、親方たちが元気なうちに戻ってきて教えてもらってもいいんじゃないか」と言われたんですよ。それもそうだなと思って、結局26歳のときに帰ってくることにしたんです。
老舗を継ぐというプレッシャーがなかったといえば嘘になりますけれども、それ以上に楽しみでした。お酒づくりもそうですし、自分がつくったものをひとりでも多くの人に知ってもらいたかった。でもその当時は、業界からダメ出しをくらっていた大変な時期でもあったんですよね。
60年前に確立した酒づくりをひたすら続けてきた
木戸泉のお酒は、味が濃く、酸味に特徴があります。たとえば代表商品の「アフス」は、ふわっとフルーティな香りが漂い、色もうっすら黄色づいていて、まるで白ワインのような味わいです。日本酒は淡麗辛口が良しとされ、今のように酸味も良しとする風潮はなかった時代。木戸泉のお酒は、好んで飲んでくれる人がいる一方で、広く一般には受け入れてもらえませんでした。
それまでマイナスだった部分を、個性として認めてくれるような評価方法ができて10年ぐらいじゃないでしょうか。市場的には、うちのお酒が受け入れてもらえるようになったのはここ5年くらいのことです。
なかなか受け入れられなかった時代、認められるために何か工夫したことはあったのでしょうか。
うちは味については一切変えていないです。時代に沿ってつくってきたわけではないんです。60年前に確立した酒づくりをひたすら続けてきただけ。だから、かっこいい言葉でいうと、時代が追いついてきた(笑) もちろん、常に品質を向上させるための努力はしていますけれども、根本的に、味を変えたりつくり方を変えることは一切しないですし、今後も変えるつもりはありません。
地域の力を借りて始まった「外房いすみ酒蔵開き」
ただ一方で、酒造業界は年々製造量が減少し、斜陽産業であることは否めないと勇人さんは言います。なかでも大打撃となったのが、東日本大震災でした。売り上げはガクンと落ち、2012年は経営的にもっとも厳しい状況に置かれました。そこで先代が始めたのが、今も続く「蔵開き」でした。
このままじゃいかんということで、何かしようという話になったんです。酒蔵が人を呼んで成功している事例が全国にいくつもあったので、うちも駅が近いし、やってみようかということになりました。
毎年4月に開催している「外房いすみ酒蔵開き」は、近隣の商店街にも協力してもらい、酒蔵の見学はもちろん、利き酒ができたり、フードマーケットが並んだりと、普段は静かなまちが大勢の人で賑わいます。例年、天気に恵まれないというジンクスはあるものの(笑) 晴天となった2017年の蔵開きには5000人以上が参加。関東各地から、お客さんが来場したそう。
地域との関わりということでは、「大原はだか祭り」という大きなお祭りで、各神社の御神酒としてうちのお酒を使っていただいています。地元で、神に供える御神酒に使っていただけるというのは、とてもありがたいですし、誇りに思いますね。
100年先を見据えて考える
地域と酒蔵は、じつは密接なつながりがあります。というのも、酒造免許というのは、会社ではなく、お酒を製造する番地(土地)に与えられるものなのです。つまり、いったん酒造免許をとってしまえば、そこからの移転は簡単にはできないということです。
いすみには、酒づくりに適した良質な水がありました。使用している酒米も、県産の割合が増えています。現会長(四代目蔵元)は、勇人さんに代替わりしたあと、自ら自然栽培米をつくっているそうです。いずれは、自社で自然栽培米を生産し、原料づくりから手がけていきたいと考えています。
本当は餅は餅屋で、米づくりは農家さんにお任せするのがいちばんいいと思います。でも農家も高齢化が進んで、うちが契約している農家さんのなかにもやめる方が出てきているんですね。50年、100年先を見据え、今使っている量を確保していくには、自分たちでやる必要がある。それが、いちばんリスクを回避できる方法なんだろうと思っています。
酒づくりは究極のローカルビジネス
蔵人の代替わりも進み、現在の平均年齢は36歳。なんと43歳の勇人さんがもっとも年上だそうです。「それって未来がありますよね」と勇人さんは笑います。
この年だけ成功すればいいやとか、目先だけ考えちゃうと絶対うまくいきません。これをいかに継続させていくかということを念頭に考えてやれば、なんでも続いていくんじゃないかと思うんです。
酒づくりに適した土地と環境に、代々の蔵元の努力や思いが積み重なり、今日まで脈々と続いてきたという事実は、揺るぎないものです。お酒というのは、この場でなければけっして生み出せない「必然」があるものなのだと思いました。ある意味で、究極のローカルビジネスではないでしょうか。
そして、より良きお酒を目指しながらも、つくり方や味はひたむきに守り通していく。いっときの流行品のような儚い華々しさは、そこにはないのかもしれません。しかし、関わってきた人々が土台を踏み固めてくれているからでしょうか。その先に見える未来は、とても確かで力強いものだと、そう思うのです。
(写真:藤 啓介)