あなたは今、初めて来た場所で初めて出会う人たちと、ひとつのテーブルを囲んでいます。何を喋ればいいのか、どうやって話かけようかと戸惑う人も多いのではないでしょうか。
でも、もしテーブルの上においしそうな料理が並んでいたら?
「わあ、おいしいそう!」「この料理何かな?」なんてコミュニケーションが、生まれそうですよね。そしていざ料理を食べたら、「すごくおいしいですね」「今日はなぜ参加したの?」と自然に会話が弾み、お互いのことを知るきっかけになるかもしれません。
大阪に拠点を構える「NPO法人essence(以下、essence)」は、”障がいを感じるすべての人に潤いを”を理念に2012年に設立。食の力を通じて「全国各地で暮らす障がい者と健常者がお互いを知るきっかけをつくりたい」という思いから生まれました。
代表を務める岩永歩さんは、パンを求めて全国からパン好きが集まる「ル・シュクレクール」のオーナーでもあります。
飲食業界で活躍する岩永さんが、なぜNPO法人を立ち上げ、障がい者に向けたアプローチを始めたのか? 設立から現在までの歩みと、これからの「ほしい未来」についてお伺いしました。
1974年、東京都出身。高校生の時、大阪・吹田市へ引越し。大学を中退し、パン屋へ弟子入り。複数のパン屋で修業した後、2002年にパリへ。帰国後の2004年、30歳で独立し、吹田市で「ル・シュクレクール」をオープン。三ツ星レストランへもパンを提供するなど、多くの人を魅了している。2012年には「NPO法人essence」を立ち上げ、障がいのある人も心に潤いを感じられる社会を目指し、食でつながるコミュニティづくりに取り組む。
多様な人をつなぐ
コミュニケーションツールとしての食
まずは「essence」の活動を見ていきましょう。
2012年の設立当初から取り組んでいるのが「手話交流会」です。手話ができる人もできない人も、耳が聞こえる人も聞こえない人も関係なく、一つの場に集い、手話を交えながらランチやカフェタイムを楽しむこの会は、過去6年で56回開催。のべ800人が参加しました。手話で日常会話を楽しむ場として気負うことなく参加できるのが魅力です。
初めて手話に触れる人でも、交流会が終わる頃には手話で簡単な挨拶と自己紹介ができるようになるんだそう。
耳が聞こえる人にとっては、今まで知らなかったことを知るきっかけに。日頃から手話で会話している人にとっては、思いっきり手話で話ができる時間になっています。
また「交流食事会」と題して、障がいがある人もない人も、みんなでおいしい料理を楽しむ会も開いています。会場となるのは「essence」の活動に賛同してくださった飲食店です。
おいしい料理があれば、初めての人同士でも打ち解けやすくなるのが食の不思議なところ。手話や筆談、タブレットを駆使しながら聞こえる人と聞こえない人が日常会話をしながら、少しずつ距離を縮め、お互いの理解につながっています。
「おいしい」を起点にした取り組みとして、2018年からは「手話通訳付きessence料理塾」をスタート。第一線で活躍する料理人や生産者と一緒に、さまざまな角度から食に向き合います。
テーマは和食からスイーツまで幅広く、「出汁の違いを知ろう」「命をいただく」「味覚って?」など、一歩踏み込んだ食の世界に出会うことができます。
さらに、年1回ペースで「essenceマルシェ」も開催。essence賛助店舗を中心に全国から集まるおいしいパンやスイーツ、野菜を楽しみながら、障がいについて知るきっかけも提供しています。マルシェは障害がある学生の就労体験の場にもなっており、障害当事者もイベントスタッフとして参加。障がいのある人もない人も、子どもも大人もみんなが楽しめる場づくりを大切にしています。
他にも、補助犬や、障がいがある人でも来やすい店舗であると宣言する「補助犬ステッカー」「車椅子ステッカー」「耳マークカード」を作成し、2014年から普及活動を行っています。現在は北海道から沖縄、ハワイまで、飲食店を中心に様々な業種の店舗にも導入されています。
誰もが障がい者になる可能性はあるのに
関心がないのはなぜ?
岩永さんが「essence」を立ち上げるに至ったきっかけは、今から約20年前。長女の誕生までさかのぼります。
長女は重度障がい児として生まれました。見えない、聞こえない、食べられない、歩けない。「この子が生まれてきた意味ってなんだろう?」って考えました。
同時に、障がい者への偏見も感じるようになったと振り返ります。
障がいって本当はいつ誰がなってもおかしくないこと。でも日本人のほとんどが対岸の火事のように思っていますよね。障がい児を育てている親ですら、多様な障がい者と出会う機会は少ないんです。
今の日本社会は、障がい者と健常者の接点が異常なほどない。国による障がい者に向けたさまざまな措置も、最初はよかれと思ってやったことなんでしょうけど、それが知らない間に権利みたいになって、障がい者と健常者の間に溝を生んでしまっています。腫れ物に触るようにしか接することができないのは、おかしいと思うんです。
障がいがある子が生まれたことで、岩永さんは障がい者から見た世界を知りました。そして障がい者から見える世界と、健常者から見える世界の両方を知っている岩永さんだからこそ、やるべきことがあると感じるようになります。
でもすぐにNPOを立ち上げ、障がい者と健常者をつなぐ活動を始めようと思ったわけではありませんでした。
長女が生まれたのは1996年。「長女が生まれてきた意味はなんだろう、ないわけじゃない」と言いながら、忙しさにかまけて気付けば何年もの月日が流れていました。
日本とパリで10年間修業をして、30歳で独立。岩永さんは人生のすべてをかけてパンと向き合い、結果を出してきました。しかし30代後半になった時、「自分のためだけではなく、誰かのために役に立ちたい」と思うようになったそうです。
「30歳にもなって自分以外の誰かのために何もできないのってダサいな」と単純に思ったんです。20代は本当に好き勝手やらせてもらいました。頭の中はパンのことばかり。いつも業界やパンの本を読んで、新聞すら読まなかった。お店も持ちましたが、全部自分のためでした。ずっと飲食業の中にいたんですね。でも、その飲食業は社会の中にあると気付いた時、僕にも社会の中で果たさないといけない役割があるんじゃないかと思いました。
おいしいパンを焼いて、お客さんが笑顔になってくれる。おいしいと喜んでくれる。それはもちろんすばらしいこと。でも、それだけで満たされてはいけないのではないかと、岩永さんは考えるようになります。
飲食業は外的要因によって成り立っています。お客さんが来て、評価してくれて、応援してくれる。じゃあ自分たちが何をしているのかと問うと、「おいしいものをつくれるように努力しています」と。でもそれは自分のため、つまりは営利活動です。
大手以外の飲食業を営む人の中でCSRという言葉はほとんど語られることがありません。飲食の労働環境は決して整っているわけではないけれど、持続可能な未来のために、僕たちも何かしなきゃいけないんじゃないかって思うんです。
そして、ぼんやりと岩永さんが「障がい者のために活動するNPO法人を立ち上げようか」と考え始めた頃、東日本大震災が起こります。
震災直後はNPOを始めている場合じゃないと思い、現地で活動する人から話を聞いて、救援物資を送っていました。でも、やがてみんなと同じことをするより、自分だからできることをしようと思うようになって。
実際に東北を訪れたのは1年後、女川で青空レストランに参加しました。そこで僕のパンを食べたおばあちゃんが、「こんなハイカラなパンを食べられて、生きててよかった」と涙を流しながら言ってくれたんです。材料費も交通費も時間も労力もかかっているけれど、目の前のたった一人のためだけにやってもいいじゃないか。0を1にするだけで価値があるじゃないかって気が付いた時、僕はNPOをやろうと決心しました。
NPO設立を考えはじめた頃、岩永さんは身の丈以上のことを想像して一歩踏み出せなかったり、「僕なんかに何ができるのだろう」と自分を信じられない気持ちもあったりして、なかなか決断ができなかったと振り返ります。でもこのおばあちゃんとの出会いが、「一度に100や1000の成果を生めなくてもいい」「たった1でも生まれたらすばらしい」という気づきにつながり、岩永さんの背中を押すことになったのです。
言葉は、他者とつながる魔法の呪文
岩永さんがこれまで「essence」で取り組んできたのは、「知らないことを知るきっかけづくり」。でも、なぜそれをしようと思ったのでしょう?
NPO設立を模索していたある日、耳の聞こえないお客さんが来店されたので、僕が考えていることを伝えて「何があれば嬉しい?」って筆談で聞いたんです。そしたら「お店に行きたい」って言うから「来たらいいじゃん」と伝えたら、「気軽に行けるものではないんだ」って。あまりのハードルの低さに愕然としました。こんなことを今の社会は願望にさせちゃってるんだって。
この出来事をきっかけに、岩永さんはお店のあり方を考えるようになります。
お店を出している以上、誰が来店してもOKなはず。でも、そこに障がい者の存在が意識されているお店がどれだけあるでしょうか。お店にお客が来なかったら、普通はその理由を考えますよね。でも、「何年も障がい者が来ていないな」と気付く人はほとんどいないと思うんです。
「意識外のものには気付けない」という気付きから、「知る機会をつくる」活動は始まっていました。
「障がい者と健常者の懇親会」みたいなのって、何を話していいかもわからないし、なかなか行けないんです。でも「みんなでおいしい料理を食べようよ」って呼びかけだったら、行きやすいですよね。食をツールに集まって、食べて「おいしいね」って会話が生まれる中で、もしかしたら踏み込んだ話になるかもしれないし、回数を重ねれば友達になるかもしれない。社会の中で、飲食店はそういう機会を生み出す場として有効だと思っています。
耳が聞こえない人との交流を重ねるうちに、岩永さんはフランスでの修業時代に経験したある感覚と似ていると気が付きます。
フランス語はほぼ話せないまま渡仏したのですが、フランスの人たちが「ボンジュール」ではなく「おはよう」と挨拶してくれた時、僕の文化に歩みよってくれるようですごく嬉しかったんです。
フランス人と初めて働いた時も、最初はまったく相手にされなかったのですが、聞きたいことがあったから、日本人シェフにフランス語をカタカナ読みで書いてもらって、そのまま読み上げたんです。どこで単語が切れているかもわからない、呪文のようでした。でも、そのフランス人はすごく喜んでくれて。
呪文を唱えたら、僕とフランス人の間にあった隔たりをなくす魔法がかかったんです。それまで意思疎通ができなかったのに、言語を介して一歩踏み込めたんでしょう。手話も一つの言語だから、同じことがあると思います。
社会のでこぼこを平らにしたい
あちこちにある飲食店だからできること
地域に住む誰もが来店できるお店づくりは地域貢献であり、全国に点在する飲食店が、障がい者と健常者の接点づくりの場となれば、それは大きな社会貢献につながると岩永さんは考えます。
また飲食業と両立してNPOの活動を始めたことで、誰かの役に立つだけではなく、岩永さん自身も勇気づけられる出来事があったそうです。
重度障がい者の娘を持つ意味をずっと探しながら飲食業をしてきました。飲食業は外的要因で守られているから、「自分たちで何もしてないやん」という思いがあり、一時期すごく消費されている感じがありました。お客さんにパンをひたすら提供して、身も心も削られて、疲弊していって。
でも僕を必要としてくれる人もいたんです。「川村義肢」という大阪の義肢装具メーカーの社長が「僕たちは道具で、障がい者の人たちが生活しやすいようにサポートする。生活できるようになったあとのケアを飲食業の人たちが意識を持ってやってくれたら、すごく嬉しい」と言ってくれて。社会に貢献できることが何もないと思っていた飲食業にも、社会に於いての役割のバトンを渡してもらえたようでとても嬉しかったんです。
日本中、世界中の飲食店が障がい者と健常者をつなぐ「受け皿」にまでなれずとも「きっかけ」くらいになれたら、こんなに嬉しいことはないですね。
とはいえ活動を始めて6年、岩永さんは自身が満足できる成果を出せていないことに歯痒さも感じています。
一般社会のスピード感に比べて、福祉業界は10分の1くらいのスピードで進んでいます。6年やりましたが、飲食店に置き換えるとたった6ヶ月。オープンのゴタゴタが落ち着いてひと段落したところです。まだまだ模索中。社会のでこぼこを平らにするため、小規模でもよいからできることを継続してやっています。
団体名の「essence」は「一滴の雫」という意味で名付けました。ささやかな試みですが、その雫が小さな流れになり、川になっていけば嬉しいです。
障がいのあるなしも、国籍も関係なくまぜこぜの社会になるには、50年、もしかしたら100年かかるかもしれません。僕はその大きな変化は見られないかもしれないけれど、0から1cm動かすのと、1cmから2cmに動かす労力は同じじゃない。遠い未来から見た時、この活動が0から1cmでも世の中を動かした役になれたらいいですね。
知ってもらうというのは、簡単なようですごく難しいこと。しかし岩永さんのように、従来のNPOとは違うアプローチをしていけば、今まで届かなかった層にも声を届けられるかもしれません。
もし記事を読んで、「今の暮らしの中で、障がいのある人に出会う機会が少ない」と感じたのであれば、少し立ち止まって「なぜ?」を考えてみませんか。
大きな川が一粒の雨から始まるように、分け隔てられた世界をつなぐ大きな流れは、誰かが落とすその一雫から始まるのですから。