文化人類学者で環境活動家、スローライフや生き方についての著書も数多く著している辻信一さん。
そんな辻さんが中心メンバーとなって11月11日・12日に開催されるのが「しあわせの経済 世界フォーラム 2017」。グリーンズもメディアパートナー、実行委員会メンバーとして参加します。この機会に改めて、辻さんがどのようにして現在のような問題意識を持つに至ったのか、そして私たちになにができるのかをお聞きしています。
前編では、辻さんがどのようにスローライフという考え方にたどり着いたかについて話していただきました。後編では、現在とこれからについてお話をうかがっていきます。
”離床”したグローバル経済が世界を支配する
前編でナマケモノについて話していた時、辻さんは自分に問いかけるようにこんな問いを発しました。
自分が死ぬ時に、本当に自分のものと言えるものは何だろう?
それは、車でも家でももちろんないし、家族だって自分の持ち物ではない。唯一自分のものだって言えるのは時間なんですよ、自分が生きた時間。今僕が持っているのはこの時間、何のご縁か、みなさんとこうしているこの時間、これが僕なんですよ。ある意味ではそれ以外には何もない。あとは何か持っているような幻想を持っているだけなんです。
時間。日常生活の中で時間についてじっくり考えることはあまりないと思いますが、もしかしたらそのことこそが、私たちがとらわれているものの正体なのかもしれません。
辻さんは、スローであろうとすることは「グダグダ生きることではなく、人間らしいペースで生きること」とも言います。ペースとはつまり時間の使い方、自分の時間を何に使うかということです。しかし、今の人々は、自分の唯一の持ち物であるはずの時間を大切にできていない、そう言うのです。
人間は大昔から自分が生きるために必要なことに時間を使ってきたのに、いつの間にか時間を売らなければいけなくなってしまったんです。
イギリスで資本主義が始まった時点では、みんなそれぞれの田舎で自給的に暮らしていた。でもそれでは儲からないので、資本家は共有地をやめて私有地にすると言って「囲い込み」を行いました。そうすると土地を失った人たちは生きることができなくなるので、都会に行って雇用を求めるしかなくなってしまうのです。
みんなそのことに最初は疑問を持っていたはずなんです。先住民がなぜ開発に抵抗したのかというと、自分たちの生き方を続けたかったからで「われわれはこうやって生きてきたんだから放おっておいてほしい」ということです。
世界中で多くの人がかつてはそう思っていたはずなのに、資本家がそれを力で奪っていった。そしていつの間にかシステムができ上がってしまい、他に選択肢がないから従うしかなくなってしまったんです。
そうはいっても、資本主義は別に私たちを最初から不幸にしようとしていたわけではありません。経済とはそもそも、私たちが幸せに暮らすための方法を教えてくれるものだったはずなのです。では、なぜそれが私たちをがんじがらめに縛るものになってしまったのでしょうか。
近代になって、経済学者がいうところの”離床”が起きました。離床というのは、経済が社会から浮き上がった抽象的なものになることで、つまり経済というものが地域性だとか生態系だとかとは無関係に計算できるものになるということです。
この離床が最初は地方レベルで起き、それが国レベルになり、ついには全世界を一つの市場とするに至った。その結果、経済は独自の王国を築いて、環境問題などの不都合なことは何でも、”外部性”だと言うようになったのです。
人々の生活から生まれたはずの経済が、独自のシステムを構築し、肥大化し、最終的には私たちを支配するようになる、それも世界全体を覆う形で。つまりこれが今のグローバリゼーションで、世界経済が世界中の人々の生活をコントロールするようになった社会だということなのです。
ここは少し難しい話になってしまいましたが、辻さんがスローライフやローカリゼーションで取り戻そうとしている私たちの生活を奪った”敵”は一体何者なのか、それををきっちりと捉えなければ、これからどうするべきかを考えることはできません。その意味でも、今の行き過ぎたグローバリゼーションがどのようなものかを私たちは知らなければならないと思うのです。
さらに今の仕組みを知りたいという方には、辻さんも「世界の仕組みを知ろうと思ったら一番わかりやすい教科書」という ヘレナ・ノーバーグ・ホッジさんの新著『ローカル・フューチャー ”しあわせの経済”の時代が来た』を読んでみることをおすすめします。
さて、グローバリゼーションの正体が多少なりともわかったところで、いよいよ私たちの生活を取り戻すか、その方法について聞いていきましょう。
「いただきます」と手を合わせることから始まる変化の波
グローバリゼーションがどうこうという理屈はよくわからなくても、今の世界に息苦しさを感じ、スローな生き方、地域に根ざした暮らしを目指して動き出す人たちが増えている印象はあると思います。
辻さんも「自分の時間を切り売りすることに対する問いが、世界中の特に若い人たちの中に芽生えつつある」というように、特に若い人たちのありようは変わりつつあるのではないでしょうか。
ただ、私たちの多く、特に都市で長く生活している人たちの多くは、地域に根ざすための根っこをグローバリゼーションに切られてしまい、どこに根っこを張ればいいのかわからなくなってしまっています。そういう感覚を持つ人たちは、いったい何を始めたらいいのでしょうか。
先進国と言われる国々の人たちの多くが、何を始めたらいいかわからないという感覚を持っていると思います。でも、僕はどんなに小さなことでも大きな価値を持っていると信じてるんです。
ハチドリの話の他の動物のように、問題が大きいと解決法も大きくなければいけないと感じてしまい、小さいことをやる人を笑う。でもこれはじつは相手の論理に飲まれているんです。
デカルト以来の合理主義的な、世界が計測可能なものでできているという思想、世界は均質な計測可能なものの集合でできているから、小さな私たちが何かをしても世界には大した影響を与えることができないと思い込まされてしまっているんです。
でも僕は、これは信じる必要はないと思う。
よく考えてみてください。
世界というのは結局、一人一人の小さな行為によって成り立っています。一人ひとりの人が暮らしの中で何をするかしないかを選ぶ、これがじつはこの社会を成り立たせている基本的なものです。そのどれが社会により大きなインパクトを与えるかなんて誰にもわからない。ハチドリのように、ほんの少しずつ水を運ぶだけのことが社会を変えることにつながるかもしれないんです。
たしかに、実際に何かを始めている人に話を聞くと、小さなこと、自分にできることをやっているだけだと言う話はよく聞きますし、実際それが積み重なることで大きな力を生み出すのだろうということはわかります。
でも、それでもやはり具体的に何から始めればいいのかわからないという人は多いだろうと思います。それだけグローバリゼーションの論理は、深く私たちに染み込んでいるのです。本当に何をすれば世界を変えられるのでしょうか?
たとえば、一人暮らしで「いただきます」を言わないでご飯を食べていた人が、誰もいなくても手を合わせて「いただきます」って言おうと決めたとします。これは本人にとってはひとつの変化です。
同時に、世界にとって大きな変化かもしれないんです。これは信仰の話ではありません。物理学の世界でも、世界はニュートン的な因果論で計測可能なものではないということが最近言われています。世界の片隅で起こった小さなことが、何にどんな影響を与えるか計測することはできないんです。
だから、これまでマイナーだとされていたこと、ときにはバカにされてきたようなものにも、じつは価値があるかもしれない。そのことに、みんな気づきつつあるんだと思います。
そういう小さな変化から始めて、人の目から見ても大きなステップを踏み出すことができたとき、別のところでも新しい生き方を求める人が現れるかもしれない。都会に住みながら新しい生き方を始めるのでもいいし、新しいビジネスを始めるのでもいい、そういう変化の流れが、手を合わせて「いただきます」っていう小さいところから始まるんじゃないでしょうか。
漠然としていて、どこか宗教がかった話のように聞こえるかもしれませんが、物理学の世界では実際、古典と言われるニュートン力学の「予測可能」なパラダイムから、量子力学の「確率」のパラダイムへとシフトしていて、「何が起きるかを正確に予測することは不可能」だと言われるようになっています。
かなり乱暴な理解なので物理学の話はさておくとしても、私たちが世の中の仕組みだと信じさせられているものが、それほど確実なものではないということには気づいている人は意外と多いのではないでしょうか。ただ、そうだとしたらいったい私たちは何を信じればいいのか、別の嘘を信じさせられてしまうだけじゃないのか、そのような恐れはつきまとうだろうと思います。いったい私たちはどの情報を信じればいいのでしょうか。
タパスを楽しくやれば変化に必要な気づきが訪れる
次の道を探すために必要な情報とはどのようなものなのか、そんな疑問に対して辻さんは、「必要なのは情報ではない」といいます。
情報と呼ばれるものの外側で、本当に自分に必要な思想や直観というものは必ず生まれます。世界は気づきに満ちています。僕はよく縁という言葉を使いますが、気づきはチャンスで、気づきは縁、世界は縁に満ち満ちてるんです。
僕が皆さんに勧めたいのは、瞑想とか、ヨガとか、散歩でもいいし、ご飯の前に5秒だけ沈黙するとかでもいいから、自分の流れを切る時間をつくることです。そういう小さな時間さえつくれれば、そういう窓さえつくれれば、その窓から何か見えてくるんです。
それをバガヴァッド・ギーターでは「タパス」といいます。サティシュ・クマールはいつも「タパスを楽しくやろうよ」といいます。タパスは禁欲とも訳されるんですが、ちょっとした我慢なんですよね。”行”ともいうんですが、ちょっと努力しなきゃできないことをやる。5秒沈黙するのだって努力しなきゃできないじゃないですか。それをやると気づきがあるんですよ。
エクアドルで、自分たちのことがバカバカしくて腹抱えて笑ったのだって気づきですよ。(このエピソードについて詳しくは前半の記事にて。)
何かの窓から、自分たちのバカバカしさに気づいた。なんでこんなこと毎日やってるんだって。こうしかないっていう自分の思い込みがバカバカしい、そうじゃないいろんな生き方があるし、あり得るし、それをしてもいいんだって気づければ笑えてくるじゃないですか。
一日の中でほんの数秒でも空を見ることができるか、タパスってそういうことなんですよ。まずはそういう自分のできる小さなことをやるといいと思います。
たしかに、日常の流れ、言い換えるならルーティンを断ち切ってみると、何かに気づくというのはあるかもしれません。
たとえば、携帯の電波が通じないところに行ったりすると、普段気づかない自然の美しさに気づいたり、スマホに支配されてムダに忙しく仕事をしていた自分がバカバカしくなったり、そんなことに気付かされることがあります。これも一つのタパスであり、タパスによって視点が変わったことで今まで見えていなかったことが見えてくるのです。
たとえば満員電車で、別の視点から自分のことを見てみます。そうすると、みんな大変だなー、よく暴動も起こさずにやってるよなー、というように別の視点から自分の生きている現実を見ることができます。
これを相対化というんですが、現実というのは相対化できるものなんです。みんなどこかでこの現実が絶対的なものだと思っていますが、相対化してみれば、ただの物語にすぎないんです。先住民の目から、100年前の人の目から見たら、どんなにおかしいか。
みんなこの現実に捉えられて、経済だ経済だって自分たちの金儲けのために未来を売ろうとする、そんなの狂気ですよ、どう考えたって。それを批判すると、でも現実がって。その現実って、何のことなんでしょうね。
だから今必要なのは、コメディだと思うんですよね。現実を相対化してコメディにすることで見えてくることがある、そう思いますよ。松元ヒロさんとか尊敬しますよ。僕も落語をやっているんですよ。落語はタパスです。つらいですよ、修行なので(笑)
「現実を相対化してコメディにする」というと社会を風刺する笑いのように聞こえますが、別に風刺していなくても、笑いはタパスになると思いました。
私も落語が好きでたまに見に行きますが、たとえば古典落語は、江戸時代などの人々の生活を話しているだけでそこに笑いが生まれます。偉そうにしている人が失敗するのを笑ったり、逆に何もできないと思っていた人が成功してそれを悔しがる人たちを見て笑ったり、中には世の中の仕組みや常識の不条理さを笑ったり、様々な笑いがあります。
そうやって笑っている時に、ふと、これって今の自分たちにも当てはまるなと思う瞬間があります。それがまさに”窓”だったんだと話を聞きながら思いました。意識しさえすれば本当に身近に窓があり、そこから何らかの気づきが訪れる、その可能性があるのです。
一人一人の小さな気づきが縁によって円になるために
そのように、何をしたらいいかわからないという人が多い一方で、特に若い人の中にはすでに新しい生き方を探し始めている人が増えているということは先程も書きましたが、辻さんも実際にそのような動きを感じ、そこに希望を見出しているそうです。
子どもの頃から「いい学校に行きなさい」「いい会社に入りなさい」と言われて、それが何のためかといったらお金を稼ぐためですよね。
最近のトランプ現象やカタルーニャの独立を見るまでもなく、グローバリゼーションが終焉する兆しが、今あちこちに見え始めています。そんな中なので、「せっかくこの世に生まれてきたのに、この生き方しかないのか」と思う人は当然増えると思うんです。
そうして、自分の一生をどう生きようかと考えた時に、農的な暮らしに向かう人が増えている。それは、自分の時間を売るのとは違う生き方が、農林水産にはまだ息づいているからです。
先進国、特に欧米の人たちはそのような生き方のことをすでに忘れてしまっていて、だからヒッピーの運動などによって意識の中に取り戻していくっていう葛藤を何十年かけてやってきた。それが、今ようやく違う次元に飛び立とうとしてる、僕はそう感じてるんです。
日本でも、若者が山村に出かけていったり、子どもが生まれたら森のようちえんに入園させたいっていう若い人が増えたりしてますよね。これはすごいラジカルな動きですよ。
たしかに、若者の農山村や地域コミュニティへの回帰は根本的な変化で、意識的でないとしても、グローバリゼーションへと対抗する動きにつながっていくものだと思います。ただ、そのような可能性を感じる一方で、グローバリゼーションもしぶといと辻さんは言います。
グローバリゼーションというのは本当にしたたかで、次から次に手を変え品を変え、われわれに取り入ってきます。
今、グローバル派がローカルということを言い出していて、ここは面白いぞというところにはちゃんと手を打ってくるんです。グローバリゼーションにとってローカルは市場なので、そこをどういうふうに取っていくのかを考えた時に、一律であることをやめてローカルの価値を主張して取り入ろうとしているんです。
せっかく見つけたローカルにもグローバリゼーションが入ってくる。絶望してしまいそうですが、グローバリゼーションも凋落の傾向が見えている今、対抗する手段もあるといいます。それは、ローカル同士がつながること。
ローカルにいると、どうしても孤独感を味わされるんですよ。田舎でも都会の片隅でも、誰も注目してくれないからやってもしょうがないと思ってしまう。
でも、その人たちがつながることがじつは世界史的にとても重要なことで、それでいいんだっていう意識を持ってもらえる。今回の「しあわせの経済 世界フォーラム 2017」でやりたいのもそういうことなんです。
全世界を見たらすごい勢いでローカリゼーションが進んでいることに気づいてもらいたい。ありとあらゆる場所の小さなローカルが世界中で意識としてつながる、兄弟の意識、連帯の意識を持ってつながる。僕はこれが本当のグローバリゼーションだと思っているんです。
今までのグローバリゼーションは嘘ですよ。一部の人たちだけ儲けさせるようなね、そんなのグローバリゼーションであるわけないんです。
世界中のローカルがつながることで本当にグローバリゼーションに対抗できるのか、そこまで大きな波をつくることができるのか、その部分には疑問が残ってしまうというのが正直なところではありますが、それを信じられようと信じられまいと目の前の小さなことを一つ一つやっていくことが大事なことには変わりないのだと、今回、辻さんのお話を聞いて強く思いました。辻さんはそうやって何十年も積み上げてきたのです。
25年前に「コロンブス500年のフォーラム」で先住民たちを呼んで、それから今回の会議でしょ、僕自身にとっても螺旋を描いて原点に戻ってきてる感じがしています。レイジーマンとの出会いもそうだし。引退ってわけじゃないけどドカーンとやって、ナマケモノの思想をもう一度打ち出したいですね。
今回のフォーラムは、何をやればいいのかわからない人も、自分がやっていることに自信が持てない人も、そもそも疑問をいだいていない人も、きっと今とこれからの世界について気づきがもたらされる機会になるだろうと思います。
世界でローカルな活動をしている人たちとつながるのも楽しみに、ぜひ参加してください!
(撮影: 廣川慶明)