都市でバリバリ仕事をこなしている人にとって、離島で働くことは想像しにくいものです。離島に限らず就職先が少ない地方では、自分で起業しないと望む仕事に就けないイメージもあるかもしれません。でも、本当にそうなのでしょうか。
最近は地方にサテライトオフィスを持つIT企業に就職して大自然の中で仕事をこなすビジネスマンもいますし、編集者として離島の企業に中途採用され、その子会社の出版社で社長になった人もいます。この後者が、今回ご紹介する須鼻美緒(すばな・みお)さんです。
都市から離れて働こうと思ったらお店を開くとか農業を始めると思われがちだけど、意外と一般企業の働き口もあるんですよね。それほどガラリと生き方や働き方を変えなくても、地方移住って可能なんです。
と笑顔で語る須鼻さんは、現在、小豆島(しょうどしま)在住。香川県に移住して2年で、雑誌『せとうち暮らし(現・せとうちスタイル)』を発行する出版社、株式会社瀬戸内人(せとうちびと)の代表取締役に就任しました。
『せとうち暮らし(現・せとうちスタイル)』は一般書店で販売している雑誌で、季節ごとに島々の情報を中心に瀬戸内海地方の魅力を発信しています。私が、この雑誌の仕事で須鼻さんと出会った2016年の春、彼女は就任したての編集長でした。
聞けば、前職では東京・恵比寿のフラワーショップをプロデュースしていたとのこと。しかし、キャリアの根っこは編集者で、私が何度も読んで笑った『ピクトさんの本』(詳しくは後ほど)の仕掛け人でもあったと判明。その人生に興味がわき、インタビューを申し込みました。
お話の中から浮かび上がってきたのは、地方にこそ求められている“編集力”、そして、“多様性”を受け入れることの大切さ。そのストーリーは、須鼻さんのメンタルの土台を育んだ高校時代にさかのぼります。
1979年、兵庫県生まれ。株式会社瀬戸内人(せとうちびと)代表取締役。親会社の小豆島ヘルシーランド株式会社の商品企画部兼任。高校時代をオランダで過ごす。上智大学文学部新聞学科を卒業後、出版社でデザインやカルチャー分野の書籍を編集。2009年、東京・恵比寿のフラワーショップ「kusakanmuri(くさかんむり)」立ち上げに参加し、ブランディングや商品企画、広報などを担当。2015年春、香川県に移住。株式会社瀬戸内人が発行する雑誌『せとうち暮らし』の編集長を経て、2017年より現職。編集者としての主な仕事に『ピクトさんの本』(ビー・エヌ・エヌ新社)、『SHOKOのロンドンスタイル・ファッションブック』(DU BOOKS)がある。
泣いて拒んだ海外移住。多様な社会でもまれて
兵庫県で生まれ小中学校を神奈川県川崎市で過ごした須鼻さんは、高校1年生の夏、父親に突然、「オランダに転勤になったから、みんなで行くぞ」と宣言されます。
受験で第1志望の高校に入り、友だちもできて、吹奏楽部で中学時代から続けていたトロンボーンの練習に打ち込んでいたのに。英語も得意じゃないのに……。必死の抵抗のかいもなく父の決意は固く、「家族はみんなでいるもんだ」と、家族総移住が決定。泣きながら11時間半のフライトでオランダへ。これが、須鼻さんの初海外でした。
住まいは、オランダ最大の都市アムステルダムに隣接した「アムステルフェーン(Amstelveen)」という、田園風景が広がる住宅エリア。通うことになったインターナショナルスクールは日本企業に近く、同学年の約3分の1は日本人でしたが、授業はほぼすべて英語でした。須鼻さんは3カ月ぐらい、じっと貝のように黙ってやり過ごしたそうです。
辛い思い出のようですが、「お父様に今でも、抗議したい気分ですか?」と問うと、「いえ」とキッパリ。
今では、オランダに連れて行ってくれたことに感謝しています。校則通りのスカート丈で部活動に打ち込んでいた、あの生真面目な高校生の私のまま凝り固まっていたら、その後のいろいろなことは起き得ないですから。
確かに。その後の人生談を聞くと、海外暮らしで身につけた英語力と多様性を受け入れるメンタルのベースは、須鼻さんのキャリア形成に欠かせない要素です。
須鼻さんが多感な思春期を過ごしたのは、公用語はオランダ語ながら、お年寄りからお店の人まで流暢な英語を話す町。インターナショナルスクールは人種も考え方も多様で、英国、米国、中国、台湾、韓国、スウェーデン、ネパールなど、いろいろな国籍のクラスメイトと共に学びました。
学校のカリキュラムは国際バカロレアをベースにしたもので、分野横断的でハード。勉強に加えて、文化の違いも強烈でした。
クラスメイトはばっちりメイクで登校し、先生は飼っている大型犬を授業につれてくる。同性婚が認められているオランダなので、堂々とゲイであることをオープンにしている人も。そして、16歳からビールが飲めるので、金曜日の放課後はバーへ行くのがお決まりだったのだとか。16歳の女子高生には「もう衝撃しかない」環境の激変でした。
吹奏楽部はなかったので、ビッグバンド部に入りました。学年は小学生から高校生の混合で、楽器もばらばら。しかもジャズです。でも私は即興演奏が全然できなくて。
アドリブが抜群にうまいサックス担当の小学生は、理論とかじゃなく感覚で吹く。メンバーの中では私が一番譜面を読めたけど、音楽って、そういうことじゃないのかもって思いました。
インターナショナルスクールは、幼稚園から12年生まで。高校に該当する10~12年生をオランダで過ごす中で、それまでの価値観が、ガラガラと音を立てて崩れていったそうです。
雑誌のチカラに惚れて出版界へ
この3年間で須鼻さんは、その後の人生に大きな影響を与えた趣味に出合います。
慣れない生活へのイライラもあって、映画にハマったんです。最初は日本語のレンタルビデオで、そのうち英語のみのシアターで、週に1〜2本。星数で評価して感想を記した「映画ノート」は、そのうち8冊にもなりました。
さらに、日本からの輸入品で割高だった『スクリーン』や『ロードショー』といった映画雑誌を、少ないお小遣いをはたいて毎月のように買って読みました。苦しい生活を救ってくれる雑誌は、なんて素晴らしいんだろうって思って。
当時の須鼻さんにとって、雑誌は「苦しい人を助けてくれるツール」。そして、「こういうモノをつくれる人になりたい」という思いでマスコミ就職を志します。帰国後は出版論が専攻できる大学に進学。出版社への就職は狭き門でしたが、バイトしていた社員10名ほどの出版社「ビー・エヌ・エヌ新社」の社長に誘われ、入社を決意しました。
主な発行物はコンピュータ書。編集者としてマニュアル本などを手がけ、やがて版権を扱えるようになり、海外のブックフェアへの出張で買い付けてきたデザイン書をメインで担当するようになります。書籍編集者として奮闘した約5年の間には、あの『ピクトさんの本』を世に送り出しました。
海外のピクトグラムの翻訳本を編集中に、偶然、内海慶一(うつみ・けいいち)さんの「日本ピクトさん学会」のブログを見つけたんです。視点が面白くて、思わず夢中で読み込んでしまって。
当時はデザインとコンピュータの専門出版社だったので、それ以外のジャンルの企画はまず無理でしたが、当時の社長の「やってみよう!」という鶴の一声で、『ピクトさんの本』の出版が実現しました。
初版は4000部でしたが、出版された年には紀伊國屋書店のランキング「キノベス2007」で10位に輝き、約10年経った今、14刷、8万部に達しています(2017年2月1日現在)。当時28歳の須鼻さんが放ったヒット作でした。
何よりも、著者がテレビに出たり、多くの人に「いいね!」と共感してもらえたりしたことが嬉しかったです。でも同時に、二度とこんな本はつくれないという恐怖に襲われて。
当時の社内面談で、「なりたいのはスペシャリストかゼネラリスか」と問われて、「マネジメントもできるゼネラリストを目指す」と答えたのも、職人的な編集者として突き進むことに少し怖さがあったからかもしれません。
「ゼネラリスト路線」と答えた須鼻さんを、会社は新設の「国際事業部」に配置。その後、社長直下の「新規事業部」に異動となり、そこでフラワーショップを立ち上げることになります。
ある日、当時の社長に「花屋の“編集長”になって」と言われて(笑) 白と緑の草花のみを扱うフラワーショップ「kusakanmuri(くさかんむり)」を上司たちと立ち上げ、商品企画からブランディングまで、プロデュースを担当しました。
実は私、花より団子派で、花にはそれほど興味はなかったんですけど、いままで本の編集でやってきたことが、ほかのことにも応用できるのかなと思って。
出版社に就職しながら、部署転換や新会社設立に伴い、いろいろな経験を積んでいく須鼻さん。このフラワーショップの世界観に共感してくれる講師を外部から招いたり、毎月のテーマを設定して、ストーリーのある商品を企画したり、『草冠通信』という会報誌をたちあげたり。編集者としての技術をいかして、約3年でなんとか軌道にのせることができました。すると再び、書籍編集への愛着がよみがえり……。
自分の住むところは自分で決める
やっぱり私は本をつくるのが好きだなと思って、本の編集者に戻ろうと決意しました。
親の転勤が多かったので、もともと地元はありません。だったら、「これからの人生は、自分で住む場所を決めよう」と思ったんです。
数年前にUターンで父が実家のある香川県に戻っていたので、香川を移住先の第一候補にすることにしました。
試しに「香川 編集」で検索して、「小豆島ヘルシーランド」を発見。小豆島ヘルシーランド株式会社は、出版部門を持つオリーブオイルの会社で、現在須鼻さんが社長を務める出版社「株式会社瀬戸内人(せとうちびと)」の親会社です。さぁ、いよいよ須鼻さんの人生は香川へ。
転職の決め手は、やっぱり瀬戸内海。毎日こんな景色が見れるなら、ちょっとくらい嫌なことがあっても頑張れそう、と思ったんです。
出向先の出版社は小豆島ではなく高松にあったので、会社から自転車で15分の高松市内に住むことに。会社のそばで暮らし始めた須鼻さんを待っていたのが、「都会にいたころの1.5倍ぐらいの忙しさ」でした。その理由について、須鼻さんは地方ならではの事情を指摘します。
素晴らしいプロフェッショナルはたくさんいるのですが、つないだり、まとめたりして新しい価値を創造する人が、まだまだ足りない印象です。
編集の能力がある人がもっといたら、それぞれの原石が、もっと輝くはず。編集者やディレクター、マネジメントの経験のある人には、ぜひ瀬戸内に来てほしいですね。活躍の場がたくさんあると思います。
出向社員として『せとうち暮らし』の編集長を経験後、親会社に戻ってくるよう命じられて、2016年夏に小豆島に移住。化粧品や食品の新商品を企画する部署を立ち上げることになり、数カ月後には、子会社の出版社社長も兼任する立場に。ここまですべて、香川県移住後、わずか2年のできごとです。
まだ本社に戻って何も成果を出していないのに、子会社の社長なんてやれないと思いました。でも任命した上司は、「きっと両方やることで、見えてくるものがある」と。実際にやってみると想像以上に大変でした。うまくいかなくて落ち込む日もあります。
でも、鳥のさえずりで目覚め、朝日に輝く海や、神社に咲く満開の桜を眺めながら通勤して、帰宅時には満天の星に包まれて。そういう自然を感じられるだけで、悩みがどうでもよくなるというか。一度、残業を終えて会社を出たら、向かいの茂みからイノシシが唸り声をあげていて、駐車場まで猛ダッシュしたこともありました(笑)
これまでの人生と同様、まったく経験のない分野で新たなキャリアに踏み込んで奮闘中の須鼻さん。現在は親会社がある小豆島と子会社がある高松を週に何度も往復する多忙な日々を送っていて、恐ろしいイノシシの一件も、「都会では味わえない頭の切り替えスイッチ」と表現します。
フェリーや高速艇の窓を、島々や海や夕日の美しい風景がよいペースで流れていくんです。それを見ていると、火を噴きそうになっていた頭がすーっと落ち着いていきます。
島で暮らしていると、切り替え方法がいくつもみつかるので、これからもこの環境を楽しみながら、頑張ってみようと思います。
受け入れてこそ前に進める
ボスの采配下、与えられたポジションにチャレンジし、新たな使命を帯びて次の課題に挑む。そうやって宿命を受け入れてキャリアを築いてきた須鼻さんが、インタビューの最後に語った「覚悟」とは。
あれが嫌だ、これが嫌だ、と言わず、何でも、いったんは受け止めるということですね。
やはりオランダで多様性というか、いろいろな人種や考え方にさらされた影響が大きいと思います。目の前の現実を拒んだら生きていけないというか。「まずは多様性を受け入れてからじゃないと前に進めない」というのが、16歳の時にショックを受けながら気づいたことです。
海外で暮らして一番良かったのは、「多様な価値観を受け入れる体質ができた」ということでしょうね。
若いうちに異文化に放り込まれた経験から多くを得た須鼻さん。「これまで出会った上司たちとは、たいてい喧嘩するほど何でも言い合える関係だった」というエピソードひとつをとっても、言葉にしないと始まらない海外での経験が生きている印象です。
似た者同士で集まるのは楽だけれど、不寛容さがまん延した世の中は、結局のところ、誰にとっても居心地が悪いはず。これからの社会、やっぱり多様性を許容する人ほど、面白く充実した人生を送れると感じた、そんなインタビューでした。
みなさんは須鼻さんの人生に、何を感じましたか?
変化の春、このインタビューが、これからの人生の小さなヒントになりますように。