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歴史的建物でも文化財でもない、ただの古い空き家が「みんなの家」になる。「尾道空き家再生プロジェクト」

広島県尾道市の市街地は、三方を緑豊かな山と穏やかな海が織り成す自然の豊かなまちです。そして、山の裾野からひろがる坂の町並みは、数々の戦禍をくぐり抜け、古くからの建造物がまちのあちこちに残ります。その美しさは昭和の名作映画『転校生』(1982年 松竹)や『時をかける少女』(1983年 東映)の舞台になったほど。

しかし、車が一般的でなかった時代から続くまちには、ひとひとりがやっと通れる細い路地が張り巡らされ、山側は斜面地に建つ家も多く、建て替えが難しいことからバブル期以降次々と空き家に。多いときで尾道駅から半径2キロ以内に空き家が500軒以上あり、市街地の空洞化が社会問題になりつつありました。

そんな尾道で空き家再生に取り組んでいるのが「尾道空き家再生プロジェクト」です。2007年発足以来、「尾道空き家再生プロジェクト」の活動は広がり続け、今では月に10〜20人は移住希望者がいるとのこと。地方の地域でこの数は驚異的です。

「空き家再生」を契機に、移住定住、サイクリング拠点、まちづくり、ゲストハウス、オルタナティブな小商い、アート、観光拠点など、ソーシャルカルチャーの坩堝(るつぼ)として注目を集める尾道。尾道カルチャー新時代の口火を切った「尾道空き家再生プロジェクト」の代表、豊田雅子さんに空き家とどう向き合ってきたのかを伺います。

そして、尾道というまちで暮らす作法から透けて見える、まちと家と暮らしの関係性を探っていきたいと思います。

豊田雅子(とよた・まさこ)
NPO法人尾道空き家再生プロジェクト代表理事。1974年広島県尾道市生まれ。関西外語大学卒業後、大阪府内の旅行代理店で海外添乗員として8年勤務。その後、故郷の尾道市に戻り、2007年7月任意団体「尾道空き家再生プロジェクト」を立ち上げる。1年後NPOとして法人化を果たす。プライベートでは双子男子の母。

古いものの中で知恵を絞って生きていく。それが尾道スタイル。

尾道で生まれ育った豊田さんは、大学進学を機に大阪へ移り住みます。暮らしているときはなんとも思っていなかったけれど、都会にひとりで暮らし、はじめて尾道の良さを実感します。

尾道は、平地はおろか傾斜面にまで家が密集するまちです。常にひとの気配を感じながら生活してきました。尾道は、ひととひとの距離が密接でした。そんなコミュニティのなかで育ってきたことから、コミュニケーションが分断されている都会暮らしは寂しく感じていました。

まちを一度出て、俯瞰して見たからこそわかるまちの良さ。尾道は車がない時代に築かれ、戦禍を生き延び、未だに江戸時代の建造物も残るまちです。急な坂や階段が張り巡らされた市街地は歩いて暮らすヒューマンスケールに最適なまちの大きさでした。

大学卒業後、旅好きが高じて、海外旅行の添乗員を志した豊田さん。大阪で8年ほど旅行代理店の専属添乗員として働きます。1年の半分以上は海外にいる生活でした。

20代はずっと旅のような暮らしをしていて、ヨーロッパなどで見てきたまちのことや、世界観は今の活動に影響しています。

ヨーロッパのまちは、どこも歴史が積み重なって「まち」を形成しているので、古い町並みをそのまま生かしながら、現代社会の営みを送っています。地域の人も自分の町に誇りを持っています。特別な観光地や世界遺産などがあるわけではないけれど、そのまちが好きで世界中から旅行者が来る様子を見て、まち自体が観光資源になっているまちがたくさんありました。

人がまちにリスペクトしているように感じたという豊田さん。反面、日本を省みると、まちは時代によってスクラップ&ビルドで壊しては建てを繰り返し、地域の街道沿いには同じようなチェーン店が立ち並びます。

日本にも、気候に合った建物や町並みが昔はもっとあったはず。少し前まで、それぞれの地域に個性がありました。今、その個性が時代の利便性に流されて消えつつあるのです。

豊田さんは故郷へ思いを馳せます。

尾道は、未だに中心市街地は戦前の町並みを残しています。
車が入れる沿岸部や駅前はどんどん変化していきますが、車の入れない細い道で形成された、斜面地や路地裏には昔のままの町並みと暮らしの営みが残っていました。

わたしはそれがとても尾道らしくて、尾道の魅力だなぁと思っています。暮らしていくには少ししんどい坂道や細い路地も、なかったら面白くないです。

猫の細道

一般的には不便だと言われるところも愛おしい故郷。そんな風に豊田さんが想い、故郷を見渡すと、時代に取り残された空き家が駅から徒歩2km圏内に500件以上あり、まちが空洞化していたのです。

その事実を知って、空き家探しをはじめた豊田さん。数年、大阪と尾道を行き来しながら空き家を探して歩き、2002年に正式にUターンします。そこで出会ったのが2007年購入した空き家「尾道ガウディハウス(旧和泉家別邸)」です。

未だ修復中の「尾道ガウディハウス(旧和泉家別邸)」(写真中央)

空き家物件を探している数年間に尾道でのネットワークが生まれて、移住希望者さんや空き家を探しているひとが、わたしのところに1年に100人くらい来たんです。まだわたし、物件紹介するとか言ってないんですけどね(笑)。
そこで、尾道で空き家を探しているひとがこんなにいるんだって知りました。

空き家は不動産屋での扱いはほとんどなく、当時「空き家バンク」は行政の手で運営されていましたが、開店休業状態。空き家はたくさんあるのに、どこを検索しても物件情報が掲載されず、不動産屋さんにも情報がまったくない状態でした。

需要はあるけれど、供給が極端に少ない。空き家は行き場を失っていました。そして、豊田さんのところへ行き着く……2007年当時はそんな状況でした。そういう地域社会の状況があり、「尾道ガウディハウス(旧和泉家別邸)」を個人的に購入して、修繕し始めたことを契機に、豊田さんは「NPO法人尾道空き家再生プロジェクト」を発足しました。

今まで残ってきたものを大事にしながらリノベーションして、古いものの中で知恵を絞って生きていくこと。それが、尾道スタイル。その価値観を団体にして、形にしていくことで、そういう暮らしを確立していきたいと思いました。

2007年の7月に市民団体として発足して、1年後に法人に。そしてさらに1年後、尾道市の空き家バンクの委託を受けるようになります。行政からの委託を受けて、「尾道空き家再生プロジェクト」の価値観は、個人の思いから、まちの意思へつながっていきます。

再生するプロセスを大事にする

今でこそ「空き家再生」は地域の命題と言われていますが、豊田さんが「尾道空き家再生プロジェクト」をはじめた当時、空き家再生はおろかリノベーションという概念も黎明期でした。

社会問題の解決というよりは、尾道を見渡して、このまちには、空き家を活用するほうが合っていたから、尾道という町のスタイルとして、空き家を活用していこうという舵をきります。そして『尾道空き家再生プロジェクト』では空き家をうめるだけではなく、活用までが「空き家再生」と考えました。ここで再生事例をご紹介します。

「尾道ガウディハウス(旧和泉家別邸)」
昭和8年築。わずか10坪の狭い建物の中に当時流行った技法がところ狭しとちりばめられた洋館付き住宅。「はじまり」の物件であり、尾道空き家再生のシンボリックな建物。スペインのザグラダファミリア教会のように「いつ完成するか分からない」という意味合いも含めての愛称となっています。

豊田さんがこの物件と出会って今年で10周年になります。いま、そこを目指して、動き出す予定とのこと。どんな活用方法になるかは検討中です。

「子連れママの井戸端サロン・北村洋品店」
昭和30年代に建てられた今の建物は木造モルタル2階建てで、とんがり屋根が目印。
その名の通り、子連れのお母さんが集うスペースを目指し、まちに開いている。2Fは『尾道空き家再生プロジェクト』の事務所です。

わたしたちが見つけるまで20年以上空き家になっていた物件です。ここもわたしが買い取りました。ガウディ同様、ここもいつか壊されちゃうなと思ったので。
物件自体はすごく痛んでいましたが、奥のタイルのキッチンや古い建具や尖った屋根、洋品店時代のショーウィンドウがそのまま残っていて、それがとても魅力的でした。

普通だったら、壊して駐車場になるようなものでしたが、そうなるくらいなら、わたしが買い取って、魅力を生かして活用しようと思いました。

この物件は、空き家の再利用以外にもうひとつ大きな意味がありました。内装を「ワークショップ」にして、参加者みんなでつくりあげました。豊田さん曰く、「”みんなで家をつくる”という活動の実験的な建物」とのこと。

楽しみながらつくりあげていく家、というコンセプトで1年くらいかけてボランティアさんとゴミ出しからリノベーションまで行います。さらに仕上げは尾道のアーティストさんに、作品として手を入れてもらう試みも。壁に絵画が描かれているなど、家の中にはアート作品がちりばめられていて、家自体が作品のような趣になりました。

この家の再生に関わったひとたちはざっと100人以上、再生するプロセスを大事にすることを体現する家になりました。歴史的建物でも文化財でもない、ただの古い空き家が「みんなの家」になりました。

なぜみんなで家づくりをしたかというと、まずは先立つお金がなかった(笑)
そして、みんなで手を動かして、家をつくってみたかったんです。家づくりって、プロの仕事で、素人じゃ手も足も出ない気がするんですけど、実際は自分たちでできる部分がたくさんあるから、家って自分でなおせると思えるようになるのが大切というか。

自分が過ごす場を自分で好きな様に手を加えていくことって実は普通なのではないかとも考えていて、「普通」だと思えたら、空き家に手を加えて住むことの敷居が低くなると考えました。

それは暮らしの自由を広げていく作業でした。

そして、尾道は狭い路地の多いまちなので、もともと、大きな機材やトラックが入りづらいつくりをしています。人の手がふつうのまちより要る町なのでDIYの精神は不可欠です。家財道具も、ありもの、譲られたもの、拾ったもの。空き家再利用の合言葉は「捨てるはゴミ、拾えば宝」です。

こうして、「尾道空き家再生プロジェクト」だけでも20軒以上の空き家活用に携わっています。

20軒以上の空き家活用に直接携わり、空き家バンクを通じて約80軒の空き家と利用希望者のマッチングやリノベーション、引っ越しのお手伝いもしています。現在、「尾道空き家再生プロジェクト」が尾道市から受託で運営している空き家バンクは登録者800人以上。地域の空き家活用としては日本でも有数の規模になりました。

尾道の空き家は、マッチングして、じゃあそこからは勝手に……では、移住定住どころか引っ越しすら困難という家ばかりです。

空き家バンクで物件を決めたひとは、空き家で暮らすためのサポートもします。有料ですが安くトラック貸し出しや、左官道具を提供するなど、荷物の片付けも手伝います。DIY作業補助に入ることもあります。

尾道という町で暮らすためのお手伝いをするのが彼女たちのミッション。画一化されていない町へ引っ越すのですから、まちに入るにはここなりの方法があります。

こうして尾道は、良い空き家物件が出ると瞬時に埋まる自体に。豊田さんが15年前に憂いた状況と真逆の現象が起こっています。

まちが人を呼び、人が人を呼ぶまちへ

尾道は人が人を呼び、ちいさなまちの規模に対して、若者の割合が多い印象です。小商いも盛んで、面白そうなことがありそうな可能性を感じるまちになりました。

小さいまちですが、山もあれば海もあるし、観光地もあります。港町の気質があるのか、保守でも排他的でもない。いらっしゃいと受け入れる土壌がある気がします。「こんなことがしたい」というアイデアが集まるまちになりつつあります。

新たなカルチャーが育っていることを感じているという豊田さん。空き家再生を通してまちづくりを行ってきた豊田さんたちの活動も来年で10年目。最近は「雇用の創出」にも力を入れています。

小さい物件は、個人におまかせしてどんどんやってほしいと思っていますが、大きい物件は、個人の力ではどうにもならずにまちに残ったままになっています。そういうものをみんなの共有スペースとして活用できるように仕組みから考えて事業化させてランニングできるように再生活用をしていきたいです。この3年くらいその活動が主になりつつあります。

そのひとつが「あなごのねどこ」というゲストハウスです。また、もう1軒「みはらし亭」もゲストハウスで、ここの物件は文化財級で職人さんを中心にみんなで手伝って直して、オープンしました。

そうして地域で事業を回して雇用を生み出すことを目的にしています。建物を生かすことは大前提で、誰かが住むだけではなく、空き家を活用することによって若者の仕事をつくり出していくことを少しずつやっていきたいです。

シャッターが目立ち始めた古い商店街において、よそモノとわかモノを地域と結びつけていく拠点としてオープンした尾道ゲストハウス「あなごのねどこ」。

空き家は全国各地が抱える社会問題ですが、空き家再生は尾道というまちの気質に合っていたからこそ成功したまちづくりの手法の一つであり、尾道だからこそ成り立つ暮らしの形です。尾道をお手本にするならば、単純に空き家再生ではなく、「そのまちの良さを生かした暮らしかた」を見つけ出すことが大切なのではないでしょうか。

そして、この日本にはひとつとして同じまちはありません。まちを見直し、まちのよさを見つけて、愛することがイノベーションの第一歩になる気がします。

どこに住み、どんな暮らしをつくるのか。本当に必要なものは何か。「暮らしのものさし」は、株式会社SuMiKaと共同で、自分らしい住まいや好きな暮らし方を見つけるためのヒントを提供するインタビュー企画です。