みなさんは「効果的な利他主義」という言葉をご存知でしょうか?
私がこの言葉を知ったのは、『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと<効果的な利他主義>のすすめ』(ピーター・シンガー著、NHK出版)という本と出合ったことがきっかけでした。
「世界のためにできるたったひとつのことって何だろう?」と、タイトルに惹かれてページをめくりました。しかし、そこで紹介されていた「効果的な利他主義者」のライフスタイルは、私にとって、すんなりと受け入れられるものではありませんでした。
その根底にある
私たちは、自分にできる<いちばんたくさんのいいこと>をしなければならない
という考え方には共感できたものの、
・“収入の半分を寄付するため”に、質素に生きる
・“より多く寄付するため”に、より稼げるキャリアを選ぶ
・“見知らぬ赤の他人を助けるため”に、すすんで腎臓を提供する
といった彼らの生き方が、まるでチャリティに人生を乗っ取られているかのように見えたからです。
しかし、そんな私のモヤモヤとは裏腹に、近年、効果的な利他主義の考え方はニューヨークタイムズ紙やワシントンポスト紙でも取り上げられ、アメリカの西海岸を中心にムーブメントになっています。
2015年には、アメリカのGoogleキャンパスをはじめ、イギリスのオックスフォードやオーストラリアのメルボルンでカンファレンスが開かれました。
2016年に入ってからも、この動きは香港やナイロビなど徐々に広がり、8月に行われたカリフォルニア大学バークレー校での「EA Global」というイベントには1,000名以上が集結したとのことです。
なぜそのような考え方が生まれ、広がっているのでしょうか。効果的な利他主義のムーブメントから私たちが学ぶべきこととは?
同書の翻訳者である関美和(せき・みわ)さんと、編集者の松島倫明(まつしま・みちあき)さんにお話を聞きました。
翻訳家。杏林大学外国語学部准教授。慶應義塾大学文学部・法学部卒。電通、スミス・バーニー勤務の後、ハーバード・ビジネス・スクールでMBA取得。モルガン・スタンレー投資銀行を経て、クレイ・フィンレイ投資顧問東京支店長を務める。主な翻訳書に『シェア』、『MAKERS』『ゼロ・トゥ・ワン』などがある。
NHK出版 編集局放送・学芸図書編集部編集長として、翻訳書の版権取得・編集・プロモーションに従事。ノンフィクションから小説までを幅広く手がけている。主な担当作としては『MAKERS』、『フリー』、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』、『ゼロ・トゥ・ワン』などがある。
あなたならどうする?
まずは、「効果的な利他主義」という考え方について紹介することにしましょう。
このムーブメントの生みの親は、哲学者であり倫理学者でもあるピーター・シンガーです。
このプレゼンテーションの冒頭で、彼はある動画を流します。そこには、道路で2歳の女の子が車にひき逃げされたあと、その姿に気づきながらも素通りする人たちが映し出されていました。車にひかれて放置された子どもは、道路清掃員の通報によって救急車で運ばれましたが、手遅れとなり亡くなります。
彼は聴衆に問いかけます。
自分なら見過ごさないという人は手を挙げてください。
ほとんどの人の手が挙がりました。それを受けて彼は続けます。
2011年のユニセフの報告書によれば、5歳以下の690万人の子どもが、予防できる病気で命を落としています。1日に1万9千人が道端で亡くなっている。彼らは遠くにいるから仕方ないのですか?
途上国には、貧しさによる病で命の危機に瀕している子どもがたくさんいます。そして、先進国に住む私たちは、自分にとっては“少額”の寄付をすることで途上国の多くの命を救うことができる。この事実を知りながら何も行動を起こさないのは、目の前でひき逃げされた女の子を見過ごすのと道徳的な差はないのではないか、と言うのです。
効果的な利他主義とは?
ピーター・シンガーは、オクスフォード大学の講師だった1972年に「飢餓、富裕、道徳」という論文を発表しました。
そのなかで「飢餓や大災害によって多くの人が苦しんでいるという現状を考えれば、収入の大部分を災害援助活動に寄付すべきだ」と主張し、「寄付の金額に論理的な限界はないが、限界効用点まで与えるべきである」と説きました。この論文は世界中の大学で学生たちに影響を与え、「効果的な利他主義」を生む土壌となりました。
ピーター・シンガーは『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』で「効果的な利他主義」のムーブメントを紹介している
「効果的な利他主義」の人々は、ほかの条件が同じなら「より苦しみが少なく、より幸福な世界の方がよい」とし、また「寿命は短いよりも長い方がよい」という価値観を持っています。
そのため、同じ金額を寄付するのなら、途上国の非常に貧しい人を助ける方が、それ以外のチャリティに寄付するよりも、より多くの苦しみを減らし、より多くの命を救うことができると考えます。自分の能力と時間とお金の許す範囲で<いちばんたくさんのいいこと>が実現できる活動に寄付をするのです。
倫理の及ぶ範囲が拡がっている
私は本を読むことで、この考え方について頭では理解はできました。とはいえ、その方が効果的であるとしても、どちらかといえば身近で困っている人を手助けする方に優先的にお金を使いたいと思ってしまう自分もいました。
そもそも、私たちの倫理はどこまで及ぶものなのでしょう。身内や親しい人だけなのか、同じ境遇の人同士のコミュニティ内なのか。それとも同じ地域に住む人、あるいは同じ国に暮らす人までなのでしょうか。
ピーター・シンガーは、先進国に生きる人にとっての“最低限の倫理的な生活”について同書の中で次のように書いています。
私たちの余分なリソースのかなりの部分を、世界をよりよい場所にするために使うことが、最低限の倫理的な生活と言えるでしょう。
この一節を読んだとき、私は2015年11月にパリで多数の死者を出すテロがあったときのことを思い出しました。
私はそのころロサンゼルスにいて、ビーチでのんきにヨガをしていました。周りでは、いろんな人種の人が、自分のペースでおだやかな時間を楽しんでいました。ランニングをしている人もいれば、太極拳をしている人もいて、見知らぬ人同士、あいさつを交わしたりもして、そこにあった空気は平穏そのものだったのです。
でも、まったく同時に、世界のどこかでは憎しみや悲しみが渦巻いていて、それを感じながらも何もできずにいる自分に空しさを覚えたのでした。自分自身の手の届く範囲は幸せに満ちていながら、意識の届く範囲ではどこかで何かが満たされていない感じ。
そのときの感覚を思い出したとき、世界をよりよい場所にするために、世界の悲しみの総量を減らし、幸福の総量を上げるという方針に基づいて判断する効果的な利他主義の考え方が腑に落ちた気がしました。
“地球全体”という視点
効果的な利他主義の人々は“地球全体”という視点で行動するのだと関さんは言います。また、効果的な利他主義の担い手について、松島さんはこう語ります。
松島さん 効果的な利他主義の中心となっているのは、ミレニアル世代(2000年以降に就職や成人した世代)と呼ばれる若い人たちです。インターネットがあるのが当たり前の若い世代は、自分なりの価値観をネットを介して共有し、物理的に距離が離れている人ともつながっていきます。
彼らの感覚では、ほとんど顔を合わせることのない隣の家の住人と、遠くの国の会ったことはないけれど考えを同じくする人とが“ニアリーイコール”で結ばれます。別の大陸に住んでいても、同じ考えを共有する人同士の方が心理的な距離は近いのかもしれません。さらに、英語圏の人同士であれば、言葉の壁がない分、より簡単につながることもできます。
自分自身のことを振り返ってみても、遠くに住んでいても同じ考え方を共有していれば、心理的な距離はぐっと縮まるということは納得できます。
さらに、今やインターネットの発達によって、その場から一歩も動かなくても、クリックひとつで途上国の貧しい人たちのために寄付ができる時代です。私たちの倫理的な意識が及ぶ範囲も、倫理的な行動の結果が及ぶ範囲も、思っているよりずっと拡がっているのでしょう。
“地球全体”という視点で行動することは、自分の肉体が移動する範囲だけでなく、意識が届く範囲でも心穏やかにあるために必要なことなのかもしれません。
その寄付によって、どんな成果がもたらされるのか
では、“地球全体”という視点で行動する効果的な利他主義者の人たちは、具体的にどのような行動をとるのでしょうか。
大きな特徴は「ただ寄付をすることで自分の心が満たされればよいというわけではない」ということです。その寄付によってどんな成果がもたらせるのかを見極めたうえで、自分の資産を寄付します。
その見極めに必要な情報を提供している組織のひとつに「ギブウェル(Give Well)」があります。2006年、コネチカットのヘッジファンドで働いていた二人の青年が、自分のお金を“健全な投資対象”に寄付しようと考えたことをきっかけに立ち上げました。
「ギブウェル」は、あらゆるチャリティを評価するのではなく、貧しい人を助けるためのチャリティに的を絞っている。その結果、途上国の貧困対策に特化したチャリティを評価対象としている
「ギブウェル」では、各慈善団体が“どれくらいの費用で、何が達成できるのか”という情報をランキング形式で提供しており、ユーザーはサイトから寄付の手続きをすることができます。
「ギブウェル」のサイトの上位にランクされている「GiveDirectly」は、ケニアやウガンダといった国の貧困層に直接現金を届ける活動をしている団体です。2014年の時点で1700万ドルを超える寄付が集まっていますが、そのうち900万ドルを「ギブウェル」を通して受け取っています。
この数字はまだ慈善分野全体に大きなインパクトを与えるほどの金額ではないかもしれません。
しかし、「ギブウェル」のような他のチャリティを評価する“メタチャリティ”の存在は、「効果的な利他主義」を実践する方々にとって欠かせないものです。それと同時に、ムーブメントの発展に大きく貢献していることは間違いないでしょう。さらに言えば、世界のお金の流れを変える可能性を秘めているとも言えます。
チャリティの効果はどこまで数字で表せるのか
ただ、ここで気になるのは、必ずしもチャリティの効果は数字で表せるとは限らないのでは、ということです。
「ギブウェル」が提供するような「5000円で飢餓状態にある子どもを救える」や、「400万円で400人を失明から救える」といった情報は、インパクトがあり明快です。費用対効果の高さを判断するうえで、とても役に立ちます。でも、数字で表しきれない効果もあるのでは?
関さん そうですね。たとえば、アフリカなどで水をきれいにするというチャリティの効果は数字で示しにくいもののひとつです。もし、その地域で病気が減ったとしても、水がきれいになったことで病気が減ったとは言い切れないからです。
でも、ピーター・シンガーは、必要な情報が十分にあれば、基本的には数字に置き換えられると考えているのだと思います。彼に言わせれば、今、効果を数字で表せずにいるのは、正確な情報がないからということなのです。
1990年から2000年までの10年間、開発途上国への援助額は世界一位だった。「日本のODAが救った命の数を考えると、日本政府は“効果的な利他主義者”だったんです」と関さん
これはさらに議論が必要な問題でしょう。一方、松島さんはメタチャリティの日本での拡がりの可能性を感じているようです。
松島さん 「ギブウェル」を立ち上げたのは、データから効果を読み取るリテラシーの高い人たちでした。その意味では一定のスキルや労力が必要となると思うのですが、今後、日本でも「ギブウェル」のようなメタチャリティサイトができると面白いでしょうね。
慈善事業に年間2000億ドル近いお金が寄せられるアメリカに比べて、日本にはチャリティ文化がないと言われます。
しかし、2011年の東日本大震災のときに、寄付先について、窓口だけでなくお金の最終的な行き先まで含めてまとめたgreenz.jpの記事が多くシェアされたように、寄付したお金の効果に意識を向ける人が少なからず存在するということは確かだと思います。
そう考えると、日本でも「ギブウェル」のようなメタチャリティサイトが生まれる素地はあるでしょう。
また、チャリティの効果を数字で示すため、寄付を募る慈善団体が情報を開示していくことも必要になってくるのかも。greenz.jpも寄付で成り立っているメディアなので、もしかするとその必要に迫られるようになるかもしれません。
そして、情緒ではなく理性主導で、より効果的なチャリティを選べる土壌が整ったとき、あなたならどんな行動をとりますか?
最初は効果的な利他主義の人たちのスタイルに違和感を覚えた私ですが、本の中で紹介されていた女性の次のような考え方を知って、自分がこれからどう考えて行動したらよいのか、少し見えてきた気がしました。
「どれだけ与えるべきか」ではなくて、「どれだけ自分が取っていいのか」
彼らのスタイルは、場合によっては極端にも見えますが、自分の取り分を自分で決め、残りを手放しているに過ぎないのではないでしょうか。規範に縛られているわけでもなければ、共感で動いているわけでもない。より幸福が多く、より苦しみの少ない世界にするために、自分が手放すと決めた分を、最も効果的と判断した使い途に投資しているだけなのです。
THE MOST GOOD YOU CAN DO
関さん 私は今まで社会貢献系の本を何冊も訳してきました。それらは、読んで気持ちよくなる “feel good story”だったんです。でも、『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』はそうじゃない。これは決して“feel good”な本ではありません。
関さんの言葉のとおり、この本の読後感は決して “feel good”ではありませんでした。理屈を頭では分かった気がするけれど、心が納得できなくて、モヤモヤしていたのです。
読み終わるまでには、何度も立ち止まりました。そして、関さんと松島さんにお話をうかがってからも、自分が効果的な利他主義の考え方に則って行動するようになったかといえば、必ずしもそうではありません。
ただ、この本に出合い、数字を通してチャリティを見ることで、私の中で変化がありました。目を覆いたくなるようなニュースが飛び交うこの世界だけれど、必ずしも暗い未来に向かっているわけではない。むしろ、よい方向へ進んでいるという見方もできるのだ、と思えるようになりました。
冒頭で紹介したTEDのプレゼンテーションでは、2011年のユニセフの報告書の数字が引用されています。5歳以下の690万人の子どもが、予防できる病気で命を落としているというものです。それが、最新の資料によると、590万人(2015年)となっています。この数年の間に、100万人の命が救われるようになっている。
多くの人が効果的なチャリティにお金を使うことで、世界の苦しみの総量は確実に減っているのです。
恥ずかしながら、これまで私は、自分が海外のチャリティに少しばかりのお金を使っても、果たしてどれほどの効果があるのだろうと懐疑的でした。それよりも、身近なチャリティにお金を使う方が、自分の心が満たされて、気持ちがよかったのだと思います。
『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』の原題は『THE MOST GOOD YOU CAN DO』です。“あなたにできる一番たくさんのこと”については、数字がおのずと示してくれます。ただ、“自分にできる最もよい(=好ましいと思う)こと”は、人それぞれでよいのではないでしょうか。
私は「ギブウェル」の存在を知ったことによって、自分のお金で最大限の効果を得る手段を得ました。ただ、それを承知の上で、たとえより効果的でないとしても、自分が意義を感じられる国内のチャリティにお金を使うこともやめないと思います。
まずは、効果的利他主義の考え方に触れ、“自分にできるいちばんたくさんのこと”を知ることから始めてみませんか? その上で、自分はどこにお金を使うのか、自分にとっての“寄付のものさし”を考えてみてはいかがでしょう。