JR大阪環状線と天満音楽祭がコラボレーションし、電車の中で行ったライブ「ぐるKANライブ」
「大阪」と聞くと、あなたはどんな街の風景が浮かんできますか?
にぎやかな商店街、飛び交う関西弁、ヒョウ柄の服を着たおばちゃん…。
多くの人が、そんなイメージを抱いているのではないでしょうか。
実際に、大阪にはそんな街がたくさん! 今回ご紹介するのは、そのなかでも、より大阪色の強い「天満」という街。
大阪一のオフィス街に隣接する立地ながら、全国一と言われる天神橋筋商店街、仕事帰りの人で毎晩にぎわう下町風情の飲み屋街、大企業の本社ビル、歴史のある大阪天満宮など、いろんな要素がぎゅっと詰まっているのです。
天満では、毎年10月の第1日曜に、街全体が音楽一色になるイベント「天満音楽祭」が行われています。
「天満音楽祭」の日は、街じゅうのライブハウスや学校、飲食店、教会、商業施設など30ヶ所以上がライブ会場に。あらゆるジャンルのミュージシャンが各会場で演奏し、お客さんはパンフレットを片手に、会場を無料バスでぐるぐるとまわってお目当ての出演者の演奏を聴いてまわります。
2000年にスタートし、今年で17年目となる「天満音楽祭」。ひとつの街で大規模な音楽イベントを行うことは、街の人々にどのような影響力をもたらしてきたのでしょうか? 副実行委員長で広報担当でもある村上卓さんにお話をうかがってきました。
天満音楽祭副実行委員長。ITコンサルティングを本業としながら、「天満音楽祭」や「京橋緻密結社」など、住まいのある大阪で地域に密着した活動を行っている。2011年の東日本大震災の直後には、「mixi」で約18,000人が参加した「復興支援from関西プロジェクト」を立ち上げ、募金活動や物資支援を中心に活動。「天満音楽祭」では、主に広報の役割を担当。
地元の中学校のOB同士で「音楽で街を盛り上げよう」と企画。
「天満音楽祭」をはじめに企画したのは、天満エリアにある大阪市立北稜中学校を卒業し、地元で商店や会社を営むOBたちでした。
きっかけは、1995年1月に起きた阪神・淡路大震災。地元に大きな被害はなかったものの、甚大な被害を受けた兵庫県に隣接する大阪市民として、「何かができないか」という思いがありました。
そんな思いのままに、被災地を元気づけようと兵庫県芦屋市へ出向き、チャリティーの音楽イベントを開催。大勢の人が集まるのを見て、「音楽って街を元気にするんやな」ということに気がつきます。そして、みんなが音楽好きだったこともあり、「地元の天満を盛り上げる音楽祭をやりたいね」という展開に。
ちょうどその頃、天満エリアには「大阪アメニティーパーク(以下、OAP)」がオープン。「OAP」は、オフィスやレストランなどが入る複合ビルですが、駅からのアクセスが良くないため、認知度アップが大きな課題でした。
たまたま開発会社につながりのあったひとりが、「この場所で音楽祭をして、人を集めましょう」と提案。2000年に、第1回の天満音楽祭が開催されました。
コンセプトは、「音づくり、仲間づくり、街づくり」。その根底には、「地域全体を活性化させたい」という思いがありました。「古くからの地元の人たちで盛り上がるきっかけが『音楽』であれば、敵対することもなく、『仲間づくり』から『街づくり』につながる」と考えたのです。
運営メンバーは当時、50歳を迎えた頃。みな地元で育ち、地元に根付いて働いてきた人たちですから、天満エリアで場所を借りるための顔もきくというもの。ジャズライブハウスやお店、さらにはお寺などにも声をかけ、第1回から10会場、100バンドという規模でした。
初期のころから、天満のお寺「宝珠院」もバンドのライブ会場に
翌年からは、地元の人が「オレも、オレも!」と、続々とスタッフとして参加。知り合いが知り合いを呼び、デザイナーや広報経験者など、専門的なスキルを持つ人たちも現れます。こうして、天満音楽祭は、年を追うごとにどんどん大きなイベントになっていきました。
メイン会場のOAPには、毎年たくさんのお客さんが集います。
「OAP」のメインステージ。あらゆるジャンルの音楽のパフォーマンスが行われます。
地域の学校の吹奏楽部による演奏も行うなど、ジャンルも参加者もさまざま。
東日本大震災の支援活動をきっかけに、天満音楽祭に参加。
現在、実行委員の中で最年少の村上さんが、天満音楽祭にはじめて関わりを持ったのは、2009年。近所の行きつけの居酒屋に貼ってあった音楽祭のポスターを見て、もともと音楽やイベントごとが好きだった村上さんは、興味をそそられました。
偶然、店内にいた音楽祭の実行委員の方から「ゴスペルのワークショップなら誰でも参加できるよ」と勧められ、初心者ながらもゴスペルワークショップに参加。100人が参加したワークショップの迫力や、天満音楽祭の規模の大きさに圧倒され、翌年は当日のボランティアスタッフとして参加しました。
村上さんも参加したゴスペルのワークショップは、毎年行われるフィナーレの目玉。毎年参加者を募り、事前の練習を重ね、ステージ本番を迎えます。
関わり方が変わったきっかけは、2011年の東日本大震災。村上さんは「関西からできる支援を」というテーマで、mixiを使って「復興支援from関西プロジェクト」というボランティア団体を立ち上げました。多いときは18,000人ほどが集まり、東北への支援活動を行いました。
「トラックで物資を持って行こう」という話をしていたのですが、行くこと自体が危険だということを知って。4月に支援金や支援物資を集めることにしました。ところが、にわかにつくった団体なので、駅前などで活動の「場所」を確保することが難しかったんです。
そのとき、人通りの多い天神橋筋商店街で演奏をしていた天満音楽祭の光景が頭をよぎり、「音楽祭の人に話をしたら借りられるかもしれない」と思って。実際に話をしてみたら、「音楽祭つながりだったらいいよ」と。商店街で支援金や支援物資を集める活動ができました。
このとき、村上さんは、「地元のお祭りを通じた地域とのつながり」を肌で実感。さらに、「今年は音楽祭への恩返しを」と、2011年の音楽祭には村上さんのプロジェクトからもボランティアメンバーが参加しました。また、天満音楽祭でも東北への支援金を集めることになったときには、村上さんが東北支援関連のとりまとめを行いました。
全国にある地域の音楽祭のなかで、もっとも大きいのが、仙台の「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」です。天満音楽祭はそれを見習って運営をしてきているので「被災地のために何かをしたい」という声があがりました。
そのときに、「村上が今やっていることを音楽祭でもやってよ」という話になり、支援金を集めることになったんです。
世間が言葉遣いに敏感になっていたので、「『義援金』じゃなく『支援金』にしましょう」など、細かな調整をしました。やがて、「震災関連だったら村上がなんかやるよね」と、自然に僕の役割が決まっていきました。
こうして自然と、実行委員の一員となった村上さん。天満音楽祭は高齢のメンバーが多く、インターネットの活用が十分でなかったのですが、村上さんの本職はIT関連。
そのことも重宝がられて、しだいに広報関連も村上さんの担当になりました。これまで手をつけていなかったFacebookやTwitterでの告知をスタート。他にも、音楽祭のサブイベントとして、若手ならではの「新しいこと」を企画するようになりました。
僕自身、「音楽祭の中でいろんなことをやってみたい」と思い、音楽祭の本体に迷惑がかからない範囲でサブイベントを企画したんです。「ミュージシャンをクローズアップしたい」と考え、プロのMCの方にお願いして番組を撮影し、YouTubeで公開しました。
村上さんがはじめた、YouTubeでの出演ミュージシャンへのインタビュー番組「天満ミュージックチャンネル」。プロのMCを起用した楽しいトークを収録し、今の時代に合った編集を行い、配信しました。
村上さんという若手が運営陣に入ったことで、音楽祭には新しい風が吹くように。音楽祭の一環としてアイドルイベントを行うなど、客層を広げる企画も実行し、「なんかいろいろやんねんな」という印象づけに成功した村上さんは、2015年からは副実行委員長に抜擢されました。
天満では、昔ながらの垣根を飛び越えた「横のつながり」ができている
昨年は、38会場で365バンドが出演するなど、年々勢いを増すばかりの天満音楽祭。最初はOAPを中心とした範囲だったのが、今では一駅隣のJR大阪駅までが会場に。(歴史をたどれば、大阪駅も「天満」の一部だったのだそう!)
天満の街になくてはならない年中行事のひとつになった今、街全体にはどのような影響があったのでしょうか。
昨年の天満音楽祭の会場マップ。広域で全38ヶ所にもわたるため、当日は無料のシャトルバスが運行しています。
天満の街は、徐々に変わってきているように思います。ここ4〜5年で街ぐるみのイベントが増えていますよね。街のお店が何かをやるとき、昔みたいに「商店街」や「組合」ばかりじゃなくて、その垣根を飛び越えた「横のつながり」も選択肢のひとつになっているように思います。
大阪では、2010年ごろから飲み屋の街・B級グルメの街として「天満」が大人気。雑誌の表紙でも目にすることが多くなりました。音楽祭のような、昔ながらの組織を越えた「横のつながり」の動きが連鎖的に起こった結果なのかもしれません。
音楽祭が何かしらのヒントにはなってくれていたらうれしいことですね。天満という地域の潜在能力はすごいと思うんですよ。それは商店街だったり、古くからの文化だったり。お寺もあるし、ヒョウ柄のおばちゃんもすぐつかまるし(笑) テレビ局やラジオ局もあるので、取材にもすぐ来てもらえます。
そういった地域の力をうまく活用することが、今までもこれからもテーマになってくると思いますね。天満の街には、まだまだできることがいっぱいあると思います。
JR大阪駅のホーム上にある「時空の広場」にもステージを設けるようになりました。
ジャンルも地域も越えて、つながりを広げていきたい
ここ1〜2年は観光客も増えてきている天満エリア。音楽祭も観光客を意識していくなかで、村上さんは副実行委員長として、音楽祭に「広がり」を持たせることをこれからの方向性として見据えています。
まずは、企業とのコラボレーションをどんどんやっていきたいと思っています。昨年、あるスポンサー企業さんが、天満でまち歩きイベントを開催され、音楽祭が後援させていただいたんです。
商店主さんにクイズの出題などをお願いする際に、音楽祭のつながりだとアプローチがしやすいんです。こういった形でスポンサーさんと取り組めると、相乗効果となって街が盛り上がるんですよね。
2014年には、電車の中でバンドが演奏する「音楽列車」が大阪環状線を一周するという、JR西日本との大々的なコラボレーションを実施。大阪環状線も天満音楽祭も盛り上がり、大きな相乗効果を生みました。
また、音楽祭の内容をさらに充実させ、多くの人に楽しんでもらうため、「音楽だけにこだわる必要はないかな」と他のジャンルへの広がりもイメージしている村上さん。
ここに集まる人たちは、それぞれ別の仕事や趣味を持っているんだから、文化祭みたいにいろんなことができたらいいですよね。やっぱりお祭りには露店が出ていたら楽しいし、飲食だけではなく楽しければジャンルは何でもいいと思うんです。
さらには、最近増えてきている他の地域の音楽祭との関わりを広げていくことにも、積極的に取り組んで行きたいと考えています。
音楽好きの人は、年1回だけでなく、いつも「聴きたい」という欲求があると思うんです。他の音楽祭とのつながりがあれば、「11月は奈良の『郡山音楽祭』に行ってください」などと誘導もできます。それに、他の音楽祭の方たちとお互いに勉強し合ってよりいいものをつくっていけたらいいですよね。
大阪らしさがあふれる天満の街で長年続く音楽祭は今、村上さんのような若い力により、ジャンルや地域などの広がりを持たせながら、さらなる発展を遂げようとしています。天満の持つポテンシャルが、今後さらに開花していくのが楽しみです。
実は、昨年まで10年近く、天満へ通勤していた私。ここ数年の天満の盛り上がりは相当なもので、変化を肌で感じていました。今回のお話を聞いて、その裏には、天満音楽祭の「音づくり、仲間づくり、街づくり」の動きが長年かけてもたらした影響が大きいのではないかと感じています。
少し先にはなりますが、今年の10月は、天満音楽祭へ足を運び、「音楽」を通じて「仲間」の輪ができ、「街」が活気づくのを、ぜひ体感してみてください。
そして、これからの天満音楽祭の「広がり」のなかで、あなたの地域・あなたの得意ジャンルで天満音楽祭と関わってみるのもいいかもしれません。いまの天満音楽祭は、あらゆる新しいものを受け入れてくれるはずです。