『生きる、を耕す本』が完成!greenz peopleになるとプレゼント→

greenz people ロゴ

あなたが暮らす町に守りたいものはありますか? つくし野の住民をひとつにした、「つくし野桜守りの会」10年の軌跡

mcd1

このコラムは、町田で移動八百屋の活動をしている早川侑さんから、ご寄稿いただきました。寄稿にご興味のある方は、「採用について」をご覧ください。

あなたの暮らす町に守りたいものはありますか?
私にはあります。私が生まれ育った町にある桜です。

それは特別な桜ではなく、どこにでもある一般的な桜です。

何故守りたいのか。それは、物心ついた時から春になると町じゅうが桜の景色で埋め尽くされ、歩道には花びらの絨毯ができあがる環境で育ったからです。

もう一つ守りたい理由があります。
守ることができなかったからです。
 
mcd2
山を切り開き、開発が進む小川村時代の風景

東京都町田市の南に位置する「つくし野」という町は、1968年に東急不動産が開発した住宅街で、かつては小川村という町田市の中でも田舎とされる小さな村の一部でした。

開発により小川村から独立し、町開きをするにあたり、「日本で初めて市民参加による町づくり」という趣旨にそって、町の名前を全国から募集しました。

その結果、全国から9万通を超える応募があり、その中から岡本太郎や手塚治虫、井上靖といった当時の日本を代表する有識者6名の話し合いで「つくし野」と命名されました。都心へのアクセスの良さや、閑静な住宅街ということもあり、とても人気のあった住宅街でした。
 
mcd3
東急田園都市線、つくし野駅

桜の花が少なくなってきている

そんな小さな町のシンボルが桜です。

地元で育った子どもがいる家庭には、桜の下で記念撮影をした写真が必ずあると言っても過言ではありません。しかし、町が生まれてまもなく50年、地元の誇りである桜の衰えが少しずつ目立ってきました。

つくし野の桜は街路樹の常として木と木の間隔が狭く、歩道のアスファルトに囲まれるように植えられているため、木は根を深く広く張ることができませんでした。

衰えてきたもう一つの理由として「管理」の面も考えられますが、町田市が手入れするだけでなく、桜並木の近くで暮らす住民たちも花びらや落ち葉拾いなどの清掃を個人的に行ってきました。

そんな中、「桜の花が少なくなってきているのではないか」と疑問に思った住民が、花ばかりではなく、木の幹や根まで注意して見たところ、その老化に気づきます。そこで、仲間に声をかけて2005年の春に「つくし野桜守りの会」が結成されました。
 
mcd4
管理番号の取り付け風景

mcd5
市民にわかりやすく伝えるため、丁寧にパネルを製作します

桜守りの会は近隣でも下北沢、国立、横浜にもあり、これらの先輩団体から教えを請い、まず初めに278本ある町の全ての桜に管理番号を付け、健康状態を診断しました。

診断の結果は憂慮すべきものがあり、桜並木の現状を町の人たちにも知ってもらおうと手作りで製作したパネルを商店街やつくし野駅構内に展示しました。

また、展示物の一部をつくし野小学校内に掲示させてほしいと依頼したところ快諾していただき、そのことが縁となり、2006年には6年生を対象に、桜をはじめ自然が町にあることの大切さについて講話をする機会がありました。

その話を聞いた子どもたちからは、「おじさんたち頑張ってね、僕たちにもできることがあれば手伝いたい」と、熱いエールを送られ、とても感動したそうです。

そればかりか、その年の運動会で行われた組体操では「桜」をテーマにした演技が行われ、その演技中に子どもたちがマイクを使って、桜並木の維持を保護者たちへ呼びかける場面も。こうして桜守りの会員だけでなく、多くの地元住民へ桜に対する関心を届けたのです。
 
mcd6
花の蕾が少しずつふくらみ

mcd7
立派な大きな枝をつけ

mcd8
満開の桜から舞い散る花吹雪

つくし野小学校とのつながりはその後も続き、秋には「公園クリーン大作戦」と名づけられた、小学4年生と一緒に行う公園の清掃活動が毎年の学校行事として始まりました。

また、町田市役所公園緑地課の協力を得て公園にある木の名前を教えてもらい、その名前を記入したオリジナルプレートを作成するワークショップの開催にも発展しました。

他にも、桜守りの会では自治会との共催で、焼き芋会を開催しています。そこには地域のおじいちゃんおばあちゃんと一緒に遊ぶため、たくさんの小学生が訪れます。お父さんやお母さんと一緒に熱々の焼き芋を頬張る子どもたちの笑顔がたくさん見られるそうです。
 
mcd9
木の名前プレートはみんなの手作り

心配が現実となってしまう

少しずつ活動の幅が広がる中、2007年9月、台風による強風で桜の木が倒れてしまう事態が発生します。

幸い早朝の出来事だったためケガ人はいませんでしたが、桜守りの会は町田市に「全桜並木の緊急安全点検」と再整備の早期実現をお願いすることに。町田市は以前から多くの力を注いでくれていましたが、今回の件もひとつのきっかけとなり、「つくし野桜並木道路再整備協議会」が設置されることになりました。

協議会ではどのような桜に植え替えるのか、間隔はどうするのかなどが話し合われ、住民へのアンケート調査等も行いながら、丁寧に議論を重ねていきましたが、すべての住民が植え替えに賛成というわけではありませんでした。

「本当に植え替えは必要なのか」、「何故、生きている木まで切って植え替えなくてはいけないのか」といった意見が集まり、再整備事業反対の署名活動が行われたことも。

その都度、桜守りの会が中心となって感情論だけではなく、データを交えながら丁寧に説明をしていきました。そのさなか、2010年5月、再び桜の木が倒れてしまったのです。

今回は不運にもおばあちゃん、お母さん、お孫さんの3人が歩いているところへの倒木。お母さんは避けることができたのですが、おばあちゃんとお孫さんが下敷きになってしまいました。

木の枝が道路に突っ張ることで生まれた隙間からお孫さんは出てくることができましたが、おばあちゃんは腰を強く打ち病院へ。診断の結果、幸いにも軽傷で済みましたが、町としてはまたこのような事態を招くわけにはいきません。

町田市の協力を得て専門家による樹木診断を行い、30本の伐採が行われることに。しかし、その後もトラックがつくし野小学校前を走行中に枝が引っかかってしまい倒木するなど、大人だけでなく子どもたちがいつ事故に巻き込まれてもおかしくない状況でした。
 
mcd10
涙をこらえて見守った伐採風景

住民の意思で決断する大切なこと

とはいえ、その後も協議会にて全会一致とはいかなかったようです。木も私たちと同様に生きています。私がもし協議会に参加していたら、どのような気持ちになっていたのだろうかと考えさせられます。

また、植え替えと同時に歩道の再整備も必要という特殊な事情もあったため、引き続き桜守りの会では住民へのアンケート調査を続け、駅前広場等での調査報告を通じてしっかりとデータを公開しながら、地道に意見をとりまとめていきました。

そうしてついに住民の理解を得た上で、メインストリートとなる中央桜通りの植え替え工事が2013年度より始まったのです。

この中央桜通りで記念撮影をした家族はとても多いはず。そういう私もその一人です。そんな思い出のある人たちにとって、工事が始まった今の景色はあまりに寂しく、最初にその光景を目の当たりにしたときは言葉も出ず、ただ涙が溢れてきました。

しかし、これは桜を通じて町が再生するために必要な作業であり、思い出まで消えてしまうわけではありません。2018年度までに他2本の桜並木の整備も行われます、そうして住民は新たな思い出を若い桜の木に刻み始めていくことでしょう。

住民こそ町のファンになろう

mcd11
つくし野桜守りの会の皆様

これからのつくし野にとって大切なことは、「桜守りの会があるからもう大丈夫」と考えるのではなく、住民が町のことを想い、桜を見守り続けることだと私は思います。

特別なことでなくても、桜の表情を読み取ろうと向き合ったり、時間があれば掃除をしてあげたり。それだけのことでもきっと違うのではないでしょうか。

今までは、春になればまた綺麗な花が咲くと信じ込み、夏や秋に桜の木を見上げることはほとんどありませんでした。力強く咲く桜を見て綺麗だとは言いますが、新緑の桜を見て「元気そうにしているじゃないか」と木に話しかけることはしませんでした。

つくし野の住民である私でさえも、桜のにわかファンだったのです。
しかしそれはもう許されません。

友人や恋人に「つくし野の桜は綺麗だから見においでよ」と、声をかけられるようになるにはどうすれば良いのでしょうか。10年後、20年後に私が子どもの頃から大好きだった景色を取り戻すために何ができるのでしょうか。

「つくし野桜守りの会」はそのヒントをくれるだけでなく、町開きから50年もの歳月をかけて、ようやく町が一つになれるチャンスを作ってくれたのかもしれません。

町が一つになることはその町の魅力でもあります。そうしたらきっと新しい家族が引っ越してきて、新たなご近所付き合いが生まれるかもしれません。子どもたちが公園や駅前の噴水跡を走り回る姿が日常だった光景が戻ってくるかもしれません。

これから大切になるのは、多くの方に見守り役になってもらえるような愛される町を目指すこと。そして住民が町のファンになり、町を愛すこと。

町が生まれ変わろうとしている今この瞬間を、どうぞ見に来てください。
 
mcd12
現在の中央桜通り

mcd13
同じ場所で撮影した24年前の筆者

(Text: 早川侑)