みなさんは「japan」と呼ばれる器があることを知っていますか?
「japan」とは、“漆器”のこと。何千年も前から日本人の暮らしの中で深く親しまれてきた漆器は、日本を代表する工芸品として広く海外にも知られています。
でも、実際に毎日の食卓で漆器を使っている方は多くはないのではないでしょうか。中には「漆器って扱いにくそう」というイメージを抱いている方もいるかもしれません。
陶磁器やプラスチック、ガラスといった器の選択肢が増えたことで、遠い存在になってしまった漆器。「漆ってもっと身近なもの」。そんなメッセージとともに、流通や素材、デザインにこだわった漆器を届けるのが、漆塗り工房「うるし劇場」です。
今回は、輪島の漆塗りの技法を応用し、埼玉県蓮田市で日々真摯に漆器づくりと向き合う女性職人の加藤那美子さんにお話を聞きました。加藤さんの言葉から、日本の伝統工芸が育んできた、ものづくりの本質が見えてきました。
赤ちゃんから大人まで、みんなで楽しめる「うるし劇場」の漆器
食卓が明るく、賑やかになりそうなお椀やお箸。まずは、加藤さんのつくる「うるし劇場」の作品をご紹介しましょう。黒と朱の伝統色を使った漆器には、ドットや猫、トラックといったポップな漆絵が描かれています。
こちらのお箸も、丁寧に描かれた絵柄が印象的。1歳頃の赤ちゃんが手に握ることのできる4.5寸から3段階の長さが揃っています。
お椀の裏には、名前と似顔絵を入れることもできます。
「うるし劇場」の漆器の大きな特徴は、材料となる漆に国産のものを取り入れていること。「漆って国産じゃないの?」と驚く方もいるかもしれませんが、今、日本で使われている漆の98%は海外からの輸入で、ほとんどが中国産。国産はわずか2%なのだとか。
そんな中、「うるし劇場」のお箸は100%国産の漆を使用。お椀も国産を60%取り入れています。
その他にも、素地には能登ヒバやケヤキなど100%国産の天然木を、お箸には建築端材や間伐材を使い、お椀は輪島の挽き物師さんが一つずつ手で刃物をあてて削った物を仕入れるなど、素材や流通にも強いこだわりが感じられる「うるし劇場」のものづくり。
そこにはどんな思いが込められているのでしょうか?
ストーリーとともに漆器を届けたい
加藤那美子さん
漆器は日本で何千年と使われてきたもの。長持ちするし、性能も良く、優れた器です。漆器をもっと身近なものとして感じてほしいと思っています。
と語る加藤さん。
2009年に「うるし劇場」の前身である「やまね漆器工房」を立ち上げ、ご自身の子育ての経験を活かしたポップな絵柄入りの漆器をつくりはじめます。
そしてその3年後、漆を木から採取する“漆掻き職人”になった知人と再会したことをきっかけに、国産の漆を仕入れることになります。
それまで使っていた中国産の漆は、品質や安全性には信頼のおけるものでしたし、不便は感じていませんでした。
国産漆は値段が中国産の10倍もしますし、扱いが難しいと聞いていて。扱い慣れている中国産の漆からリスクを負ってまで変えたくないと思っていたので、最初は試しに使ってみようという程度だったんです。
1回限りのつもりで試しに仕入れた漆ですが、漆掻き職人の方から直接仕入れる面白さに気づきます。
「山から採ってきたよ」と言ってくれる人から受け取るのっていいな、と感じました。
これまで使っていた中国産のものは、海外ということもあって流通が複雑だと思っていましたし、それとは対照的に、実際に採った人と会話して買うという顔の見えるやりとりが気に入ったんです。
問題は、中国産の10倍もする仕入れ値の国産漆を使うことで、商品の価格も上げざるを得ないこと。ただでさえ、他の器と比べて価格が高めになってしまう漆器。価格の設定には苦労していました。
初めは、国産と中国産の漆でつくったお箸を並べて売っていました。
すると、「多少の価格の違いなら」と、国産漆を使ったお箸を買う人が多くて、意外にも国産漆のニーズがあることが分かったんです。
そこで2012年の夏から、お箸は国産漆100%でつくることを決めます。お椀は技術的な難しさで国産漆を60%使っていますが、将来的には100%にしたいそう。
下地塗り、中塗り、上塗りといった工程で、国産漆と中国産漆を混ぜて塗り重ねていきますが、最近は上塗りを国産漆だけで仕上げたお椀を販売するなど、国産漆の割合を高めています。
漆を塗った後は「むろ」と呼ばれる湿度と温度を管理した場所で乾燥させます。
ちなみに、中国産と国産漆を比べても、「仕上がりに大きな違いを感じにくい」と加藤さん。国産漆は扱いが難しく、仕入れ値も10倍。国産漆を使うメリットが少ないように感じられますが、加藤さんは次のように話してくれました。
漆って、本来はもっと身近なものなんじゃないかと思うんです。
国産の漆は、「熟練の技術を駆使した」とか「貴重な一滴」といった神聖で近寄りがたいイメージで伝えられていますが、お兄さんが山で採ってきてくれた樹液なんですよね。
近所のおじいさんが畑でつくってくれた野菜のように、採ってきた人の存在を感じられるものだと思うんです。そういったストーリーとともに漆器を人々に届けたいんです。
漆とは、幹に傷をつけることで出てくる身を守るための樹液。20年かけて育った漆の木1本から取れる量は、わずか200ccだそうです。漆を何回も塗り重ねて、1つの器をつくり上げます。
漆を採ることって大変な作業だと感じています。雨上がりなど気候の条件で採れる漆も違うそうですし、時には、さらさらとした漆や粘り気の強い漆が欲しいとお願いすることもあります。
どんな漆が必要かに合わせて木を見極めながら採ってくることなどを漆掻き職人のお兄さんから教えてもらい、漆のことをより深く知ることができました。
それ以来、そんなストーリーに思いをめぐらせながら漆を塗り重ねています。
それをお客様にも伝えることで、ただ商品として並んでいるよりも、価格の高さや漆という素材のことなどを理解してもらえると思うんです。
ストーリーとともに届けるために。加藤さんは、手づくり市や地元のイベントに積極的に出店し、保育園やカフェで漆のお箸づくりのワークショップを開くなど、自らの言葉で漆器の魅力を伝え続けています。
日本の森を大切にしたい。
伝統工芸をつくる職人として気持ちを込めたものづくり
日本の森の恵みをいただくからこそ、「つくる過程から自然に還っていくまでを意識し、塗師として気持ちよくつくり上げることを大切にしている」という加藤さん。
“顔の見える”国産漆を使うだけではなく、「素性が分からないものは使いたくない」と、天然素材だけを選び、つくる工程でも自然に負荷のかからない漆器づくりを行っています。
その想いの原点は、漆器のことを学んだ輪島での暮らしにありました。
当時住んでいた古い借家は、排水設備の一部が整っていなくて、生活排水が処理されずに外へ流れ出てしまうつくりだったんです。
輪島は川や海が本当に綺麗な自然豊かな場所。洗剤といった日用品が豊かな自然を汚してしまうことを身にしみて実感しました。
日々の暮らしから感じ取った環境への負荷。加藤さんはつくり手の視点からもそのことを意識するようになり、漆、素地、鉄、ベンガラ(土から採れる天然の鉱物質)など自然由来の素材を原材料とする漆器づくりに辿り着きます。
原材料は、すべて自然からいただいたもの。漆や素地に使う天然木は伐採、植林、育成というサイクルをうまく回しながら、何千年と続いてきたものです。
お箸は、国産より外国産の木材の硬さの方が素地に合っている場合もありますが、私は日本の森で採れた木を使って漆器をつくりたいと思っています。
漆や木は石油と違って枯渇する資源ではないし、自然を大切にできる。やっていて「いい仕事だな」と思うんです。
加藤さんの漆器は、基本的に伝統色である黒と朱の2色のみでつくられていますが、これは伝統力の持つデザインの美しさに加え、カラフルな色漆をつくるために使う顔料の成分がわからないから。
お箸やお椀は、毎日口に入れるもの。自然由来のものでつくられていれば、使い手としても安心ですよね。加藤さんのものづくりの姿勢は、私たち使い手にとっても、自然環境にとっても、気持ちいい循環を生み出しているのです。
漆器を知らない人が気軽に手に取るきっかけに
さらに、漆器に描かれているポップな漆絵も魅力のひとつです。ここにも、ご自身の子育ての経験から生まれた思いが込められていました。
漆塗りをしていて、子どもにも同じ物に触れてほしいという思いをずっと抱いていました。当時、食が細かった子どもに少しでもたくさん食べてもらうために、大好きなイチゴの漆絵をお椀に描くことを思いつきました。
シンプルで格好いい漆器はたくさんあるけど、もっと手に取りやすいポップな漆器があってもいいですよね。漆器を使ったことがない人でも使ってみようかなと思ったり、プレゼントに贈ろうかなと思ったり、漆器に触れるきっかけになればと思っています。
また、どんな子どもにとっても“お気に入りの自分だけのお椀やお箸”になるように、子ども目線でつくることもその一つ。
例えば乗り物は、マニアな子どもでも喜んでもらえるように、細部までこだわって描いています。
お椀の裏に描く似顔絵は、名入れをしても字が読めない子どもにとって、自分のお椀だと理解しやすくするために始めました。似顔絵を入れてほしいという大人の方もいるんですよ。
お気に入りのお椀とお箸と一緒に、大人も子どもも楽しく食事をしてもらえたらと思います。
自然との共生を保ちながら、伝統にとらわれすぎず、自由な発想で今の暮らしに合った作品をつくり上げていく。加藤さんのものづくりの姿勢から、日本の伝統工芸を伝えていくためのヒントをもらったような気がします。
実は格安コートよりも手頃。
漆器のある暮らしをあたり前にしたい。
とはいっても、漆器は価格が高く、なかなか手が出せないものですが、加藤さんは次のように話してくれました。
ずっと長く暮らしに寄り添うものとして考えてもらえたらと思います。お椀は一生モノ。お箸は毎日使っても数年は持つし、実は格安なコートより手頃ではないでしょうか。
小さい子どもだとお箸を噛んでしまうからと敬遠する方がいますが、修理もします。お椀も、割ってしまったり、漆が剥がれてきたら、修理・塗り直しをするので、長く使うことができるんです。
自然の素材からできているから口に入れても安心で安全、修理もできて一生モノ。そして日本の森から得られた木を暮らしに取り入れることもできるのです。
最後に加藤さんのこれからの目標を聞くと、次のように話してくれました。
お米を食べるくらいあたり前に、漆器を使ってもらいたいですね。「毎日使うお箸とお椀は漆器だよ」という暮らしをたくさんの人に送ってもらえるように、漆器をつくっていきたい。
日本は古くから木を生活の中に取り込み、森とともに暮らしてきました。漆器もその一つ。漆も木も、日本の豊かな森林資源から得られたものです。
そしてそこには森を守ろうと、たくさんの人々が関わってきました。日本産の漆や国産の天然木でできた漆器を選ぶということは、日本の里山や漆器文化を守り育てることでもあるのです。
たくさんのものに囲まれている暮らしの中で、何を選び、どんな価値を見出すかは一人ひとり違うもの。
一つひとつの選択がどんな未来につながっていくか、一度考えてみませんか?