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家族も家もなくしたけど、故郷までは失いたくない。震災から3年、被災地でいまを生きる人たちが伝えたい思い。鈴木菜央と行く、三陸取材の旅

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東日本大震災から3年。ふと震災のことを思い出し、「気になるけれど…」「何ができるだろう?」と、胸にモヤモヤしたものを抱えている方も多いのではないでしょうか。

被災地は今、どうなっているのか。greenz.jp代表の鈴木菜央さんとgreenz people(グリーンズ会員)の4名が6月28日〜29日、岩手県南の沿岸部を訪れました。

復旧した街並み。残るつめ跡

三陸公開取材の旅は、岩手県釜石市からスタート。「こうべといわてのテとテ」企画からご縁のある、岩手日報社の柏山弦さんと田辺崇さんが出迎えてくれました。

まずは、釜石ラーメン発祥の店として地元では知らない人はいないという「中国料理・新華園本店」へ。
 
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釜石ラーメンは、極細ちぢれ麺と琥珀色のスープが特徴

みんなで釜石ラーメンをすすりながら、鈴木菜央さんが今回の企画の経緯と思いを話し始めました。

菜央さん 僕の妻は釜石出身で、義理の両親が被災しました。震災後に何度も釜石を訪ねているけど、家族への対応で精いっぱい。

被災地の状況が気になりながらも、どんなふうに関わったらいいのか分からない。そんな話を岩手日報の柏山さんにしたら、「難しく考えないで、美味しいラーメンを食べに来てください」って誘ってくれたんです。そっか、と(笑)。

釜石は以前、製鉄所が稼働していた「鉄のまち」。震災では最大9.3mの津波が押し寄せました。市内の死者・行方不明者は計1,040人に上ります。

街を歩くと営業している店はたくさんあり、一見穏やかな街並み。ですが、すぐに気になる光景に出くわしました。
 
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建物の壁に示された津波の高さの記録。被災した当時のまま、取り壊されることなく骨組みだけ残った建物。「まだこんな状態なんですね…」。ひとりがつぶやきました。

車窓の風景と触れ合いを楽しむ

次は釜石駅に戻って、三陸鉄道(以下、三鉄)南リアス線に乗車。三鉄は、岩手県久慈市と宮古市(北リアス線)、釜石市から大船渡市まで(南リアス線)をそれぞれ結ぶローカル線です。震災で被害を受けましたが、今年4月に全線が再開されたばかりなのだそう。
 
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切り立った断崖や穏やかな入り江などリアス式海岸特有の美しい風景を眺められます

車両はたった3両ですが、三鉄を盛り上げようと活動する地元のお母さんたちが車内で、手づくりのおやつ「なべやき」や海産物などを売っていました。

みんなが復活を目指したホタテの浜

目的地は恋し浜駅。元は「小石浜駅」でしたが、小石浜の漁師たちが「恋し浜ホタテ」の名前で特産のホタテを売り出したことにちなんで改称されました。今では恋の聖地として恋人たちが訪れるのだとか。

浜で待っていてくれたのは、小石浜養殖組合の佐々木淳さん。船に乗って、ホタテ漁を体験させてもらいました。
 
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出荷まで2年かかるというホタテ。「ホタテって泳ぐの、知ってた?」という佐々木さんの言葉に一同驚き!

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獲りたてホタテを網焼きにしていただきました。海水の塩気とホタテの旨味だけで最高に美味しい!小石浜産ホタテは、築地で一番の高値を付けたこともあるという逸品。ホタテは綾里漁業協同組合を通じて購入できるそうです。

佐々木さんは震災当日、船の上で地震の揺れを経験しました。陸を見ると、空がまっ黄色。杉の林が揺すられて大量の花粉が飛んでいたのです。海も波が立ち、船は左右に大きく揺さぶられました。

「まずい、戻らないと。」いつもは機械を使って上げ下げするロープを、間に合わないと手で必死に外して海に下ろし、浜に戻ったそうです。

佐々木さん とんでもない揺れでしたよ。あと10分遅かったら、津波にやられてました。

津波は浜も襲いました。船はひっくり返り、出荷施設は壊滅状態。ホタテの養殖筏(いかだ)も全滅。ですが、佐々木さんは漁師をやめようとは考えませんでした。

17軒あった小石浜の生産者のうち、震災を機に引退したのは80代になる一軒だけ。地域全体で恋し浜のブランド復活を目指したのです。稚貝を仕入れて養殖を再開し、出荷を再開したのは2012年の冬のことでした。
 
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小石浜の湾はとても穏やかで、ホタテもストレスを感じず、美味しく成長する」と言う佐々木さん。

全線再開まで3年。三鉄マンの心意気

次に向かったのは、三鉄最南端、大船渡市の盛(さかり)駅。まず目に入ってきたのは、高級感のある紫色の車両でした。豪華な内装の三鉄のレトロ列車は、クエートから受けた震災の支援金の一部を使ってつくられたのだそうです。
 
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南リアス線レトロ列車の貸し切りは、盛─釜石駅間の往復で52,000円。プロポーズの機会に、ふたりだけで乗車された方もいるのだそう

三鉄は震災で橋や駅、線路など300カ所以上が被害を受けましたが、震災から5日後には北リアス線の一部で運行を再開。三陸の復興の象徴として、営業を再開する区間を広げてきました。三鉄南リアス線運行部長の吉田哲さんが、被災時の混乱ぶりを振り返り、長かった復旧の道のりについて話しました。
 
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大船渡市内や三鉄の被害の様子、復旧の状況を伺いました

吉田さん 震災当日、事務所2階の運行指令室にいました。揺れの後、近くの川から津波が遡(そ)上して、事務所の周辺にも流された車が押し寄せてきました。

浸水被害は1m程度にとどまりましたが、沿線の駅や線路が流されたり、がれきに埋もれたりして壊滅的な被害を受けた状況が分かって、正直、もう駄目かと思いました。

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津波の被害を受け、寸断された線路。写真は、大船渡市三陸町の三陸鉄道甫嶺駅付近

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大船渡市三陸町越喜来地区の震災前の街並み

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津波が襲った後の様子。上の写真と同じ、大船渡市三陸町越喜来地区

地道な復旧活動で2年後に南リアス線が一部区間で再開を果たすと、吉田さんは喜びで涙を流しました。

吉田さん 今年4月に全線復旧しましたが、復興したわけではありません。沿線はまちづくりが進まず、人口も減りました。利用者数は大きく落ち込み、厳しい経営が続いています。

三鉄には地域を振興する役割があります。今が復興へのスタートで、むしろこれから頑張らなくてはいけない。身の引き締まるような思いです。

吉田さんは「地元の利用者を増やす努力はもちろん、観光でいらしたお客様にも、また三鉄に乗りたいと思ってもらえるよう、地域ぐるみでおもてなしします」と笑顔で約束してくれました。

仮設商店街で、地元の味を堪能

夜は、仮設商店街「復興大船渡プレハブ横丁」へ。まだ灯りの少ない街の中心部にあり、焼き鳥屋やお好み焼き屋など約40店が元気に営業しています。私たちは地元の海産物を楽しめる「北の味処 鰣不知(ときしらず)」にお邪魔しました。
 
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三陸の夏の味覚、生ウニをひと口ずつ食べて、一同「う、うまい!」「美味しい!」と大絶賛。食事とお酒をいただきながら、岩手日報社の柏山さんに今回の旅をコーディネートしてくださった理由などを伺いました。

柏山さん 菜央さんやgreenz peopleのみなさんのように、岩手のことをこんなに考えてくれている人がいるんだなと思いました。ありがたいのと、嬉しいのと。

私たちはとにかく地元の状況をもっと全国に伝えたいんです。被災地視察でも、観光でも、ラーメンを食べにくるだけでもいい。まずは実際に来てもらって、知ってもらいたいんですよね。

消えた街並みと1700の命

三陸公開取材の旅2日目は、陸前高田市へ。中心部には15.8mもの津波が押し寄せ、壊滅的な被害を受けた被災地です。

現地の案内は、震災の「語り部」として活動している菅野コハルさん。陸前高田市の観光物産協会が窓口を担っている語り部ガイドのひとりです。
 
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震災前の写真を見せながら被害の大きさを話してくれました。上の写真は以前の高田松原の風景

市内を見下ろす高台にバスが停まり、菅野さんが被害の状況を語り始めます。

菅野さん 陸前高田市では震災で1,700人以上が亡くなりました。高田の街は津波ですっかり消えてしまった。県内一美しいと言われた砂浜と7万本の松の林があった高田松原も跡形なく、なくなってしまいました。たった一度の地震と津波で、です。残酷ですよ、津波は。

高田松原があった場所は海岸の復旧工事が進められていますが、松原の面影は少しもありません。1本だけ残った「奇跡の一本松」がかすかに見えるだけです。

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陸前高田市の中心部。震災前は街並みが広がっていました

各地に残る悲しみの記憶

菅野さんは、震災当時の話を続けます。

菅野さん 市の指定避難所になっていた体育館には約300人が逃げ込みましたが、津波が来て3人しか助かりませんでした。

あのビルの屋上まで津波が到達しました。ビルを所有する男性は、屋上のはしごにつかまって命からがら助かりましたが、避難所に向かわせた家族を亡くしてしまいました。

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震災の記憶をとどめておこうと、壊さずに震災遺構とすることになったビル。屋上に設置された看板の一つには津波の高さが示され、もう一つには「忘れないよ みんなで暮らした この町」とメッセージが書かれていました

話の一つ一つが心に重く響きます。聞きながら涙をぬぐう人もいました。

菅野さん 家も、家族も、仕事も失った人の絶望感は、計り知れません。震災から4年目に入りますが、これまで無我夢中で前を見てきたけど、前に進まない状況を見てさらに絶望感を感じてしまう。中には、自殺を考える人だっています。

私たちは、知り合いの顔色が優れないと感じたら、声を掛け合おうと話し合っているんです。

それでも車窓からは、少しずつまちづくりが始まっていることを知らせる景色も見えました。建設中の災害公営住宅や大規模な水耕栽培実験が行われているドーム型のハウス。被災した田んぼでは、昨年からコメの栽培が再開されました。
 
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水耕栽培実験が行われているドーム型ハウス

菅野さん 今年3月、高台の造成で大量に発生する土砂を市街地に向けて運ぶ巨大なベルトコンベアも稼働しました。これで復旧が加速すると思います。

津波の教訓を伝える石碑

菅野さんは、「津波慰霊碑」と書かれた石碑に案内してくれました。

三陸沿岸は過去に繰り返し津波に襲われています。震災の前には明治三陸津波(1896年)と昭和三陸津波(1933年)、石碑はこの2つの津波の教訓を伝えるために建てられたものでした。
 
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碑には「地震の後には津波が来る」「すぐに高台へ逃げること」「低い所に家を建てるな」と刻まれています

菅野さん これは先人が遺してくれた大切な教えです。被害があったということは、こうした教えを忘れ、守り切れなかったということでもあります。市内では、逃げろと言われても避難せずに亡くなった方も大勢いました。

菅野さんは、私たちにも心得を教えてくれました。海辺へ行ったら、高台に続く道を探しておくこと。非常時は身一つで逃げること。スムーズな避難のため、車を前向きに駐車にすること…。

自然の脅威に備える必要があるのは三陸に住む人々だけではありません。私たち全員が自然の中に生きる当事者であり、いつでも命を守れるように行動すべきだと、気づかされた瞬間でした。

それでも、海のある故郷で生きる

菅野さんの話からは、震災の辛さ、残酷さ、避難生活の大変さが伝わってきました。それでも海のあるこの街から離れず、むしろより強く愛着を持って暮らしているように感じられます。どんな気持ちで語り部の活動をしているのでしょうか。

菅野さん 私も同級生が大勢亡くなり、中には行方不明のままの友人もいます。最初は海を憎みました。

でも津波を憎んだのであって、海ではなかった。ここは、海や川や自然にあふれている、大好きな私の故郷なんです。

震災の記憶は辛いものです。忘れないと生きていけないのも事実ですが、忘れてはいけないこともあります。一瞬で人生を終わりにさせられた人のためにも、震災の記憶を語り継いでいきたいんです。今年3月までは、話をしながら泣いていましたよ。

 
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「命が助かったということは、やらなきゃいけないことがあるということです」と菅野さん

もう一つ、菅野さんが繰り返し話したことがあります。

菅野さん 家族がいて、当たり前の毎日を送ることがいかに幸せかを、私たちは震災を経験して痛感しました。

突然家族を失って、『もっと相手を大事にすれば良かった』『大切に思っていることを、伝えておけば良かった』と後悔した人がたくさんいます。みなさんも感謝の気持ちや相手を思う気持ちを、言葉にして大切な人に伝えてあげてくださいね。

「失くしても、人は動ける」

最後の食事は、やはりラーメン!磯ラーメンで人気の「こんの直売センター」(陸前高田市米崎町)へ向かいました。津波で被害を受けましたが、移転先で営業を再開したそうです。

ホタテとワカメ、海藻が載った「浜ラーメン」。夏の味覚、生ホヤも特別にいただきました。
 
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「シンプルな塩味で、素材の良さが分かる」「こんなに大きなホタテが2個も!」と一同大満足

そして旅の最後に、陸前高田市の伝統的な夏祭り「うごく七夕まつり」で山車を復活させた「森前組」の佐藤徳政さんに話を伺いました。
 
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佐藤徳政さん。「死ぬ気で活動しています。いきいきとした自分の姿を母や妹に見てほしいから」

うごく七夕まつりは、400年以上続く陸前高田の夏の風物詩。毎年8月に行われ、七夕飾りを付けた山車がお囃子に合わせて町を練り歩く様が評判でした。

地域の人は「森前組」として山車を作り、祭りに参加していましたが、震災で散り散りになり、山車も流されてしまいました。そこで佐藤さんやほかの若者が中心になって周囲に呼び掛け、2年半かけて祭りへの復活を果たしたそうです。

佐藤さんも、大好きだった祖母、母親、妹を一度に亡くしました。

佐藤さん 家族を亡くして、家もなくて。七夕までなくしたら、高田には何も残らない。故郷まで失いたくないんです。

俺には命があるから、七夕を復活させて、故郷を失うのを阻止しますよ。自分が津波ぐらい大きな影響力のある人間になって、後輩たちにもこの思いを伝えたいと思っています。何を失くしたって、人は動けるんだってことを。

山車の飾り付けは毎年、一から手づくりします。森前組はこの日も、8月7日に行われる祭りに向けて準備の真っ最中でした。住民だけでなく、佐藤さんたちの志に共感した仲間や遠方からの応援者も大勢手伝いに来ているそうです。
 
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森前組の地道な活動を、地域や遠方からの支援者が応援しています。写真は岩手日報社陸前高田支局の斎藤孟さん。佐藤さんの思いに共感し、「仲間」として一緒に盛りたてているそう。

「手伝ってくれる人は、ボランティアではなくて、一緒につくる仲間。気になった人はいつでも気軽に連絡してほしいし、来てほしい」と佐藤さん。森前組の活動は、Facebookページでも確認できます。

「距離感が縮まった」

さて、1泊2日の旅もそろそろ終わり。旅に参加したgreenz peopleのみなさんはどんなことを感じたのでしょうか。

ほんの一部でも話を聞かせてもらい、この地で共に時間を過ごすことで、どこか他人ごとになってしまいそうだった震災をぐっと引き寄せることができた。

食べ物が本当に美味しい。ぜひほかの人にも来てほしい。

東京との距離感を感じていたけど、地元の人の話を聞けて、コミュニケーションを取れた。淡々と生きる人の強さを感じました。連絡先を聞けた人もいるし、次はまた自分で来てみたい。

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森前組のみなさんと

旅を企画した菜央さんも、

菜央さん 日常生活がどれほど大切なものかってことと、命を大切にする生き方をしないと命は守れないんだってことをあらためて感じました。震災の話を聞きに来たけど、自分に関係ない話は全然なかった。結局は、人がどう生きていくかという話なんですね。

と振り返りました。

被災地に行って多くの人と触れ合えたのは、今回のツアーがあったからではありません。ほんの少し足を伸ばして、誰かと言葉を交わす。その気持ちがあれば大丈夫。悲しい現実もありますが、精一杯日々を生きている人たちから大切な気付きを得ることもあるでしょう。

グリーンズは、今後も公開取材の旅に続く企画を考えていきます。次は、あなたが現地を訪れてみませんか。