みなさんはワークショップに参加したことありますか?
まちづくりや企業での研修、アートやものづくりなど、さまざまな分野で参加・体験型の学びの場として今や主流となっています。greenz.jp読者のみなさんなら「参加したことがある」という人もかなり多いのではないでしょうか。
今日は長年、広告業界に身を置いて市民参加型の事業を展開する一方、ワークショップ企画プロデューサーとして、人と自然をつなぎなおすワークショップやファシリテーション講座で、社会全体にも参加型の場を広げてきた中野民夫さんにお話を伺いました。
至福の追求と社会変革
中野さんは2012年の春に30年勤めた博報堂を早期退社し、活動のフィールドを東京から京都に移しました。現在(2013年当時)は同志社大学政策学部と同大学院総合政策科学研究科ソーシャル・イノベーションコースで教鞭をとられています。
授業では、NPOで活躍する若手をゲストに招きながらNPOの設立まで学ぶ「NPO論」や、様々なセクターの協働についてのクラスなど「すべて参加型授業に挑戦中」とのこと。悩み多き学生とともに追求したいテーマは「至福の追求と社会変革」。至福を追求すれば社会が変わる?それってどういうことですか?
“至福の追求”とは“私欲”の追求ではなくて「これは放っておけない」という自分にとって切実なことに取り組むこと。身も心も歓びいのちがたぎるような歓び、あるいは試練に向き合い、怖れずについていくことが大事かなと。
今、多くの人が「社会を変えたい」と思っているし、その言葉を使います。「変えたい」という気持ちは大事だけど、「◯◯を変える」という他動詞は、「自分はわかっているのに、◯◯がわかっていないから変えてやる」という気持ちがどこかにあります。
そこには自己正当性とある種の暴力性をはらんでいて、そのまま押しつけると、結局「俺が正しい、お前が間違っている」にいきつき、ひいては争いや戦争につながったりする。
だから他者を変えることに終始するよりも、まずは自分がどれだけ理想に近づき豊かになったかが、“生き方・あり方”としてあふれ出さないと。そしたら「あの人いいな、なんか楽しそうだな」となって、他の人もそれぞれ自分が大切にしていることを追求する。そんな動きが色んなところで広がり、“自動詞の連鎖”の中で、気がついたら結構状況が変わっている。
そんなゆっくり静かに少しずつ起こる「やさしい革命」があってもいいのではと思っているんです。
自らが変わる道場「HUB Kyoto」
偶然か、必然か。中野さんが同志社大学にやって来られたのと時を同じくして、世の中をより良いものにする社会企業家のコミュニティ「HUB」の京都拠点をつくろうという動きが始まっていました。
2005年にロンドンからスタートした「HUB」は、社会起業家が学びや経験を共有しコラボレーションを促進する場として、現在世界約40都市に広がりをみせています。
中野さんは2012年の年末からコアメンバーの一人として加わり、合宿やミーティングを繰り返しながらオープニングに向けて準備してきました。
こうして先月末に誕生した「HUB Kyoto」でとりわけ重きを置くのが「セルフイノベーション」。「社会を変える前に、まずは自分が変わる。自らが社会を変える渦であれ」という、中野さんがずっと大切に育んできた世界観でもあります。
「HUB Kyoto」では若手起業家のためのピッチングの場となるようなイベントも多数企画中とか。楽しみですね! (C)HUB Kyoto
拠点となる場所は、もともと日本の伝統文化を教えていた学校で、茶室や能舞台、竹林が広がる、まさに静と動が共存する空間。呼吸を整えて自分自身を見つめ直すにはうってつけの“道場”です。「社会的な活動に多忙な人こそが瞑想しなければ」と言う中野さん。ここではどんなワークショップを展開していくのでしょうか?
「HUB Kyoto」でのワークショップのようす。『般若心経』のマントラをパッへルベル『カノン』のメロディーにのせて
「大学院を卒業したシンガーソングライターのKOZUと、自分であることと響きあうことをテーマに、『音楽と対話の夕べ』を企画したり」しているのだとか。
自分の声を聞き、相手の声にも耳を傾ける。ハーモニーを奏でるように、そんな深いコミュニケーションが広がれば平和でサステナブルな世界に繋がるはず。今、このような活動をしている中野さんですが、これまでどういう仕事をしてきたのでしょうか?
万博史上初!市民参加型の愛・地球博「地球市民村」
2005年3月~9月まで185日にわたって開かれた「愛・地球博」。中野さんは国内のNPOやNGOの合計30団体が、それぞれ海外の団体とパートナーを組み、毎月5ユニットずつ入れ替わり楽しくて学びになるプログラムを展開する「地球市民村」の企画と運営に携わりました。
中野さんたちは万博が始まる4年前から企画をはじめ、1年前からは公募で集った参加者とともに、まだ何もない開催予定地に立ち「ここで来年どんなことができるのでしょうか?」と問いかけることから出展準備をスタートさせました。
NGOのひとりからは「大量生産大量消費型のこの社会をつくりだしたのはあなたたちだ」と初対面の挨拶をされるほど、NGOと広告業界はギャップが大きい時代でした。万博会場計画での自然保護の問題もあって環境団体の反応も悪く、万博初のNGOビレッジは難問だらけだったそうです。くわえて出展準備のために何度もワークショップを行うという中野さんの提案には不満も続出。
ところが、中野さんはただ静かに答えました。
「みなさんがやろうとしているのは、分野もアプローチも違うけどつきつめれば『持続可能な社会』をつくることですよね?だったらそのために、来場者が楽しみながら学べる場にしましょうよ」。
中野さんは参加者とともに重ねたワークショップは計10回。企画から開催までに要した時間は4年間。参加した30ユニット100団体が国籍も立場も活動内容も越えて、徐々にひとつの、魅力的な場所をつくりあげていく、まさに“協働”の姿がそこにはありました。
博報堂勤務時最後の日の中野民夫さん
ポジティブなスパイラルの仕掛け人
2009年横浜開港150周年を機にした市民参加型都市ブランディング「イマジン・ヨコハマ」では「横浜が好き」という共通の思いのもとに多くのボランティアが集いました。
国内最大規模となる500人の「ワールドカフェ」、ボランティアが好きな場所で自主的に展開したワークショップ「出張ワークショップ」、街と自分とのつながりを2人一組になって問い合う「つながりインタビュー」などなど、若手中心の博報堂のチームをサポートして、さまざまなかたちで市民が街の魅力を発見できるように仕掛けました。
どれも「自分」と「自分が住む街」のつながりをていねいにたどることで、これまで行政に委ねてしまっていた街づくりを、ひとりひとりが「自分ごと」にぐっと引き寄せるプロジェクトとなりました。
僕らが目指していたのは、有名なコピーライターやデザイナーが外からキャッチコピーやロゴマークつくったりする従来のブランディングではなかったんです。たとえいいものできても、それを役所が上から下ろしたところで、市民はなかなか動かない。それより街のことを想う市民自身が自ら参加しながら内側から火がつくような、ひとつの「運動」にしたいと思っていました。
こちらはワークショップに参加した人に点火しながら、思いやアイデアをたくさん引き出して、それを最後にえいとまとめて。それからようやくクリエイターがメッセージやロゴに表現していったんです。
「ワールドカフェ」では「横浜はなぜわたしたちを魅きつけるのか?」「50年後、街はどうなっている?」など現在の自分と街と未来をつなげて考える問いがたてられました
対話の中で人々の街への思いがあふれた模造紙のメモ
また、2009年に手掛けた都市ブランディング事業「宇都宮プライド」では100人規模のキックオフ・ワークショップの企画、ファシリテーションを担当。そこから始まった一連の市民参加の動きの中から、最終的に参加者が抱く街への思いをもとに「住めば愉快だ宇都宮」というキャッチコピーが生まれたそうです。
プロジェクト開始から4年経った現在でも、そこから始まった市民の自主的な動きは展開しているとか。中野さんたちの意図したところは、自分たちがすでに持っているものを見直したり、「もっとこうしたい」を引きだして仲間とともに動き出すきっかけをつくることでした。
学生時代は精神世界の旅人だった
学生時代から社会の諸問題に関心があった中野さんは、1970年代から“自己解放”(※異世界と出会うことで自己を拡げること)を目指して、東南アジア、インド、ネパール、中南米、と何度も旅に出ました。病に侵され目も鼻もない乞食。貧困の中にあってもただひたすら生きる市井の人々。いくつもの出会いを経て「みんなそれぞれの場所で頑張っている。他のどこでもなく、僕も自分の場で頑張ろう」と思い至りました。
そして「これだけ心が自由になれたのなら、今まで「搾取ばかりしている」と否定していた日本企業の中に入って内側から変えていこう」と決意。「これからはネクタイ菩薩(※既成社会のただ中でがんばる人)になるんだ」と博報堂に入社しました。
精神性と社会性をひとつに統合するワークショップ
高い志を抱いて入社したものの、現実は厳しく初任勤務地の大阪で悩みの日々。東京に異動し、今度はバブル期に向かって億単位の仕事にはまって奔走していた入社7年目のある日「これで良かったんだっけ?」という疑問がよぎりました。まさに「ミイラとりがミイラになってしまった」自分を立て直すため、留学を決意します。
中野さんは会社員として激務をこなしながらも1988年には「NO NUKES ONE LOVE いのちの祭り」という脱原発色の強いイベントで実行委員を務めるほどの“平和指向”。1991年の湾岸戦争開始の瞬間を留学先のサンフランシスコで迎えていました。矢も盾もたまらぬ気持ちで現地に住む日本人同士で話し合う場を持ったり、反戦の様子を映像で記録したりしながら、こう問い続けました。「
誰も人を殺したいとか環境を壊したいとか思わないのに、平和も環境も保てないのはなぜか?
」
そして3つの根本原因をさぐりあてました。
2「“在る”よりも“する”ことへの強迫」
3「自分をあらわにできる場が少ない」
この3つがさまざまな場面で作用して「人々を過度の競争に駆りたてたり、勝者が一方的に搾取することにつながる」と言います。
そしてこれらを乗り越えるために、忙しい日常から立ち止まり、自然も人間もつながりあっているということが体験でき、率直に対話できる道場「本然庵」を屋久島に建てました。大自然の中で、呼吸法や瞑想をとりいれたオリジナルなワークショップを展開し、本来の自分自身を発見して、社会的な問題解決へのヒントにつなげていくのがポイントです。
精神性だけ重視すると「自分の見方が変われば世界が変わる」となってしまう。でもこれだけだと為政者に都合が良いおとなしい人になってしまう。逆に「拳を上げて」行政や企業などと敵対するだけだと、自分にもつらくて、燃え尽きたりする。精神性と社会性、自利と利他という溝が深かったふたつをひとつに統合するのが大事だと思っています。
屋久島の間伐材で建てた「本然庵」は、“本来の自分の自然”に戻るための道場
立教大学大学院の「屋久島集中講義」では、まず川にそのまま入ってしまうとか
自分だけを変えるのでもなく、他者と対立するのでもない。中野さんは「自分をまずは変えなきゃいけないというのもある意味自分に暴力的だ」と言います。まずは自らを楽に豊かにする。それと同時に自分とつながっている他者や社会の課題に取り組む。このふたつのバランス感覚を養いたい!という方は、中野さんのワークショップにぜひ参加してみてください。