宮城県・牡鹿半島。津波により大きな被害を受けた小さな漁村で今、お母さんたちによるミサンガ作りが行われています。材料は漁師さんが使う漁網の修復糸。ひとつひとつ丁寧に編まれたミサンガは、イベント会場などでの販売で好評を得て、製作が追いつかないほどなのだとか。
10人の、通称 “マーマメイド” たちが作るカラフルで丈夫なミサンガ。その一つひとつには、震災に負けず気高く生きる牡鹿半島の人々の復興への願いが込められています。
このミサンガ作りをお母さんたちと一緒に始め、販売のお手伝いをしているのは友廣(ともひろ)裕一さん。友廣さんは、「トモノテ」という復興支援プロジェクトを仲間と共に立ち上げ、現地で活動しています。牡鹿半島で、漁網を使ったミサンガ作りの経験があるという女性と出会い、約10人のお母さんたちと共に製作に着手。現在までに約800本を作り、全国各地で開催されるイベントを中心に、1つ1,000円で販売しています。ある企業からは、全社員分まとめて50本の注文が入るなど売上は好調で、その収益は全額お母さんたちに届けられています。
ミサンガ誕生までのストーリー
このミサンガができるまでの経緯について、友廣さんにお話を聞きました。
震災から約2ヶ月が経った5月。当時の牡鹿半島は、ボランティアの手も行き届かず、ガレキが散乱した状態でした。そんな中、ボランティアとして現地で活動していた友廣さんがひとりで小さな集落を訪れた時に目にしたのは、沢から水をひき、ドラム缶で火を焚く母と、その横でガレキを使って遊んでいる子どもたちの姿。電気・ガス・水道が全て止まっている状況の中でも笑顔を見せながら生きる人々のたくましい生き様でした。
震災直後から、石巻や仙台でボランティアのリーダーとして避難所とNPOをつなげる活動をしていたんですが、当時はある意味決められた仕事をこなして動いていたので、自分がどう立ち回るべきなのか、一体何がよくて何が悪いのかの分からない日々が続きました。とにかく目の前のミッションに必死で。
でも、牡鹿半島でこの光景を見て、風景と、そこで生きている人の心の状況ってリンクしてないんだなって思って。なんか、すごくちゃんと気高く生きてらっしゃるんですよ。「支援され過ぎても立ち直りにくくなるから必要ないものは受け取らない」という言葉も何度か聞いて。出会いを重ねるうちに、「僕はこういう人たちとやっていくんやな」っていうのがなんとなく見えてきて、自然に関われるようになって来たんです。
友廣さんのプロフィールを少し説明させていただくと、25歳の時に半年かけて日本の“限界集落”と呼ばれる地域を、彼らの仕事を手伝いながら旅して周り、現在はアミタ持続可能経済研究所のアソシエイトフェローという所属を持ちながら、フリーランスとしてこれまで出会った地域を訪ねるツアーを開催したり、東京で地域を考えるイベントを開催したりと、“地域” をキーワードに多方面に渡り活躍されています。この牡鹿半島での出会いで友廣さんが気付いたこと、それは、「自分がすべきことは、これまでやってきたことと変わらない」ということだったそうです。
確かにすごい悲しんでる人と一緒に涙流したり、「がんばって」と言う人の存在も大事かもしれないけど、僕はそんな中でも前に進もうとしている人たちの後ろをちょっと支えたり、一緒に進むようなことができたらいいのかな、と思って。それって今までやってきたこととあんまり変わらんな、って思ったんです。旅で出会った人に声かけてもらって「こういう村にしていきたい」という声を聞いて、プロジェクトやツアーやったり、物を作って売ったり。そんなに変わらないな、と。
友廣さんは、この気付きを機に、出会った人と話をすることを始めます。そして、お母さんたちのパートの収入がなくなってしまったことで教育費や医療費を工面するのに苦労しているという現状を耳にするのです。お父さんにはガレキ撤去などの作業がありますが、お母さんたちの働いていた牡蠣剥き工場や浜でのパートの仕事は全てなくなってしまった、「月5万でも稼げたら」と。
そして、さらに話を聞くうちに、ずっと前からミサンガ作りをしていて、漁網の修復糸でも作ったことがあるという漁家の女性に出会います。ピンときた友廣さんは、その女性に先生になってもらい、その時一緒にいた10人ほどのお母さんたちと一緒に、ミサンガ作りを始めます。糸は、友廣さんがこれまでお世話になってきたという、新島、高知、沖縄などの漁村から送ってもらい、時には染めてもらったのを買ってきて材料を揃えました。
友廣さんやその仲間のネットワークを活かして全国各地のイベントなどを中心に販売したところ、売れ行きは好調。お母さんたちからは、「一人では嫌なことも考えるけど、みんなでワイワイやっていたら楽しい」「今までは話だけで消えていたのに、実際自分で作ったものがお金になって見えて来たのがうれしい」という声が届いているのだとか。現在は牡鹿半島・牡鹿町(鮎川浜・新山浜)に加え、石巻市雄勝町でも製作をしているそうです。
でも、このミサンガ製作は、あくまでチャリティグッズ。お金が貯まったら、お母さんたちには次なる目標があるようです。
ある程度売らせてもらえたら、そのお金で次の仕事を作ろうとみんなで話しています。元々、お母さんたちは商品として使われなかった水産物の加工場みたいなものを作りたいと言っていて、その初期投資を集めることを目標にがんばっています。
うれしいことに、今、漁業も少しずつ動き出してきているんですよ。船をくれる人がいて再開したり、民宿を元々やっていた人のところに工事業者の方が泊まりに来たりして、けっこうみんな忙しくなってきてる。ミサンガづくりに充てる時間も短くなっているけど、これから漁業が始まって、お母さんたちが自分たちで土地のものを加工して仕事にしていけたらいいですね。
水産物の加工場という、お母さんたちの新たな職場を作るための、ミサンガ作り。継続的な仕事をつくるためのこの仕事は、お母さんたちに希望と勇気を与えてくれています。
「特別な存在としてではなく一人ひとりとミクロな関係で」友廣さんの関わり方
さて、ここまではミサンガ作りのプロジェクトを紹介してきましたが、友廣さんがこれまでに現地で始めたプロジェクトは、これだけに留まりません。
5月から継続しているのは、石巻港にある「木の屋石巻水産」での缶詰拾い作業。流された缶詰を一つひとつ拾い集めて “希望の缶詰” として販売し、復興支援の費用に充てるお手伝いをしてきました。その成果も手伝って、現在では、OEMで物作りを始める段階に移行していると言います。
また、アジアで働く仲間と一緒に、原宿と、ベトナム、カンボジア、タイをスカイプでつなぐイベントを開催して、アジアの人々が日本に対して持っている「何かしたい」という思いについてディスカッションの場を設けたり、ミサンガと同じように牡鹿半島の鹿の角でアクセサリーを作って販売することにも着手。そして、現在取り組んでいるのは、東京で料理人の仕事をしていた石巻市出身の若者と一緒に集落を回り、地元で文化として根付いている “お茶っこ” を開催する「しゃべっちゃプロジェクト」。車で移動しながらお茶飲み会を開催することによって、できるだけ仮設住宅から外に出る機会を提供し、地域のコミュニケーションを継続して行くための場作りを始めました。
友廣さんのどの活動にも共通しているのは、街づくりや復興といった大きな括りの、言わばマクロで見た取り組みではなくて、そこに、一対一で顔の見える人と人のミクロな関わりがあるということです。そこには、友廣さんが震災直後からボランティアとして関わる中で持っていたある違和感から得た気付きが大きく影響しているようです。
僕の中では、“被災者”っていう言葉に違和感を感じていたというか、そんな人はいないんじゃないかと思って。被災した瞬間は被災者かもしれないけど、ある程度自分たちの中で「前に進もう」とした瞬間に、もう“被災者”ではないな、と。普通の一人の人間と言うんでしょうか。被災者として、弱くて悲しんでてほしいボランティアの人たちと、そうやって扱ってほしい被災者の方の関係って、なんかすごくバーチャルと言うか虚像なんですよ。
不謹慎かもしれないですが、子どもを交通事故でなくしたお母さんと、津波で家族を亡くした人、それはミクロな視点で、一人ひとりのストーリーで見たら、そんなに変わらないはずなんですよね。こっちから見てると、ものすごくたくさんの人が亡くなって、たくさんの家が流されて、ものすごい悲しみを抱えているように思うんですけど、でも、一人の人が抱えることができる悲しみは、そんなに特別なものじゃないんじゃないかな、と思って。
だから、被災地にいる人を極端に特別な存在として見るのもおかしくて、実際に平時に悲しみを抱えている人がいたら何とかしたいと思うし、自分にできることは何かな、って考えるし。それでいいんやな、っていうか、そういうことしかできないし、って思ったら楽になりました。自分が出会った人のために自分ができることをやるっていうスタンスで。
“被災者”というレッテルを貼って特別な存在として見ないこと。一人ひとりとのミクロな関わりは、復興支援という枠を越え、彼らと、これまで友廣さんが関わって来た人たちとをつなげる取り組みにつながっていきそうです。
今も秋田や高知に行ったりしているんですけど、そういう地域の人たちの仕事とも、自然につながってくるところもあるはずだし、どんどんつなげていきたい。自分の中で、今関わっている地域の一つとして、同じスタンスで継続的に関わっていこう、と思っています。「困っているからなんとかしてよ」じゃなくて、「ここにステキな人とか、おいしいものがあるから行こうよ」っていう純粋な感じで勧められる関係でいたいなって。
今回、友廣さんにお話を聞いた目的のひとつは、私たちが「被災地と関わり続ける」方法について探ってみたいと思ったからです。友廣さんはこれに対し、「“みんな”がどう関わるか、と考えると分からなくなるけど、一人ひとりで考えると、たぶん関わり方はある」と教えてくれました。
“被災者”なんていない。そう気付いた時、友廣さんは「いつもやっていることと同じ」ような関わり方ができるようになりました。そしてそれは、本当の意味でサステナブルな被災者(と呼ぶと友廣さんに怒られてしまうかもしれませんが…)との関わりとなり、継続的な支援につながっていくのだと思います。
“被災者”がいないのと同じように、“私たち”なんていないですよね。「支援したい一人ひとり」と、「支援を必要としている一人ひとり」という視点で考えることは、小さくても継続的に支援が成立するカギになるのでは? そんなことを感じさせてくれる友廣さんの被災地での取り組みを、これからも追い続けて行きたいと思います。
☆友廣さんからお知らせとお願い☆
現在、お母さんたちのミサンガづくりの作業場がないため、トレーラーカーやプレハブを調達できないかと探していらっしゃるとのことです。もしご協力いただける方は、友廣さん(@tomohy)までご一報ください。みなさんのあたたかいご協力をお願い致します!
ミサンガプロジェクトの販売情報などもこちらでチェック。