福島第一原発で起きた原子力発電所の事故は、想定外の事態が起きた場合の原発の危険性を明白なものとしました。今、原発は“安全性”という大きな問題に直面しているわけですが、同時にもうひとつの問題を抱え続けてもいます。それは“核廃棄物”の問題です。
原発から出る放射性廃棄物、特に高レベル放射性廃棄物について最終的にどのように処理するのかが未だ決まっていないのです。そんな中、フィンランドのオルキルオトに最終処分場“オンカロ”が建設されようとしています。現在、渋谷アップリンク他、全国で劇場公開中の映画『100,000年後の安全』はそのオンカロの建築現場とそれに関わる企業や役所の関係者へのインタビューで構成されるドキュメンタリーなのです。
しかし、このドキュメンタリーは少し変わった始まり方をします。暗闇でマッチをすった男の語りから始まるこの映画、その語りが向けられているのは未来の誰かなのです。このオンカロは放射性廃棄物が無害になるまでの10万年間耐えられるよう建設される予定ですが、その10万年間のどこかで誰かがこのオンカロに侵入したという仮定で話は進みます。
この語りはかなり独特な効果を生みます。設定上は未来の誰かに語りかけているわけですが、実際に語りかけられているのは観客であるわたしたちです。その結果、観客と未来の誰かは重なり合い、観客は「未来の誰か」としてオンカロに歩みを進めることになるのです。
そして、映像がその効果をさらに高めます。アーティスティックに掘削中のトンネルを映した映像にほとんど人間は登場せず、登場したとしても集団ではなく一人か二人だけです。そのことによって、まるで彼らが建築現場の作業員ではなく、未知の洞窟を探検している未来人であるかのような感覚を覚えさせられます。その未来人はもちろん語りかけられている「誰か」であり、さらに言えば観客である「わたし」でもあるという印象を受けるのです。
そのような目で映像を見ると、岩肌につけられた工事のための目印(数字や×印)はまるで古代の壁画かのようにも見えてきます。巨大で人知を超えた神秘的な空間、そのようにも見えてくるのです。
この映画が考えようとしているのは主に10万年という「時間」のことです。そのような途方もない時間を設定してしまうと、すべてがどこか非現実的に感じられてしまいます。人類や地球はどうなっているのかまったく想像がつかない中で、具体的に何をすればいいのかを考えるというのは空をつかむようなものです。
特に「この施設に立ち入るべきではない」ということをどのように未来の人々に伝えればよいのか(施設の存在が忘れ去られてしまうかもしれないし、言葉で警告しようにも言語が変化してしまっているかもしれない)という問題にはまったく現実感がありません。何をどう想定してどう議論を進めて行けばいいのか、まったく見当も付かないのです。
しかしわたしたちが25万トンもの放射性廃棄物を抱えているということは間違いのない現実です。その紛れもなく現実的な問題を解決しようとすると、それが非現実的なモノにすりかわってしまう、これがこの映画のミソであり、原発問題を象徴的にあらわしてもいるのです。
捉えがたいがために思考停止に陥ってしまいがちな原発問題、この映画はその捉えがたさをあえて描くことで「考えなければならない」ということをわたしたちに訴えかけるのです。原発に賛成にしろ反対にしろ、今あるこの廃棄物は何とかしなければならない。それをどうするかを考えていく中で、改めて原発をどう捉えるかも考えるようになる。そうやって一歩ずつ進んでいくことを求めているのです。
(2009年/79分/デンマーク、フィンランド、スウェーデン、イタリア/英語/カラー/16:9/ビデオ)
監督・脚本:マイケル・マドセン
脚本:イェスパー・バーグマン
撮影:ヘイキ・ファーム
編集:ダニエル・デンシック
出演:T・アイカス、C・R・ブロケンハイム、M・イェンセン、B・ルンドクヴィスト、W・パイレ、E・ロウコラ、S・サヴォリンネ、T・セッパラ、P・ヴィキベリ
配給・宣伝:アップリンク
*アップリンクをはじめとする一部の劇場では、入場料のうち200円を東日本大震災の義援金として寄付しています。
*GWにはゲストを迎えて「未来を語るイベント」も行われます。
日程は
4/28 19:30「チェルノブイリの今とフクシマ」ゲスト:広河隆一(ジャーナリスト)
4/29 13:50「世界の原発事情~フィンランド編」ゲスト:須永昌博(スウェーデン社会研究所)
4/30 13:50「廃炉という選択~日本の核廃棄物処理の現状」ゲスト:舘野淳(中央大学商学部教授)
5/2 19:30「原発に変わるエネルギー」ゲスト:飯田哲也(環境エネルギー政策研究所)
詳細は公式HPをご覧ください
『100,000年後の安全』を観に行く