1本のねじ
2014年秋、僕らは小屋を建てていた。小さく暮らしていこうと決めて購入した75坪の土地に5.5畳のロフト付きの小屋を建てることにしたのだ。秋の長雨が晴れて、気持ちがいい天気の中、SNSで呼びかけた友人や知り合いがたくさん手伝いに来てくれた。その日、ささいだけれども、忘れられない出来事があった。
遠方からわざわざ参加してくれた、ある女性が小屋にインパクトドライバーでビス(ねじ)を一本打ち込んだ後、心の底からの笑顔になったのだ。
その笑顔に喜びを感じつつ、「ただネジを一本打ち込んだだけで、なにがそんなに嬉しいんだろう?」という疑問がずっと心に残っていた。
その答えが突然降ってきたのは、それからずいぶん経ってからだ。「そうか、彼女は自分の中の生きる力を実感したんだ!」。なにもできない消費者とは違う自分を発見して、嬉しくなったんだ。自分にもなにかをつくれるという喜びを実感した笑顔だったんだ、と。
そういえば僕自身にも、そういう瞬間があった。大学を卒業してから1年を過ごした「アジア学院」でのことだ。アジア学院はアジア、アフリカ、太平洋諸国の農村地域から、その土地に根を張り、その土地の人々と共に働く“草の根”の農村リーダーを学生として招いて、国籍、宗教、民族、習慣、価値観などの違いを認めつつ、公正で平和な社会実現のために、実践的な学びを行っている学校だ。
その日、僕はさまざまな国から来た研修生とともに草むしりをしていた。他愛のない話をしながら、黙々と草をむしっていく。ブチッ、ブチブチッ。そんなとき、突如、実感が降ってきた。「ああ、生きていくってこういうことか!」と。
都会に生まれて都会に育った僕は、生きているという実感を感じたことがなかった。死ぬという感覚もよくわからなかった。自分には生きる力がない、みんなの役に立つことはできない、そういう無力感を感じて生きていた。
思い返せば、アジア学院での暮らしはすべてがDIYだった。 言うまでもないが、DIYとは、Do It Yourself(自分でやろう)という意味である。アジア学院で僕らは食べ物をつくり、料理をし、保存食をつくった。たまごやジャムを売り、自ら経済をつくった。小屋を建て、建物を修理し、自転車を直す。遊びを自分で考え、みなで楽しむ。コミュニティを育て、祭りを共につくる。自然と調和した暮らしをつくり、活動全体を通して持続可能な社会を実現することを目指した。
種をまき、育ちを助け、収穫してみなで料理する。秋の収穫祭では、それぞれができることを持ち寄って祭りをつくり上げる。そんな日常の、なにげない草むしりの瞬間に、その実感はやってきたのである。僕も仲間の一員として、役に立てるのかもという充実感。みんなで協力して生きていけるという安心感。まるで世界の一員として認められたような深い充足感。そういういろいろな実感が心の底から沸き起こってきて、僕の体はいっぱいに満たされた。
みんながそんなふうに生きられたら、どんなにステキだろう? その感覚を頼りに、greenz.jpを創刊して、今まで活動してきたと言っても言い過ぎではないと思う。
暮らしをつくる喜び、人生をつくる喜び
つくづく思うけれど、僕らは生きる力を失い、つくる喜びを知らない世代だ。76年生まれの僕は生まれたときにはあらゆる商品、サービス、モノに囲まれていた。成長するにつれ、そういう世界は加速していった。僕が小学校に上がる頃、テレビは各家庭に一つずつだった。画面サイズはどんどん大きくなり、各部屋に一台になり、みんなテレビ中毒になっていった。テレビゲームが大流行して、自分で遊びをつくる子どもは減っていった。
僕らの世界は、広告で彩られていった。とてつもない数の広告を浴びて、次々と買って、次々と捨てた。サービスは張り巡らされていった。モノはどんどん安くなっていった。買えるモノがどんどん増えた。
暮らしはどんどん便利になっていったけど、相対的に、僕らはできることを失っていったのではないだろうか。食べ物がどこから来るか知らない。水は蛇口をひねると出る。自動販売機が壊れたら、別の自販機で買う。家のトラブルは業者に頼む。着ている服のボタンがとれたら新しい服を買う。同じマンションに住んでいる人と知り合うのはめんどくさい。自分が出した汚物はレバーを引けば目の前から消える。
すべてをお金に換算する社会で、僕らは純粋培養の消費者として育てられた。隣の家に住む人も知らず、地域のことも知らない。つながりがなくたって、快適に生きていける。暮らしのすべてが、大きなシステムに組み込まれていく。そこでのぼくは、何のために存在しているのか? というか、僕は存在しているのか?
孤立、不安
その結果、僕らの心の中には、静かで見えない不安・無力感が広がっているように思う。お金がないと生きていけない不安。仕事を失ったら転落してしまうかもしれない不安。災害が起きた時に家族を守れるだろうか? という不安。自分で自分の人生を決定する力がほとんどない、という無力感。
その不安・無力感はどこから来るんだろうか? 僕は、僕らが社会全体でマネー資本主義をつくり出し、支援して、補強して、存続させているからだと思っている。
マネー資本主義が支配する社会では、利益を最大化することが最大のゴールになる。利益を最大化するにはどうすればいいか? 利益はマーケット(商品が売れる場)の大きさx客単価で決まる。すでにあるマーケットはより拡大しようと最大限の努力をする。マーケットがないなら、マーケットを創出しようとする力が働く。その結果、水を飲むことから結婚まで、ありとあらゆる領域がマーケット化され、マーケットがより大きくなるように力が働く。そこでの個人は無力そのものだ。
家族や親戚、近隣の人で無償でやりとりされていたものもすべて解体され、消費に組み込まれていく。幸せは求められない。幸せはお金にならないから。かくて僕らはどんどん不幸になっていくのだ。ある意味、人間を大事にしないマネー資本主義は集団でかかる病であり、中毒状態だと思う。
DIY精神
では、どうすればいいか? 僕の考えはシンプルだ。
1)Do It Yourselt精神を持つ。
2)マネー資本主義への依存を減らす。
3)DIYのコミュニティとつながる。
その第一歩となるのが、DIY精神だ。マネー資本主義は僕らを幸せにはしてくれない。むしろ不幸にする。どうやったら幸せになれるか? それはDIY精神をもつことだ。暮らしを、自分でつくる。すべてをつくる必要はない。自分でできることを少しずつ増やしていけばいい。自分でできないことは友達に頼めばいい。お金を払ったほうが便利なこともたくさんあるから、それはそれを活用する。自分の幸せは、自分たちでつくれるのだ。
二つ目は、マネー資本主義への依存を減らすことだ。ついつい毎日買っちゃう飲み物。忙しくて食べちゃうコンビニ弁当。溜まったストレスを発散するための旅行。気がつくと稼ぐよりも使っちゃう。それが依存状態だ。人間を大事にしないマネー資本主義、一人ひとりの依存を要求するシステムとの関係を、小さくしていくことが大事だ。水筒に手づくりの飲み物を入れて持っていくといった気軽なところから始めればいい。
3つめは、DIYのコミュニティとつながることだ。DIYをはじめてみると、同じ興味を持った人とつながることの面白さを知る。一緒に作業をしたり、お互いを手伝い合ったりするようになる。また、DIYをはじめると、自分ひとりの力の限界を知ることになる。興味のある範囲だって人それぞれ違う。僕は保存食、あなたは楽器づくり、というように。それぞれの違いを活かしてつながり合うほうが、ずっと豊かだ。
もし心が動いたら、この1〜3を、ぜひやってみてほしい。冒頭で僕が紹介した、インパクトドライバーを打ち込んだ女性のように、あなたにも「生きる喜び」が湧き上がってくることを保証する。